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Chap.10 DRINK ME, EAT ME
Chap.10 Sec.6
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頭痛もなく、眩暈もない。
医療ロボットによる診断も、クリアだった。
「……大丈夫か?」
イシャンの頭上から、セトの心配そうな声がかかった。イシャンは床から出したベンチに腰掛けていて、運動室に待機する医療ロボの診療を終えたところだった。
頭を上げたイシャンの唇は、少しばかり白くなっている。セトの眉頭が寄った。
「やっぱ医務室行かねぇか?ちゃんと診たほうが……」
「平気だ」
「……けどよ、」
「大事にするのは……避けたい」
「…………わりぃ」
「いいや、私の防御が甘かった。……反応が、遅れてしまった」
「………………」
意気消沈とした姿で、セトはイシャンの隣に腰を下ろした。診察中に呼び寄せたワゴンからドリンクボトルを取り出し、「飲むか?」イシャンに差し出す。イシャンの手が、ボトルを掴んだ。飲みたかった——というよりは、しょぼくれたセトの顔に受け取らざるを得なかった。
「……ごめんな」
「セト、もう謝らないでほしい……この程度のダメージは、覚悟していた。……次は簡易的な物ではなく、きちんとした防具でやろう」
「……そうじゃなくてよ。なんつぅか……俺、憂さ晴らしみたいなとこがあったから……やりすぎた」
「……それを言うなら、私も反則行為になる」
「いや、護身のためなら、あの反応でいいだろ。俺ら、スポーツやってるわけじゃねぇんだし」
「………………」
「一瞬ヒヤッとしたけど……よく考えたら、本気じゃなかったよな? 眼を狙うなら、もっと手に力が入る……のに、なんか……あのときは、まじでやられる気がしちまって…………悪かった」
「……気にしていない。セトは最近、謝りすぎだ」
「……ほんとだな」
——ウサギみてぇ。
セトの口のなかで唱えられたそれには、イシャンは応えなかった。代わりに、
「セト……私を見張りたいのは分かるが、食事の時といい、今といい……そうあからさまに張り付くのは、どうかと思うのだが……?」
「……なんの話だよ」
「………………」
「………………」
「…………セト」
「なんだよ」
「……もう少し、うまく偽ってもらいたい」
「悪かったな、嘘が下手で」
「セトは……何故、そんなに分かりやすいのだろう……?」
「知るか」
真剣な顔で考えるイシャンに、セトは無愛想に返すと、手にしていたもう1本のドリンクボトルへと口を寄せた。弱い炭酸を含んだ水は口腔をスッキリと潤していく。頭も冴えた。
「なんかこういうの……昔みてぇだな」
「…………こういうの、とは?」
「勝負。俺ら、勉強や研究を圧倒的にやってたんだろうけど……みんなで遊んだ記憶のほうが、人生を占めてる気ぃする」
「……そうだろうか……?」
「俺とイシャン、よく競走したろ?」
「……セトには、一度も勝てたことがない」
「お前、昔からそういうとこ、意外と負けず嫌いだよな」
「負けず嫌い……? セトに言われるのは……心外だ」
「なんでだよっ」
セトの軽快な声音が、イシャンの目許に残っていた険しさをほどいた。イシャンはようやくドリンクを口に入れ、喉に流し込む。清涼感が広がった。
「なあ、イシャン」
「……?」
「ウサギが来てから、……たしかにトラブルもあったけど。……いい変化も、あったと思わねぇか?」
「………………」
「夕飯の時とか。前だったら、ほとんどハオロンがひとりで喋って……空元気っつぅか、空回ってたっつぅか。ティアも一線引いてたし、ロキは悪態しかつかねぇし……お前とサクラさんは喋んねぇし?」
「……食事中に話すのは……タイミングが、難しい」
「……そうか?」
「ああ」
「まあ、いいんだけどよ。アリアは……さっき、みんなで朝食いかがですか? とか言ってたぞ。いつもはひとり静かに食べてるイメージだろ?」
「……たしかに」
「顕著なのはメルウィンだな。あいつが自分から他人に関わりにいくのなんて、初めて見た」
「………………」
「カードゲームも。みんなでやるの、久しぶりだったろ。一緒に呑むのだって……なかったじゃねぇか」
「……そうだな」
濡れた唇は、なめらかに言葉を紡いでいく。昔よりは低く、けれども、変わらない人懐こい響きで。
「俺ら、いろいろあったけど……また昔みたいに……戻れるかも知んねぇなって。……思ったりも、する」
伏せられた金の眼には、何が映っているのか。
人は、すぐ隣に居ながらも、同じものを全く同じように見ることはできない。
「……セト、」
「ん?」
「それは……あの人間を、犠牲にして……私たちの生活を元に戻そう——という話か……?」
イシャンの指摘に、セトが凍りついたように止まった。息すらも、音をなくした。
鼓膜を押し潰すような沈黙が、広すぎる空間をしばし支配する。
セトの、膝の上に置かれていた手の動く気配が、その支配を破った。
「……犠牲……なのか? ……俺は……そんなふうには……思ってなかったけど……」
「……今の言い方から、そう思っているのかと解釈したが……違うのか」
「いや、俺は…………つか、ウサギだって別に、みんなと上手くやれてるだろ。ロキと会話できるようになったし……犠牲ってわけじゃ……」
——わたしは、だいじょうぶ。
耳に残る声が、断言しようとするセトの言葉をさらった。
薄明かりのなか、つたない語彙を駆使して彼女はセトへと言葉を返した。嘘の下手なセトはそのまま素直に受け止めたが、あれは——どこまでが真意なのか。引き止めたことについて後悔していたセトを、ただ慰めるためだけに言ったのだとしたら——。
「……イシャン、」
「……?」
「ウサギは……娼婦なんだよな?」
「そう聞いているが……?」
「それって……好みはあるにしても、他人と寝るのは……平気なんだよな?」
「……他人の感覚は、私には分からない。想像も、できない」
「…………けど、嫌だったら……断る機会は、あったよな? ここ来た日も、俺が“嫌なら言え”って言ったけど……このままで問題ないって……あいつ、言ってたよな?」
「……いいや、私は聞いていない。私はあの人間の言語が全く分からない。……だが、サクラさんが、それらしきことを話していたのは……聞いている」
——アリスちゃんは話せないんだよ。
イシャンの答えに、セトのなかでティアの声がひらめく。いや、しかし、あの場面で反論しなかったのだから……
——アリスちゃんさ、多分サクラさんに脅されてると思うんだよね。
セトの心に、動揺の波が生まれる。
ティアから、心の隅に置いておけと言われた戯れ言が、急に質量をもって伸し掛かった。
——ただ僕は、知っておいてほしいだけ。アリスちゃんは、もしかしたら……サクラさんに脅されてるんじゃないかってこと。
考えないようにしていた。
サクラが彼女を脅す必要などなく、外から来た彼女もまた、サクラに脅される要素などあるはずもなく。そんな仮説は、端から成り立たないから——と。
——それと、その脅しは、セト君に関係してる可能性があるってこと。
考えないようにしていた。
その仮説を検証するには、サクラを疑わなくてはいけないから。
——セト君をかばうために、残ることを決めたんだと思う。
考えないようにしていた——そのツケが、今にしてセトを苛み始めた。
掴んだボトルの中で、水に押し込まれていた二酸化炭素が、音もなくゆるゆると抜けている。一度立ちのぼった泡を止めることは、おそらく——誰にも、できない。
医療ロボットによる診断も、クリアだった。
「……大丈夫か?」
イシャンの頭上から、セトの心配そうな声がかかった。イシャンは床から出したベンチに腰掛けていて、運動室に待機する医療ロボの診療を終えたところだった。
頭を上げたイシャンの唇は、少しばかり白くなっている。セトの眉頭が寄った。
「やっぱ医務室行かねぇか?ちゃんと診たほうが……」
「平気だ」
「……けどよ、」
「大事にするのは……避けたい」
「…………わりぃ」
「いいや、私の防御が甘かった。……反応が、遅れてしまった」
「………………」
意気消沈とした姿で、セトはイシャンの隣に腰を下ろした。診察中に呼び寄せたワゴンからドリンクボトルを取り出し、「飲むか?」イシャンに差し出す。イシャンの手が、ボトルを掴んだ。飲みたかった——というよりは、しょぼくれたセトの顔に受け取らざるを得なかった。
「……ごめんな」
「セト、もう謝らないでほしい……この程度のダメージは、覚悟していた。……次は簡易的な物ではなく、きちんとした防具でやろう」
「……そうじゃなくてよ。なんつぅか……俺、憂さ晴らしみたいなとこがあったから……やりすぎた」
「……それを言うなら、私も反則行為になる」
「いや、護身のためなら、あの反応でいいだろ。俺ら、スポーツやってるわけじゃねぇんだし」
「………………」
「一瞬ヒヤッとしたけど……よく考えたら、本気じゃなかったよな? 眼を狙うなら、もっと手に力が入る……のに、なんか……あのときは、まじでやられる気がしちまって…………悪かった」
「……気にしていない。セトは最近、謝りすぎだ」
「……ほんとだな」
——ウサギみてぇ。
セトの口のなかで唱えられたそれには、イシャンは応えなかった。代わりに、
「セト……私を見張りたいのは分かるが、食事の時といい、今といい……そうあからさまに張り付くのは、どうかと思うのだが……?」
「……なんの話だよ」
「………………」
「………………」
「…………セト」
「なんだよ」
「……もう少し、うまく偽ってもらいたい」
「悪かったな、嘘が下手で」
「セトは……何故、そんなに分かりやすいのだろう……?」
「知るか」
真剣な顔で考えるイシャンに、セトは無愛想に返すと、手にしていたもう1本のドリンクボトルへと口を寄せた。弱い炭酸を含んだ水は口腔をスッキリと潤していく。頭も冴えた。
「なんかこういうの……昔みてぇだな」
「…………こういうの、とは?」
「勝負。俺ら、勉強や研究を圧倒的にやってたんだろうけど……みんなで遊んだ記憶のほうが、人生を占めてる気ぃする」
「……そうだろうか……?」
「俺とイシャン、よく競走したろ?」
「……セトには、一度も勝てたことがない」
「お前、昔からそういうとこ、意外と負けず嫌いだよな」
「負けず嫌い……? セトに言われるのは……心外だ」
「なんでだよっ」
セトの軽快な声音が、イシャンの目許に残っていた険しさをほどいた。イシャンはようやくドリンクを口に入れ、喉に流し込む。清涼感が広がった。
「なあ、イシャン」
「……?」
「ウサギが来てから、……たしかにトラブルもあったけど。……いい変化も、あったと思わねぇか?」
「………………」
「夕飯の時とか。前だったら、ほとんどハオロンがひとりで喋って……空元気っつぅか、空回ってたっつぅか。ティアも一線引いてたし、ロキは悪態しかつかねぇし……お前とサクラさんは喋んねぇし?」
「……食事中に話すのは……タイミングが、難しい」
「……そうか?」
「ああ」
「まあ、いいんだけどよ。アリアは……さっき、みんなで朝食いかがですか? とか言ってたぞ。いつもはひとり静かに食べてるイメージだろ?」
「……たしかに」
「顕著なのはメルウィンだな。あいつが自分から他人に関わりにいくのなんて、初めて見た」
「………………」
「カードゲームも。みんなでやるの、久しぶりだったろ。一緒に呑むのだって……なかったじゃねぇか」
「……そうだな」
濡れた唇は、なめらかに言葉を紡いでいく。昔よりは低く、けれども、変わらない人懐こい響きで。
「俺ら、いろいろあったけど……また昔みたいに……戻れるかも知んねぇなって。……思ったりも、する」
伏せられた金の眼には、何が映っているのか。
人は、すぐ隣に居ながらも、同じものを全く同じように見ることはできない。
「……セト、」
「ん?」
「それは……あの人間を、犠牲にして……私たちの生活を元に戻そう——という話か……?」
イシャンの指摘に、セトが凍りついたように止まった。息すらも、音をなくした。
鼓膜を押し潰すような沈黙が、広すぎる空間をしばし支配する。
セトの、膝の上に置かれていた手の動く気配が、その支配を破った。
「……犠牲……なのか? ……俺は……そんなふうには……思ってなかったけど……」
「……今の言い方から、そう思っているのかと解釈したが……違うのか」
「いや、俺は…………つか、ウサギだって別に、みんなと上手くやれてるだろ。ロキと会話できるようになったし……犠牲ってわけじゃ……」
——わたしは、だいじょうぶ。
耳に残る声が、断言しようとするセトの言葉をさらった。
薄明かりのなか、つたない語彙を駆使して彼女はセトへと言葉を返した。嘘の下手なセトはそのまま素直に受け止めたが、あれは——どこまでが真意なのか。引き止めたことについて後悔していたセトを、ただ慰めるためだけに言ったのだとしたら——。
「……イシャン、」
「……?」
「ウサギは……娼婦なんだよな?」
「そう聞いているが……?」
「それって……好みはあるにしても、他人と寝るのは……平気なんだよな?」
「……他人の感覚は、私には分からない。想像も、できない」
「…………けど、嫌だったら……断る機会は、あったよな? ここ来た日も、俺が“嫌なら言え”って言ったけど……このままで問題ないって……あいつ、言ってたよな?」
「……いいや、私は聞いていない。私はあの人間の言語が全く分からない。……だが、サクラさんが、それらしきことを話していたのは……聞いている」
——アリスちゃんは話せないんだよ。
イシャンの答えに、セトのなかでティアの声がひらめく。いや、しかし、あの場面で反論しなかったのだから……
——アリスちゃんさ、多分サクラさんに脅されてると思うんだよね。
セトの心に、動揺の波が生まれる。
ティアから、心の隅に置いておけと言われた戯れ言が、急に質量をもって伸し掛かった。
——ただ僕は、知っておいてほしいだけ。アリスちゃんは、もしかしたら……サクラさんに脅されてるんじゃないかってこと。
考えないようにしていた。
サクラが彼女を脅す必要などなく、外から来た彼女もまた、サクラに脅される要素などあるはずもなく。そんな仮説は、端から成り立たないから——と。
——それと、その脅しは、セト君に関係してる可能性があるってこと。
考えないようにしていた。
その仮説を検証するには、サクラを疑わなくてはいけないから。
——セト君をかばうために、残ることを決めたんだと思う。
考えないようにしていた——そのツケが、今にしてセトを苛み始めた。
掴んだボトルの中で、水に押し込まれていた二酸化炭素が、音もなくゆるゆると抜けている。一度立ちのぼった泡を止めることは、おそらく——誰にも、できない。
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