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第二話 偽りの玉座
肆章:一 惨劇
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闇は禍となる宿命を与えられたもの。
翡翠(ひすい)はこれまで、その理に疑問を持つことはなかった。けれど、その理が何を意味しているのかを、深く考えたことがなかったのかもしれない。
(……違う)
翡翠は唇を噛み締めて、自身を責める。考えなければならないと知りながら、目を逸らしていたのだ。既にこの世が滅びる舞台は整っている。
それを認めることが怖くて、見て見ぬふりをしていた。
(何も変わらない)
地界の衰退を他人事のように眺めている碧の重鎮達。自分達の手に、世界の存続が握られているという思い上がり。
(僕も同じだ)
碧の重鎮を責める資格など、元から在りはしなかったのだ。結局、翡翠も真実から目を逸らしていた。地界が荒れ果ててゆく光景を、誰よりも目の当たりにしながら。
今、この瞬間。
清香の語る事実を聞くまで。
こうして突きつけられるまで、ずっと目を逸らしていたのだ。
相称の翼を巡る思惑は、既に始まりを告げていた。
――あの日、相称の翼を見た者は、全て亡くなりました。
清香は逃げ惑う日々を、そんなふうに語り始めた。
碧国からの帰途で起きた、金色の髪と眼を持つ少女との出会い。
金髪に金眼を与えられた少女が何を意味するのか。滄の宮城へと戻りながら、一行は慎重に今後の成り行きを模索したという。
滄の王である「青の君」に、この不可解な体験を伝えるべきか否か。今となっては、一刻も早く王の耳に入れておくべきだったと、清香は悔いる。
けれど、当時、道中を共にした一行の考えは、秘めておくという考えで一致した。あの少女を相称の翼であると考えるには、あまりにも状況がそぐわない。
相称の翼は黄帝の翼扶であり、不可侵の存在なのだ。鳳凰を守護とする黄后が、あのように傷つき、打ちひしがれている筈がない。
そして、相称の翼が存在するのならば、黄帝がその存在について秘めている筈もない。黄帝の収める御世が、天帝の御世に変わったという事実もない。相称の翼が生まれたという話も、誰も聞いたことがないのだ。
結果として、目にした金色は錯覚だったという結論に至った。振り返れば、鬼の坩堝の黒柱が迫るほどの場所での出来事だったのだ。
坩堝の鬼が何らかの影響をもたらし、自分達に幻覚を見せたのかもしれない。
一行は事態をそのように捉え、深刻な出来事であると考える事を放棄した。
誰もが、黄帝と深く繋がる相称の翼を詮索することに戸惑いがあったのだろう。「青の君」に伝えるほどの信憑性があるとも言いにくい。滅多なことは言わない方が良いと、事実は胸の奥に秘められ、伏せられた。
伏せられた筈だったのだ。
清香はそこまで語りながら、眉根を寄せて俯いた。
いかなることも、人の口に戸は立てられない。
――相称の翼を見た者がいるらしい。
滄の宮を取り巻く天界の城下で、そんな噂が広まるのに時間はかからなかった。
そして。
その風聞の流布が、惨劇をもたらした。
滄の城下で一人目の犠牲が出たのは、噂を耳にしてから数日後だった。
犠牲となったのは、清香の良く知る女官の一人だった。あの日、共に金色の少女と出会った者の一人である。城下で語られている噂の発信源も、おそらく彼女だったのだろう。あの日の事実を知る者達は、誰もが胸の内でそう感じていたに違いない。明るい気性の持ち主で、くるくると笑う愛嬌のある娘だったが、良いことも悪いことも口に出しすぎる処があった。
訃報を聞いたとき、清香はちらりと亡くなった女官と金色の少女との関わりを考えた。無為に相称の翼を語ったことが、天意の逆鱗に触れたのかもしれない。けれど、その時はくだらない迷信を思い出すくらいの、軽い気持ちだった。
亡くなった女官の亡骸を目にするまでは、清香も彼女の死を素直に悼むだけだった。
あの亡骸を目にするまでは。
清香は彼女の変わり果てた姿を見た時、背筋に強烈な悪寒が走った。手を組み合わせていないと、震えが止まらないほどに恐ろしかったのだ。
彼女の遺体は、影が横たわっているように真っ黒だった。
いつか見たことのある光景。
闇呪の主に嫁いだ姫君の亡骸と同じ。
魂魄が鬼に喰らいつくされたような、黒い遺体。
清香の脳裏に、金色の少女の前に現れた巨大な影が鮮明に蘇った。大きな翼を持ち、黒い炎を纏っているかのように、ゆらりと流れた残像。
もし一連の出来事の背景に何者かがいるとすれば。
亡くなった女官は、口封じのために葬られたのかもしれない。
金色の少女、すなわち相称の翼が存在するという事実を、誰よりも闇に葬り去りたい誰か。
清香はそこまで考えて、それ以上の憶測からあえて目を逸らした。遠くない将来、自身にも亡くなった女官と同じ末路が用意されているのかもしれない。そんな可能性があることを、認めたくなかったのだ。
少女との邂逅を果たした事と、女官の死は関係がない。何度も自分にそう言い聞かせる日々を過ごした。
けれど、清香の思いも虚しく、すぐに二人目の訃報が届いた。
あの日、碧からの帰途を共にした若い衛兵だった。
目にした遺体は、やはり影が横たわっているように黒い。何者かが、あの日の真実を知る者を狩っている。確たる理由が示されたわけではないが、清香はそう感じた。残された他の者達も同じ心境だっただろう。それでも、清香達には成す術がないままに、三人目、四人目と犠牲となる者が続く。
事の真相を知らない城下の人間にも、黒い遺体は何らかの恐れを植えつけた。五人目の犠牲者が出た頃には、相称の翼について真偽を問う者がいなくなっていたのだ。
金色の少女を目撃した者は七人。
清香を含め、生き残っているのは二人だけである。二人は城下を離れ、地界へ紛れてすぐにでも姿をくらませることを決めた。離職の手続きや報告をしている猶予はない。
消息を断つに等しい方法で、姿を消すことにしたのだ。
二人は地界へと続く、天階の巨大な門で落ち合う約束をした。清香は門に身を隠すようにして、生き残った女官を待った。
待っている、わずかなひととき。清香は苦しくなるほど長く感じた。
これまで犠牲となった者達が、どのように悪しき毒牙にかけられたのか分からない。いつ我が身に同じことが起きても不思議ではない。
地界へ逃げたところで、助かるという確信もないのだ。清香は天界からの逃亡が成功することを願うしかない。
天階の門前で、祈るように先行きを模索していると、清香はふいにぞっと肌が粟立つのを感じた。得体の知れない危機感を覚えて、鼓動が早鐘のように打つ。門に身を潜めるようにして、息を殺し、清香は天階から続く道程をそろりと振り返った。
道程の先に、小さく人影が見える。
天階へと続く石畳をやってくるのは、ここで落ち合う約束をした女官だった。清香と同じように滄で生まれた女官の肌は白い。遠めにもその白さがぼうっと滲んで見える。
清香はほっと息をついたが、安堵したのはほんの一瞬だった。
石畳を横切るように、新たな人影が現れる。ゆっくりとした歩調に合わせるように、引きずるほどの表着が石畳を這った。頭の先から姿を隠すかのように被った衣装の色合いは深く、この距離感では単なる影色にしか見えない。
清香はますます動悸が激しくなった。
逃げた方がいい。胸の奥で激しく警鐘が鳴り響く。
現れた人影が、これまでの惨劇を起こした元凶であるのかは分からない。分からないが、凍りつきそうな恐れを感じる。
石畳を辿ってくる女官にも伝えたいが、恐ろしくて声が出ない。やって来た女官も現れた人影に気付いたようだ。ぴたりと立ち止まったのが見て取れた。
現れた影色は歩みを止めない。女官へ向かい、するすると長い裾が石畳を這う。歩み寄る影色が立ち尽くす女官に重なり、清香から姿が窺えなくなった。確かな距離感がわからないまま比較する対象を失い、立ちはだかる影の背丈が測れない。頭から羽織っている長い表着は、色合いの深い単だろうか。
間近で対峙した人影を眺めているはずの女官には動きがないようだ。見守っていても、恐れ慌てふためいて逃げるような様子はない。
あの距離で向かい合えば、おそらく衣装に隠れている素顔が見えるのだろう。
石畳の上で出会った二人は、身動きすることもなく、ただ立ち尽くしている。緩やかな風が吹いて、石畳に沿うように植えられた木々を揺らした。立ち枯れたかのような細い枝が震えると、かさかさとこすれあう音が響く。
石畳に立つ人影は動かない。
少し離れた位置での光景に、清香はじっと目を凝らす。風に揺らめく衣装の裾が、ひときわ強くはためいた。
風がざっと強く吹きすぎる。
清香は咄嗟に瞬きをしたが、女官の前に立ちはだかる人影が身動きしたように見えた。羽織っている長い表着が風に煽られて、隠されていた長い髪がなびく。
金色の少女とは違い、美しいうねりがあった。色合いは遠くて、やはり影色にしか見えない。銀髪でないことだけは確かだろう。
人影はすぐに表着を目深に被りなおし、するりと一歩を踏み出した。
清香の目に、再び立ち尽くす女官が映る。
一面の影色。
黒い輪郭。
さきほどまで見分けられた白い肌が、跡形もなく暗黒に染まっている。変わり果てた姿だった。
明らかに異質な光景に、清香は口元を手で塞ぎ、懸命に悲鳴を呑み込んだ。がたがたと体の芯から震えがくる。
さっきまで女官だった人影は、音もなくその場に倒れた。崩れ落ちるように横たわった姿は、間近で眺めることがなくても想像がつく。
清香は顔を背けるようにして、その場に座り込んだ。込み上げてきた嫌悪が強烈で、吐き気を催す。
えづきそうになるのを堪えて、清香はすぐに立ち上がった。
一刻も早く、姿を眩ませなければならない。
金色の少女にまつわる真相を知るのは、もう自分だけなのだ。狩られるのは時間の問題だった。もしかすると、引き続き自分に呪がかけられるのかもしれない。清香はぞっとなって、再び惨状へ目を向ける。人影は横たわる女官の骸を気にも止めず、その場を離れようとしていた。
するすると長い衣装を引き摺って進む。
遠めで見分けられない衣装の色合いは、もしかすると間近で見ても晴れることのない影色なのかもしれない。
鬼を纏う禍。
清香には正体を突き止める余裕も術もなかったが、今見た事実が全てを語っている。
この世に呪を以って、鬼を制する者は、ただ一人しかいないのだ。
清香は震える体を抱くようにして、出来るだけ身を潜めた。祈るような思いで、石畳を横切っていく人影が立ち去るのを待つ。自身の動悸を聞きながら行き過ぎるのを窺っていると、ふと人影が立ち止まった。
清香は心の臓にひやりと刃が押し当てられたような危機感を覚える。
ゆっくりとこちらを振り返る気配。
見届けている余裕はどこにもなかった。極まった危機感に突き動かされて、清香は駆け出す。巨大な門を越えて、天階を一目散に駆け降りた。
翡翠(ひすい)はこれまで、その理に疑問を持つことはなかった。けれど、その理が何を意味しているのかを、深く考えたことがなかったのかもしれない。
(……違う)
翡翠は唇を噛み締めて、自身を責める。考えなければならないと知りながら、目を逸らしていたのだ。既にこの世が滅びる舞台は整っている。
それを認めることが怖くて、見て見ぬふりをしていた。
(何も変わらない)
地界の衰退を他人事のように眺めている碧の重鎮達。自分達の手に、世界の存続が握られているという思い上がり。
(僕も同じだ)
碧の重鎮を責める資格など、元から在りはしなかったのだ。結局、翡翠も真実から目を逸らしていた。地界が荒れ果ててゆく光景を、誰よりも目の当たりにしながら。
今、この瞬間。
清香の語る事実を聞くまで。
こうして突きつけられるまで、ずっと目を逸らしていたのだ。
相称の翼を巡る思惑は、既に始まりを告げていた。
――あの日、相称の翼を見た者は、全て亡くなりました。
清香は逃げ惑う日々を、そんなふうに語り始めた。
碧国からの帰途で起きた、金色の髪と眼を持つ少女との出会い。
金髪に金眼を与えられた少女が何を意味するのか。滄の宮城へと戻りながら、一行は慎重に今後の成り行きを模索したという。
滄の王である「青の君」に、この不可解な体験を伝えるべきか否か。今となっては、一刻も早く王の耳に入れておくべきだったと、清香は悔いる。
けれど、当時、道中を共にした一行の考えは、秘めておくという考えで一致した。あの少女を相称の翼であると考えるには、あまりにも状況がそぐわない。
相称の翼は黄帝の翼扶であり、不可侵の存在なのだ。鳳凰を守護とする黄后が、あのように傷つき、打ちひしがれている筈がない。
そして、相称の翼が存在するのならば、黄帝がその存在について秘めている筈もない。黄帝の収める御世が、天帝の御世に変わったという事実もない。相称の翼が生まれたという話も、誰も聞いたことがないのだ。
結果として、目にした金色は錯覚だったという結論に至った。振り返れば、鬼の坩堝の黒柱が迫るほどの場所での出来事だったのだ。
坩堝の鬼が何らかの影響をもたらし、自分達に幻覚を見せたのかもしれない。
一行は事態をそのように捉え、深刻な出来事であると考える事を放棄した。
誰もが、黄帝と深く繋がる相称の翼を詮索することに戸惑いがあったのだろう。「青の君」に伝えるほどの信憑性があるとも言いにくい。滅多なことは言わない方が良いと、事実は胸の奥に秘められ、伏せられた。
伏せられた筈だったのだ。
清香はそこまで語りながら、眉根を寄せて俯いた。
いかなることも、人の口に戸は立てられない。
――相称の翼を見た者がいるらしい。
滄の宮を取り巻く天界の城下で、そんな噂が広まるのに時間はかからなかった。
そして。
その風聞の流布が、惨劇をもたらした。
滄の城下で一人目の犠牲が出たのは、噂を耳にしてから数日後だった。
犠牲となったのは、清香の良く知る女官の一人だった。あの日、共に金色の少女と出会った者の一人である。城下で語られている噂の発信源も、おそらく彼女だったのだろう。あの日の事実を知る者達は、誰もが胸の内でそう感じていたに違いない。明るい気性の持ち主で、くるくると笑う愛嬌のある娘だったが、良いことも悪いことも口に出しすぎる処があった。
訃報を聞いたとき、清香はちらりと亡くなった女官と金色の少女との関わりを考えた。無為に相称の翼を語ったことが、天意の逆鱗に触れたのかもしれない。けれど、その時はくだらない迷信を思い出すくらいの、軽い気持ちだった。
亡くなった女官の亡骸を目にするまでは、清香も彼女の死を素直に悼むだけだった。
あの亡骸を目にするまでは。
清香は彼女の変わり果てた姿を見た時、背筋に強烈な悪寒が走った。手を組み合わせていないと、震えが止まらないほどに恐ろしかったのだ。
彼女の遺体は、影が横たわっているように真っ黒だった。
いつか見たことのある光景。
闇呪の主に嫁いだ姫君の亡骸と同じ。
魂魄が鬼に喰らいつくされたような、黒い遺体。
清香の脳裏に、金色の少女の前に現れた巨大な影が鮮明に蘇った。大きな翼を持ち、黒い炎を纏っているかのように、ゆらりと流れた残像。
もし一連の出来事の背景に何者かがいるとすれば。
亡くなった女官は、口封じのために葬られたのかもしれない。
金色の少女、すなわち相称の翼が存在するという事実を、誰よりも闇に葬り去りたい誰か。
清香はそこまで考えて、それ以上の憶測からあえて目を逸らした。遠くない将来、自身にも亡くなった女官と同じ末路が用意されているのかもしれない。そんな可能性があることを、認めたくなかったのだ。
少女との邂逅を果たした事と、女官の死は関係がない。何度も自分にそう言い聞かせる日々を過ごした。
けれど、清香の思いも虚しく、すぐに二人目の訃報が届いた。
あの日、碧からの帰途を共にした若い衛兵だった。
目にした遺体は、やはり影が横たわっているように黒い。何者かが、あの日の真実を知る者を狩っている。確たる理由が示されたわけではないが、清香はそう感じた。残された他の者達も同じ心境だっただろう。それでも、清香達には成す術がないままに、三人目、四人目と犠牲となる者が続く。
事の真相を知らない城下の人間にも、黒い遺体は何らかの恐れを植えつけた。五人目の犠牲者が出た頃には、相称の翼について真偽を問う者がいなくなっていたのだ。
金色の少女を目撃した者は七人。
清香を含め、生き残っているのは二人だけである。二人は城下を離れ、地界へ紛れてすぐにでも姿をくらませることを決めた。離職の手続きや報告をしている猶予はない。
消息を断つに等しい方法で、姿を消すことにしたのだ。
二人は地界へと続く、天階の巨大な門で落ち合う約束をした。清香は門に身を隠すようにして、生き残った女官を待った。
待っている、わずかなひととき。清香は苦しくなるほど長く感じた。
これまで犠牲となった者達が、どのように悪しき毒牙にかけられたのか分からない。いつ我が身に同じことが起きても不思議ではない。
地界へ逃げたところで、助かるという確信もないのだ。清香は天界からの逃亡が成功することを願うしかない。
天階の門前で、祈るように先行きを模索していると、清香はふいにぞっと肌が粟立つのを感じた。得体の知れない危機感を覚えて、鼓動が早鐘のように打つ。門に身を潜めるようにして、息を殺し、清香は天階から続く道程をそろりと振り返った。
道程の先に、小さく人影が見える。
天階へと続く石畳をやってくるのは、ここで落ち合う約束をした女官だった。清香と同じように滄で生まれた女官の肌は白い。遠めにもその白さがぼうっと滲んで見える。
清香はほっと息をついたが、安堵したのはほんの一瞬だった。
石畳を横切るように、新たな人影が現れる。ゆっくりとした歩調に合わせるように、引きずるほどの表着が石畳を這った。頭の先から姿を隠すかのように被った衣装の色合いは深く、この距離感では単なる影色にしか見えない。
清香はますます動悸が激しくなった。
逃げた方がいい。胸の奥で激しく警鐘が鳴り響く。
現れた人影が、これまでの惨劇を起こした元凶であるのかは分からない。分からないが、凍りつきそうな恐れを感じる。
石畳を辿ってくる女官にも伝えたいが、恐ろしくて声が出ない。やって来た女官も現れた人影に気付いたようだ。ぴたりと立ち止まったのが見て取れた。
現れた影色は歩みを止めない。女官へ向かい、するすると長い裾が石畳を這う。歩み寄る影色が立ち尽くす女官に重なり、清香から姿が窺えなくなった。確かな距離感がわからないまま比較する対象を失い、立ちはだかる影の背丈が測れない。頭から羽織っている長い表着は、色合いの深い単だろうか。
間近で対峙した人影を眺めているはずの女官には動きがないようだ。見守っていても、恐れ慌てふためいて逃げるような様子はない。
あの距離で向かい合えば、おそらく衣装に隠れている素顔が見えるのだろう。
石畳の上で出会った二人は、身動きすることもなく、ただ立ち尽くしている。緩やかな風が吹いて、石畳に沿うように植えられた木々を揺らした。立ち枯れたかのような細い枝が震えると、かさかさとこすれあう音が響く。
石畳に立つ人影は動かない。
少し離れた位置での光景に、清香はじっと目を凝らす。風に揺らめく衣装の裾が、ひときわ強くはためいた。
風がざっと強く吹きすぎる。
清香は咄嗟に瞬きをしたが、女官の前に立ちはだかる人影が身動きしたように見えた。羽織っている長い表着が風に煽られて、隠されていた長い髪がなびく。
金色の少女とは違い、美しいうねりがあった。色合いは遠くて、やはり影色にしか見えない。銀髪でないことだけは確かだろう。
人影はすぐに表着を目深に被りなおし、するりと一歩を踏み出した。
清香の目に、再び立ち尽くす女官が映る。
一面の影色。
黒い輪郭。
さきほどまで見分けられた白い肌が、跡形もなく暗黒に染まっている。変わり果てた姿だった。
明らかに異質な光景に、清香は口元を手で塞ぎ、懸命に悲鳴を呑み込んだ。がたがたと体の芯から震えがくる。
さっきまで女官だった人影は、音もなくその場に倒れた。崩れ落ちるように横たわった姿は、間近で眺めることがなくても想像がつく。
清香は顔を背けるようにして、その場に座り込んだ。込み上げてきた嫌悪が強烈で、吐き気を催す。
えづきそうになるのを堪えて、清香はすぐに立ち上がった。
一刻も早く、姿を眩ませなければならない。
金色の少女にまつわる真相を知るのは、もう自分だけなのだ。狩られるのは時間の問題だった。もしかすると、引き続き自分に呪がかけられるのかもしれない。清香はぞっとなって、再び惨状へ目を向ける。人影は横たわる女官の骸を気にも止めず、その場を離れようとしていた。
するすると長い衣装を引き摺って進む。
遠めで見分けられない衣装の色合いは、もしかすると間近で見ても晴れることのない影色なのかもしれない。
鬼を纏う禍。
清香には正体を突き止める余裕も術もなかったが、今見た事実が全てを語っている。
この世に呪を以って、鬼を制する者は、ただ一人しかいないのだ。
清香は震える体を抱くようにして、出来るだけ身を潜めた。祈るような思いで、石畳を横切っていく人影が立ち去るのを待つ。自身の動悸を聞きながら行き過ぎるのを窺っていると、ふと人影が立ち止まった。
清香は心の臓にひやりと刃が押し当てられたような危機感を覚える。
ゆっくりとこちらを振り返る気配。
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