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Chap.1 X in Unknownland
Chap.1 Sec.11
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濡れた髪が、冷たい。
水分がじわじわと布地に染み込んで、ゆっくりと体温を奪っていく。
ティアは何かを取りに行ってくれたのか、奥の部屋に消えた。
背後の、ディスプレイの前に座るセトを、振り返ってみた。ヘッドレストの隙間から後頭部しか見えない。頭につけているのは、なんの機械だろうか。ヘッドフォンにも見える。
先ほどの、シャワールームでの一件が頭に浮かんだ。急激に態度が変わったあの瞬間、おそらく性的な行為を求められたのだと思う。あまりに急だったので、とっさにシャワーのスイッチを押してしまった。しかも、これは偶然なのだが……最大値で。
勢いよく流れ出たシャワーは痛かったが、あれで思いとどまってくれたのが幸いだった。その後のセトは、怖いほど不機嫌だったけれど。
ただ、そう。問題はそこじゃない。
『——約束が、違うのではないか?』
まるで私の思考に応えるように、サクラの声が耳に届いた。
心臓が跳ねる。通路を挟んでテーブルの反対にある長いソファの上、脚を乗せて横に座った彼は、書物を眺めており、こちらを見ていない。セトは耳を塞いでいるからか何も反応しない。
私への、問いかけだ。そのための言語なのだから、考えるまでもないのに。
『性交渉を受け入れる——という話だったと思うが』
どくどくと鼓動が速まる。言葉が出てこない。セトがティアにシャワールームのことを話していたのなら、なんと言ったのだろう。それを知れない以上、どんな言い訳が正しいのか分からない。
沈黙したままの私に、サクラが眼鏡越しの横目を流して微笑する。
『まあいい。……だが、夜は仕事をしてもらおうか』
このひとは——なぜ、そこまで美しく笑えるのだろう。
私の立場を、知っていながら。
そんなにも綺麗に笑えるなんて、どこか狂っている。
私がなにも返さないのを了承と取ったのか、彼はまた、手許の本に目を落とした。本をめくる音が、静寂に響く。ティアが戻ってくるまでのあいだ、その静けさのなかで、じっと息をひそめていた。
「——はい、タオル」
「……アリガトウ」
「ふふ、どういたしまして」
戻ってきたティアは、柔らかなタオルを2枚手にしていた。1枚私の肩にかけ、もう1枚をどうするのかと見ていたら、私の頭を包み込んで拭き始めた。優しく、髪を傷めないように。まるで子を慈しむ親のようだ。両親の記憶はないので、いたかどうかも分からずイメージでしかない。ひょっとすると、私には子どもがいた可能性だってあるのだろうか。
『自分で、やります』
居心地がわるくて、頭上のタオルへと手を伸ばし受け取ろうとした。
しかしティアは笑うだけで、譲ってくれる気配はない。
「もう終わったよ」
ぽんっと頭を触られて、タオルを外された。
「——さて。……あのね、セト君が、君に言葉を教えるよう言ってるんだけど……」
ティアの細長い指先がセトを示し、次に私の唇をさす。短い爪に水色のマニキュアが塗られている。いや、マニキュアと断定はできない。けれど、人工的な色。
「共通語、覚えたい?」
掌を閉じたり、開いたり。私がティアの仕種を読み解いていると、ティアが口を大げさに動かした。
「〈ありがとう〉みたいに。ほかの言葉も、覚えたい?」
なんとなく、話してくれていることが分かった。頷いて肯定を返す。ティアは納得したように頷き返してくれる。
「うん、だったら、寝るまでのあいだ……すこし、勉強しようか」
ティアが向かい合わせの席に着いた。
「まずは、挨拶ね。こんにちは」
ティアが片手を上げた。私も同じように上げてみる。
「コンニチハ」
「手は上げなくてもいいよ。分かりやすいかと思ってやってみただけだから」
やんわりとティアに手を下ろされた。
「僕の、名前は、ティア」
今のは自己紹介だと分かった。ティアの名前が入っている。そうなると、最初のは挨拶で間違いない。
「きみの、名前は? ……あ、まってまって。君の名前どうしよう?」
ティアがあわてて首を振った。何か考え込むように、うーんとうなっている。
「ウサギにしようぜ」
——唐突に。背後から肩を掴まれ、ひぁっと変な声が出ていた。振り仰ぐと、セトが意地の悪い笑みを浮かべて私を見下ろしていた。肩を掴まれるまで、まったく気配に気づかなかった。
ティアは見えていたからか驚くことなく、不思議そうな顔でセトを見た。
「え? なんでrabbitなの?」
「そんな眼してるだろ。hareでもいいけどよ、ウサギのほうがしっくりくるだろ?」
「そう? ……え~、でもなぁ……うーん……あ。じゃ、アリスは? アリスちゃん」
「は? それこそなんでだよ」
「うさぎを追いかけて、不思議な世界に迷いこむ子供の名前。古い児童文学だよ。小さいころ、プレゼントで紙の本をもらってさ。よく読んでたんだよね……セト君は知らないかな? 不思議の国のアリスっていう……」
「話は知らねぇけど、ゲームなら知ってる。トランプの兵隊とか撃ち殺すやつ。ウサギが狂った世界に連れていくっていう設定だったな。……ん? ネコだったか?」
「なにそのゲーム、怖い」
「ハウスにあるぞ。ロキが規制を外したから、死ぬとこもリアルでなかなか凝ってる」
「そんな野蛮なゲームばっかりして。もっと健全に遊びなよ」
「けっこう役に立つけどな。獲物を狩るときとか」
「……うん、セト君は人生が野蛮だったね」
「それは褒めてるんだよな?」
「うんうん。……ということで、僕、君のことをアリスって呼んでもいいかな?」
ふたりで話していたと思ったら、ティアが前ぶれなく私の方を向いた。
「私の、名前は、アリス。……いい?」
先ほどの自己紹介のトーンで、私を指さしたまま、尋ねてくる。ティアの名前が入っていた部分が異なっている。私の呼び名を考えてくれていたのだろうか。どうせ自分の名前は分からないので、頷いておく。
「うん、じゃ、アリスちゃんね」
「——まてよ。ウサギはどこいったんだよ」
「え? だからうさぎから連想してアリスになったでしょ?」
「それじゃウサギを追う側だろ。意味が変わるじゃねぇか」
「え~? そんなよく分からない文句を言われても……」
「俺は呼ばねぇからな。おい、お前、ウサギでいいな?」
肩を掴まれたところが痛い。セトは見かけどおり力が強い。肩に圧力をかけられたので、よく分からないが同意した。まさか私の呼び名で議論しているわけではないと思いたい。
痛みに耐えていると、イシャンが戻ってきたのが見えた。せっけんの香りがするので、シャワーを浴びていたのかも知れない。
「……何か、揉めているのか?」
うろんげにイシャンが問いかけてきた。
「いやいや、もめてないからねっ? この子の名前を考えていて、セト君と意見が割れただけ」
「ウサギにしようぜ! な、イシャン。美味そうな名前だろ?」
「セト君ってばちょっと。本音が出てるよ。そこは隠しときなよ」
「うるせぇな。別に名前なんてなんでもいいだろ」
「だったらアリスにしようよ!」
「嫌だ」
「言ってること違うよ!」
なにやら言い争っているらしいセトとティア。それを聞きながら、イシャンがこちらをじっと見てくる。何を話し合っているのか分からないので、そんなにこちらを見られても困る。
「……セト」
「ん?」
しばらく沈黙していたイシャンが、セトの名を呼んだ。
「兎の肉は美味しいが……人間の肉は、美味しくはない」
空気が止まった。セトとティアが、ぴたりと硬直した。
「……そこの人間よりは、野生動物か合成肉を食すことを勧める。……私たちは免疫があるとはいえ、人肉を食すのはリスクが高い。緊急時でない限り……やめておいたほうがいい」
静止した空気のなか、イシャンが静かに話を続ける。こんなに話せる人だったのか、と思ってしまった。
セトが、「お……おう」うわずった声で返事をした。
ティアにいたっては完全に青ざめている。色素のない肌が、より真っ白になっていた。
その様子を見たイシャンが、
「……冗談なのだが……」
「は」「え」
セトとティア、ふたり同時に声があがった。変な沈黙。先に動いたティアが、
「……びっくりした……」
安堵したように息を吐き出した。セトのほうは、表情は怒っているが困惑したような声音で、
「お前が言うと冗談になんねぇ……ほんとに食ったことあんのかと思っただろ」
「……それは心外だ。私は、そんなふうに思われているのか……」
「あのね? イシャン君の顔がね、真実味がありすぎるっていうかさ……僕までだまされたよ。なかなか演技力あるね?」
「——つぅか、なんでいきなりそんな冗談言ってんだよ。キャラじゃねぇだろ」
「……ふたりが歓談していたから、私も合わせたのだが……」
「まて。俺らは別に楽しんでねぇよ。揉めてんだよ」
「やはり揉めていたのか……?」
「セト君、イシャン君が真に受けるからやめて」
にぎやかな応酬が続く。仲が良いのか悪いのか、分からない。ただ、全員がおそろいのチョーカーをつけている。イシャンの石は黒光りする鈍色。光加減で赤みを帯びているようにも見える。それぞれ眼の色と合わせてあるように思う。
明るい雰囲気のなか、パタン、と本を閉じる音が浮きあがって聞こえた。3人ともハッとしてサクラを見る。サクラはソファに脚を乗せたまま、
「ティア、シャワーは?」
「えっ? あ、うん、そうだね。……サクラさんは? 先に使う?」
「そうだな、先に使わせてもらおうか」
サクラが立ち上がった。彼が近くで動くと、着物の匂いなのか、かすかにお香のような香りがする。花のような樹木のような。この世界には似つかわしくないと感じる、和の香り。
サクラが奥の部屋へと消える。つかの間、沈黙がおとずれた。
「……ね、セト君」
「なんだよ」
「あっち、音楽つきっぱなしじゃない?」
「ん?……あぁ、そうだったな。なんか甘いもんでも食おうと思ってよ。キッチン行くつもりだったんだよ」
「眠る前に甘いもの食べると身体に良くないよ」
「珈琲も淹れるか。イシャン、お前も飲むか?」
「……頂こう」
「え! 紅茶がいいんだけど!」
「ひとりで飲めよ」
さっきよりもワントーン下がった声で3人がやりとりしている。セトが私の肩をたたき、
「お前も珈琲要るか?」
疑問形。見下ろす瞳からは、もう不機嫌な色は見えなかった。しかし、相変わらず何を言っているか分からない。
「おいティア、こいつ全然分かってねぇじゃねぇか。なに教えてたんだよ」
「えぇっ? あの短時間でそんな教えられるわけないでしょ」
「……あぁ。ティアは、共通語を教えていたのか……」
「そうそう。あ、そういえばさ。さっきの、ゲームの話で思い出したんだけど……ハウスに帰ったら、言語獲得のための教育ゲームあるんじゃない?」
「見たことねぇぞ。あったか? そんなもん」
「えっ、ない? じゃ、翻訳機は?」
「……私は、翻訳機なら見たことがある。ただ、この人間の言語が……入っていないように、思う」
「う~ん……なるほど。たしかに、この子のきっと特殊だよね。古語翻訳のほうがいけるかも? 音声に対応するの、ロキ君に作ってもらうとか」
「あいつ、そんなもん作らねぇと思うけど」
「え~?……もう。ゲームの規制はすぐ取るのに。困ったひとたちだね」
「なんで複数形なんだよ。俺を一緒くたにすんな」
「……セトとロキは、仲が悪いのか?」
「あいつと仲いいやつなんていねぇよ」
「ロン君とは仲いいんじゃない? よく一緒にゲームしてるよね?」
「ハオロンは逆に、誰とでも仲良くやれるやつじゃねぇか。だから成り立つんだよ」
私が何かを問われたと思っていたが、答えられないでいたところ、また別の話が展開されている気がする。知らない名前のようなものが飛び交ったと思う。このひとたちの他にも仲間がいるのだろうか。
「つか、そんなことどうでもいいんだよ。珈琲となんか甘いもん食おうぜ」
「じゃ、僕は紅茶淹れよっと。チョコレート出そうか。お客さんもいるし」
「おう、いいな。イシャンは?」
「……私は、珈琲だけで」
セトとティアがキッチンに向かう。イシャンは私の前に着席した。会話を交わすことなく、お互いテーブルを見つめたまま、ふたりの戻りを待っていた。
「おまたせ。アリスちゃんも、紅茶飲むよね?」
「なんでだよ。俺が珈琲を淹れてやったんだからこっちでいいだろ」
ティーポットと2つのカップ、さらに大粒の宝石がならんだプレートをトレイにのせて戻ってきたのがティア。後ろから、セトが黒い液体の入った透明のポットと、反対の手で器用に3つのカップを、持ち手に指を通し運んできた。カップの数が5つ。私とサクラの分もあるのかもしれない。
「え~……アリスといえばお茶会なのに」
「チョコレートには珈琲のほうが合うだろ」
「偏見じゃない? 紅茶にも合うよ」
このテーブルは4人掛けだ。壁ぎわに私とイシャンが向かい合うようにして座っていた。私の横に、セトが座る。反対のイシャンの横に、ティアが座った。逃げ場がないようで居づらい。
「ほら、やるよ」
私の前に、黒い液体の入ったカップをセトが差し出した。もしかして、と思ってはいたが、珈琲だ。香ばしいアーモンドのような香りがする。
ティアはプレートに載った宝石のような物をすすめてきた。
「はい、好きなのどうぞ」
もしかして、これはお菓子なのだろうか。あまりにも美しすぎるというか、味が未知数というか。ためらっていると、横からセトがつまんでいった。鮮やかなグリーンの光沢。彼の口腔に吸い込まれていく。パキッと音をたてて、口の中で砕けるのが分かった。見すぎていたせいか、セトにじろりと睨まれる。
「……なんだよ。欲しかったんならさっさと取れよ」
「違うでしょ? ……えっと、アリスちゃん、もしかして食べたことない? チョコレートって今はもう手に入らない……のかな? あれ、でも今まで一度も食べたことないなんてある?」
「お前、これ知らねぇとか……可哀相なやつだな」
「大げさだなぁ……ま、セト君の大好物だからね。ショコラセトって造語があるくらいだし」
「ねぇよ」
会話の途中で、セトにものすごく哀れんだ目を向けられた。会話のこまかい内容は分からないが、これは食べ物で、しかも、とても美味しいらしい。と、いうか。もしかすると、これはチョコレートかも。隣のセトからそんな香りがする。
「おいしいよ。アリスちゃんも、食べてごらん」
ティアは、スープのときにも同じような響きの言葉をくれた。不安を溶かすような、温かでやわらかい声。
その声に、手を伸ばしてみようと思えた。手前に置かれていた紫色の、彼の瞳に少し似た、ガラス玉のような、それ。手に取ると見た目よりも軽いことが分かる。宝石ではなく、チョコレートと思うと納得がいく。かじるほどのサイズでもないので、一口で食べた。甘い、花のような風味。なじみのない香り。でも、やっぱりチョコレートだ。記憶と繋がるものがある。
『美味しいです』
「うん。今のは〈おいしい〉って言うんだよ。おい、しい」
「オイ、シイ……オイシイ」
「うん、上手上手」
にこっと、とても可愛らしい顔で微笑んでくれた。サクラとは違う、温かみのある笑顔。……なぜか眼の奥が熱くなった。隠すように、手許の珈琲に口をつける。苦いと思った珈琲は、まろやかな口当たりで、チョコレートの余韻と心地よく混ざった。記憶はないけれど、きっと、今まで飲んだ珈琲のなかで一番美味しい。
「発音がひでぇな。こいつ、話せるようになんのか?」
「ま、気長にね……って、ちょっと! セト君ひとりでパクパク食べすぎ。僕のぶんも考えてよ」
「なんだよ? お前、眠る前の甘いもんは良くねぇとか言ってたじゃねぇか」
「それとこれとは別でしょ!」
セトとティアがまた何か揉めている。でも、珈琲を飲むイシャンが気にしていないので、大したことではないのかも。
眠りの前の、ささやかなコーヒーブレイク。この後に待ち受ける脅威からは、しばらくのあいだ、目をそらしておこう。
水分がじわじわと布地に染み込んで、ゆっくりと体温を奪っていく。
ティアは何かを取りに行ってくれたのか、奥の部屋に消えた。
背後の、ディスプレイの前に座るセトを、振り返ってみた。ヘッドレストの隙間から後頭部しか見えない。頭につけているのは、なんの機械だろうか。ヘッドフォンにも見える。
先ほどの、シャワールームでの一件が頭に浮かんだ。急激に態度が変わったあの瞬間、おそらく性的な行為を求められたのだと思う。あまりに急だったので、とっさにシャワーのスイッチを押してしまった。しかも、これは偶然なのだが……最大値で。
勢いよく流れ出たシャワーは痛かったが、あれで思いとどまってくれたのが幸いだった。その後のセトは、怖いほど不機嫌だったけれど。
ただ、そう。問題はそこじゃない。
『——約束が、違うのではないか?』
まるで私の思考に応えるように、サクラの声が耳に届いた。
心臓が跳ねる。通路を挟んでテーブルの反対にある長いソファの上、脚を乗せて横に座った彼は、書物を眺めており、こちらを見ていない。セトは耳を塞いでいるからか何も反応しない。
私への、問いかけだ。そのための言語なのだから、考えるまでもないのに。
『性交渉を受け入れる——という話だったと思うが』
どくどくと鼓動が速まる。言葉が出てこない。セトがティアにシャワールームのことを話していたのなら、なんと言ったのだろう。それを知れない以上、どんな言い訳が正しいのか分からない。
沈黙したままの私に、サクラが眼鏡越しの横目を流して微笑する。
『まあいい。……だが、夜は仕事をしてもらおうか』
このひとは——なぜ、そこまで美しく笑えるのだろう。
私の立場を、知っていながら。
そんなにも綺麗に笑えるなんて、どこか狂っている。
私がなにも返さないのを了承と取ったのか、彼はまた、手許の本に目を落とした。本をめくる音が、静寂に響く。ティアが戻ってくるまでのあいだ、その静けさのなかで、じっと息をひそめていた。
「——はい、タオル」
「……アリガトウ」
「ふふ、どういたしまして」
戻ってきたティアは、柔らかなタオルを2枚手にしていた。1枚私の肩にかけ、もう1枚をどうするのかと見ていたら、私の頭を包み込んで拭き始めた。優しく、髪を傷めないように。まるで子を慈しむ親のようだ。両親の記憶はないので、いたかどうかも分からずイメージでしかない。ひょっとすると、私には子どもがいた可能性だってあるのだろうか。
『自分で、やります』
居心地がわるくて、頭上のタオルへと手を伸ばし受け取ろうとした。
しかしティアは笑うだけで、譲ってくれる気配はない。
「もう終わったよ」
ぽんっと頭を触られて、タオルを外された。
「——さて。……あのね、セト君が、君に言葉を教えるよう言ってるんだけど……」
ティアの細長い指先がセトを示し、次に私の唇をさす。短い爪に水色のマニキュアが塗られている。いや、マニキュアと断定はできない。けれど、人工的な色。
「共通語、覚えたい?」
掌を閉じたり、開いたり。私がティアの仕種を読み解いていると、ティアが口を大げさに動かした。
「〈ありがとう〉みたいに。ほかの言葉も、覚えたい?」
なんとなく、話してくれていることが分かった。頷いて肯定を返す。ティアは納得したように頷き返してくれる。
「うん、だったら、寝るまでのあいだ……すこし、勉強しようか」
ティアが向かい合わせの席に着いた。
「まずは、挨拶ね。こんにちは」
ティアが片手を上げた。私も同じように上げてみる。
「コンニチハ」
「手は上げなくてもいいよ。分かりやすいかと思ってやってみただけだから」
やんわりとティアに手を下ろされた。
「僕の、名前は、ティア」
今のは自己紹介だと分かった。ティアの名前が入っている。そうなると、最初のは挨拶で間違いない。
「きみの、名前は? ……あ、まってまって。君の名前どうしよう?」
ティアがあわてて首を振った。何か考え込むように、うーんとうなっている。
「ウサギにしようぜ」
——唐突に。背後から肩を掴まれ、ひぁっと変な声が出ていた。振り仰ぐと、セトが意地の悪い笑みを浮かべて私を見下ろしていた。肩を掴まれるまで、まったく気配に気づかなかった。
ティアは見えていたからか驚くことなく、不思議そうな顔でセトを見た。
「え? なんでrabbitなの?」
「そんな眼してるだろ。hareでもいいけどよ、ウサギのほうがしっくりくるだろ?」
「そう? ……え~、でもなぁ……うーん……あ。じゃ、アリスは? アリスちゃん」
「は? それこそなんでだよ」
「うさぎを追いかけて、不思議な世界に迷いこむ子供の名前。古い児童文学だよ。小さいころ、プレゼントで紙の本をもらってさ。よく読んでたんだよね……セト君は知らないかな? 不思議の国のアリスっていう……」
「話は知らねぇけど、ゲームなら知ってる。トランプの兵隊とか撃ち殺すやつ。ウサギが狂った世界に連れていくっていう設定だったな。……ん? ネコだったか?」
「なにそのゲーム、怖い」
「ハウスにあるぞ。ロキが規制を外したから、死ぬとこもリアルでなかなか凝ってる」
「そんな野蛮なゲームばっかりして。もっと健全に遊びなよ」
「けっこう役に立つけどな。獲物を狩るときとか」
「……うん、セト君は人生が野蛮だったね」
「それは褒めてるんだよな?」
「うんうん。……ということで、僕、君のことをアリスって呼んでもいいかな?」
ふたりで話していたと思ったら、ティアが前ぶれなく私の方を向いた。
「私の、名前は、アリス。……いい?」
先ほどの自己紹介のトーンで、私を指さしたまま、尋ねてくる。ティアの名前が入っていた部分が異なっている。私の呼び名を考えてくれていたのだろうか。どうせ自分の名前は分からないので、頷いておく。
「うん、じゃ、アリスちゃんね」
「——まてよ。ウサギはどこいったんだよ」
「え? だからうさぎから連想してアリスになったでしょ?」
「それじゃウサギを追う側だろ。意味が変わるじゃねぇか」
「え~? そんなよく分からない文句を言われても……」
「俺は呼ばねぇからな。おい、お前、ウサギでいいな?」
肩を掴まれたところが痛い。セトは見かけどおり力が強い。肩に圧力をかけられたので、よく分からないが同意した。まさか私の呼び名で議論しているわけではないと思いたい。
痛みに耐えていると、イシャンが戻ってきたのが見えた。せっけんの香りがするので、シャワーを浴びていたのかも知れない。
「……何か、揉めているのか?」
うろんげにイシャンが問いかけてきた。
「いやいや、もめてないからねっ? この子の名前を考えていて、セト君と意見が割れただけ」
「ウサギにしようぜ! な、イシャン。美味そうな名前だろ?」
「セト君ってばちょっと。本音が出てるよ。そこは隠しときなよ」
「うるせぇな。別に名前なんてなんでもいいだろ」
「だったらアリスにしようよ!」
「嫌だ」
「言ってること違うよ!」
なにやら言い争っているらしいセトとティア。それを聞きながら、イシャンがこちらをじっと見てくる。何を話し合っているのか分からないので、そんなにこちらを見られても困る。
「……セト」
「ん?」
しばらく沈黙していたイシャンが、セトの名を呼んだ。
「兎の肉は美味しいが……人間の肉は、美味しくはない」
空気が止まった。セトとティアが、ぴたりと硬直した。
「……そこの人間よりは、野生動物か合成肉を食すことを勧める。……私たちは免疫があるとはいえ、人肉を食すのはリスクが高い。緊急時でない限り……やめておいたほうがいい」
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セトが、「お……おう」うわずった声で返事をした。
ティアにいたっては完全に青ざめている。色素のない肌が、より真っ白になっていた。
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「は」「え」
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「……びっくりした……」
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「やはり揉めていたのか……?」
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明るい雰囲気のなか、パタン、と本を閉じる音が浮きあがって聞こえた。3人ともハッとしてサクラを見る。サクラはソファに脚を乗せたまま、
「ティア、シャワーは?」
「えっ? あ、うん、そうだね。……サクラさんは? 先に使う?」
「そうだな、先に使わせてもらおうか」
サクラが立ち上がった。彼が近くで動くと、着物の匂いなのか、かすかにお香のような香りがする。花のような樹木のような。この世界には似つかわしくないと感じる、和の香り。
サクラが奥の部屋へと消える。つかの間、沈黙がおとずれた。
「……ね、セト君」
「なんだよ」
「あっち、音楽つきっぱなしじゃない?」
「ん?……あぁ、そうだったな。なんか甘いもんでも食おうと思ってよ。キッチン行くつもりだったんだよ」
「眠る前に甘いもの食べると身体に良くないよ」
「珈琲も淹れるか。イシャン、お前も飲むか?」
「……頂こう」
「え! 紅茶がいいんだけど!」
「ひとりで飲めよ」
さっきよりもワントーン下がった声で3人がやりとりしている。セトが私の肩をたたき、
「お前も珈琲要るか?」
疑問形。見下ろす瞳からは、もう不機嫌な色は見えなかった。しかし、相変わらず何を言っているか分からない。
「おいティア、こいつ全然分かってねぇじゃねぇか。なに教えてたんだよ」
「えぇっ? あの短時間でそんな教えられるわけないでしょ」
「……あぁ。ティアは、共通語を教えていたのか……」
「そうそう。あ、そういえばさ。さっきの、ゲームの話で思い出したんだけど……ハウスに帰ったら、言語獲得のための教育ゲームあるんじゃない?」
「見たことねぇぞ。あったか? そんなもん」
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「……私は、翻訳機なら見たことがある。ただ、この人間の言語が……入っていないように、思う」
「う~ん……なるほど。たしかに、この子のきっと特殊だよね。古語翻訳のほうがいけるかも? 音声に対応するの、ロキ君に作ってもらうとか」
「あいつ、そんなもん作らねぇと思うけど」
「え~?……もう。ゲームの規制はすぐ取るのに。困ったひとたちだね」
「なんで複数形なんだよ。俺を一緒くたにすんな」
「……セトとロキは、仲が悪いのか?」
「あいつと仲いいやつなんていねぇよ」
「ロン君とは仲いいんじゃない? よく一緒にゲームしてるよね?」
「ハオロンは逆に、誰とでも仲良くやれるやつじゃねぇか。だから成り立つんだよ」
私が何かを問われたと思っていたが、答えられないでいたところ、また別の話が展開されている気がする。知らない名前のようなものが飛び交ったと思う。このひとたちの他にも仲間がいるのだろうか。
「つか、そんなことどうでもいいんだよ。珈琲となんか甘いもん食おうぜ」
「じゃ、僕は紅茶淹れよっと。チョコレート出そうか。お客さんもいるし」
「おう、いいな。イシャンは?」
「……私は、珈琲だけで」
セトとティアがキッチンに向かう。イシャンは私の前に着席した。会話を交わすことなく、お互いテーブルを見つめたまま、ふたりの戻りを待っていた。
「おまたせ。アリスちゃんも、紅茶飲むよね?」
「なんでだよ。俺が珈琲を淹れてやったんだからこっちでいいだろ」
ティーポットと2つのカップ、さらに大粒の宝石がならんだプレートをトレイにのせて戻ってきたのがティア。後ろから、セトが黒い液体の入った透明のポットと、反対の手で器用に3つのカップを、持ち手に指を通し運んできた。カップの数が5つ。私とサクラの分もあるのかもしれない。
「え~……アリスといえばお茶会なのに」
「チョコレートには珈琲のほうが合うだろ」
「偏見じゃない? 紅茶にも合うよ」
このテーブルは4人掛けだ。壁ぎわに私とイシャンが向かい合うようにして座っていた。私の横に、セトが座る。反対のイシャンの横に、ティアが座った。逃げ場がないようで居づらい。
「ほら、やるよ」
私の前に、黒い液体の入ったカップをセトが差し出した。もしかして、と思ってはいたが、珈琲だ。香ばしいアーモンドのような香りがする。
ティアはプレートに載った宝石のような物をすすめてきた。
「はい、好きなのどうぞ」
もしかして、これはお菓子なのだろうか。あまりにも美しすぎるというか、味が未知数というか。ためらっていると、横からセトがつまんでいった。鮮やかなグリーンの光沢。彼の口腔に吸い込まれていく。パキッと音をたてて、口の中で砕けるのが分かった。見すぎていたせいか、セトにじろりと睨まれる。
「……なんだよ。欲しかったんならさっさと取れよ」
「違うでしょ? ……えっと、アリスちゃん、もしかして食べたことない? チョコレートって今はもう手に入らない……のかな? あれ、でも今まで一度も食べたことないなんてある?」
「お前、これ知らねぇとか……可哀相なやつだな」
「大げさだなぁ……ま、セト君の大好物だからね。ショコラセトって造語があるくらいだし」
「ねぇよ」
会話の途中で、セトにものすごく哀れんだ目を向けられた。会話のこまかい内容は分からないが、これは食べ物で、しかも、とても美味しいらしい。と、いうか。もしかすると、これはチョコレートかも。隣のセトからそんな香りがする。
「おいしいよ。アリスちゃんも、食べてごらん」
ティアは、スープのときにも同じような響きの言葉をくれた。不安を溶かすような、温かでやわらかい声。
その声に、手を伸ばしてみようと思えた。手前に置かれていた紫色の、彼の瞳に少し似た、ガラス玉のような、それ。手に取ると見た目よりも軽いことが分かる。宝石ではなく、チョコレートと思うと納得がいく。かじるほどのサイズでもないので、一口で食べた。甘い、花のような風味。なじみのない香り。でも、やっぱりチョコレートだ。記憶と繋がるものがある。
『美味しいです』
「うん。今のは〈おいしい〉って言うんだよ。おい、しい」
「オイ、シイ……オイシイ」
「うん、上手上手」
にこっと、とても可愛らしい顔で微笑んでくれた。サクラとは違う、温かみのある笑顔。……なぜか眼の奥が熱くなった。隠すように、手許の珈琲に口をつける。苦いと思った珈琲は、まろやかな口当たりで、チョコレートの余韻と心地よく混ざった。記憶はないけれど、きっと、今まで飲んだ珈琲のなかで一番美味しい。
「発音がひでぇな。こいつ、話せるようになんのか?」
「ま、気長にね……って、ちょっと! セト君ひとりでパクパク食べすぎ。僕のぶんも考えてよ」
「なんだよ? お前、眠る前の甘いもんは良くねぇとか言ってたじゃねぇか」
「それとこれとは別でしょ!」
セトとティアがまた何か揉めている。でも、珈琲を飲むイシャンが気にしていないので、大したことではないのかも。
眠りの前の、ささやかなコーヒーブレイク。この後に待ち受ける脅威からは、しばらくのあいだ、目をそらしておこう。
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