ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第20話 近江の宮島

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翌朝、僕達は朝6時に起きると、デニッシュの残りをトースターに入れ、その間に着替えて顔を洗った。

「これね、シンプルに牛乳と食べても最高やねん」

僕は2つのグラスに牛乳を注ぐ。

「さ、今日は早く動きたいから、さっさと食べよう」

僕は二口で一枚食べてしまい、牛乳で流し込む。
向かいでは、舞子が一口ずつ確かめるように食べている。

そのあいだにお湯を沸かし、急須に昨日買ってきた宇治煎茶の葉を入れた。
沸騰したお湯を少し冷ましてから注ぎ、1分ほど待って、叔父から貰ったスタンレーの水筒に移す。
ごつい緑の塗装に、蓋がそのままコップになる古いタイプだ。
ヨットマンの叔父が米軍払い下げの店で手に入れ、「テルモスの方が好きになった」と僕にくれたもの。
見た目は少し無骨だが、とにかく冷めない。
今日みたいな日には、煎茶を入れて持ち出すのにぴったりだ。

食べ終わった皿とグラスを洗って水切り棚に並べ、スタンレーと祇園だんごの箱を手に、駐車場へ向かった。

「ねえねえ、どこ行くの?」

舞子は繰り返し訊いてくるが、その割に行き先そのものにはそれほどこだわっていない。
早朝から車でおでかけ――それだけでテンションは最高潮だ。

僕は車を出し、鴨川デルタを背にして北へ向かう。
白川通をそのまま上がり、街が少しずつ山に近づいていく。
やがて川沿いの集落を抜け、山の中の道へ。

「あれなに?」

右手に見えた古びた看板を指さして舞子が訊く。

「遊園地。八瀬遊園。あ、今はスポーツバレー京都か。空中自転車とかゴーカートが面白いで。夏はプールとかお化け屋敷もある」

「へー。面白そう!お化け屋敷は怖いけど…」

「またそのうち連れて来たるわ。お化け屋敷は入るけど」

「わーい……だけどお化け屋敷はいらない」

そんなやりとりをしているうちに、大原の集落に入った。
三千院の駐車場の案内板が見える。

「あ、ここテレビで聞いたことある!」

舞子が小さく叫ぶ。

「きょうとーおおはら、さんぜんいん(りー)♪」

歌い出した舞子に、最後の「さんぜんいん」だけ一緒に歌って軽くハモる。

「ほんとハルくん器用だよねー」

「まあ、器用貧乏ってやつやけどな。ていうか舞子いま、最後『り』って言うた?」

「うん。『京都大原三千里』でしょ?」

「なんでやん!マルコやないねんから!肩に白いサル乗っとるがな!」

「え!?だって昔、お父さんにそう教えられたよ?『大原はそれくらい遠いっちゅうことやのう』って」

「いやそれ、完全に騙されてるから!」

「うひゃー!お父さん!」

大原を抜けると、山道らしいワインディングロードになる。
スピーカーから流れるハウンドドッグを一緒に口ずさみながら、僕は右に左にハンドルを切った。

「舞子、気持ち悪くない? しんどくなったらすぐ言うてな?」

「大丈夫、小さい頃からお父さんの車で、奈良とか和歌山の山の中、よく連れてってもらったから。十津川とか知ってる?」

「いや、初めて聞いた」

「すっごい高い吊橋とかあるんだよ。その内そこも行こうよ」

「ええな」

道はくねくねと曲がり続け、やがて小さな集落に入る。
急に道が細くなり、舞子がバス停の看板を指差した。

「見てみて!バス停に『途中』って書いてる!何の途中なんだろね?」

「ああそれ、“どこどこの間”って意味の途中ちゃうで。地名」

「えー!」

「雪すごいねん、ここ。冬とか、両側の滋賀県も京都市内も全然雪降ってへんのに、ここだけ大雪でな。油断して通ったら、この数キロのためにチェーン付けて、すぐまた外さなあかん」

「大変だー」

少しずつ視界が開け、琵琶湖大橋のたもとの町、堅田に出る。
例の謎ロボと、横に空中に浮いたチンチン電車の遊具が視界の端をかすめる。
そこから湖岸沿いの国道に乗り、北へ。

「わー!海!」

舞子が叫んだ。

「いや、海ちゃう。湖。琵琶湖や」

「えー!?大きすぎない?」

「滋賀県民はこれが普通の湖やと思て育つから、よそで『湖です』言うてるとこ見ても、『何やこの水たまり?』て思うねん」

「そう言えば、ハルくんて実家どこなの? その口ぶりだと、もしかしてこの辺?」

「うん。いま曲がった交差点まっすぐ行ったら琵琶湖大橋ていうでっかい橋があるんやけど、それ渡った向こう。守山市」

「へー、なんか近いね。一人暮らししてるから、もっと遠いところかと思ってた」

「通おう思たら1時間ちょっとで着く距離やねんけど、どうしても京都で一人暮らしがしてみたいって言うたら、親が『それも経験や』言うて許してくれてな。僕が見つけたアパート契約してくれて、仕送りもしてくれてる」

「そうなんだ。この車も買ってもらったって言ってたし、もしかしてボンボン?」

「そんなことない。うちの親は、僕を甘やかすことに喜び感じてるだけや」

「それをボンボンと言うんだよ」

舞子が笑う。
僕のバイト先のチェーンのびわ湖店の横を通り過ぎ、車はさらに北へ。
びわ湖バレイのロープウェイを左に見て、舞子が「ダンスの子」と呼んだ近江舞子も通り過ぎる。

右手に広がる湖の景色に舞子が慣れはじめた頃、湖の中に赤い鳥居が姿を現した。

「え!? あれって安芸の宮島!? テレビで見たやつだ!」

大興奮の舞子には申し訳ないが、そんな訳はない。
いつ広島が京都の東に引っ越してきたんだ。

「違うで。宮島は海やろ」

「えー、でも波あるよ? 湖で波は立たないって習ったよ?」

「琵琶湖はでかすぎて、普通に波立つねん」

「じゃああの鳥居は?」

「白髭神社」

「そうなんだ。てっきりあの有名な安芸の宮島についに来たのかと。でも、しらひげじんじゃ?もカッコいいね」

安曇川を越え、新旭を越え、今津に入ると信号機が縦型になり始める。
豪雪地帯だ。

やがて、直進すると敦賀、右折すると「海津大崎」という案内が現れ、右へ曲がった途端、道が混み始めた。

「えっ、なんでこんなに混んでるの? まだ朝だよ?」

舞子が前方の赤いテールランプの列をのぞき込む。

「まあ、この先、ちょっとしたお楽しみがあるからな」

僕はカーステの音量をひとつ下げ、ゆるやかにブレーキを踏む。
渋滞も、季節も、予定通り。朝早く出てきたのは、このためだ。

「なんか知ってるっぽい……何? 教えてくれてもいいじゃん」

口を尖らせるが、怒っているわけじゃない。
知らない先に何が待っているのかを想像するのが楽しいのだ。
僕はニヤリと笑って、フロントガラスの向こうに目をやった。

渋滞はじわじわと進む。
家々がまばらになり、道がカーブして視界が開けた瞬間――

ふっと、琵琶湖の水面が朝の光を反射して、ガラス越しにまぶしく照らした。

その向こう、丘の斜面から湖岸へとせり出すようにして、それは突然現れた。

「……わあっ……!」

舞子の声が、ほんとうに驚いたときだけに出る、小さな息のような叫びになる。

道の両側に、空を支える柱のように立ち並ぶ桜の並木。
枝のひとつひとつが重なり合い、車道の上に淡い桃色のトンネルが続いている。
その隙間から、陽にきらめく琵琶湖の青。
風に揺れて舞い始めた花びらが、フロントガラスにふわりと乗った。

「なにこれ……絵みたい……」

舞子は言葉を失ったように、首を窓の外へめいっぱい向けている。
瞬きしながら、次々と流れていく桜を追いかけている。

僕はハンドルに手を添えたまま、彼女の横顔をちらりと見た。

そうや。これを、見せたかったんや。

渋滞なんて、むしろごちそう。
この速度でしか見られない春が、ここにはある。

琵琶湖の春は、いま、風ごと咲いている。

◇    ◇    ◇    ◇

「完全に停まっちゃったね」

舞子が言う。それも想定内だ。

「舞子、後ろのカゴから、水筒と白い箱取って」

「んー、これ?」

「そうそう。ありがとう。箱開けて、前の窓のとこ置いて」

「わ。お団子だ!」

「その箱、うまいこと潰したら平らになるから皿みたいにして、だんご並べて」

「はーい」

「OK。あと、その水筒、蓋がコップになるからそこに中身注いで。お茶淹れてきてるから。
さ、お花見開始。車ほとんど動かへんから、のんびり団子とお茶や」

「すごーい! ハルくん、やっぱり天才?」

「いや、ただのダンドリくんや」

そう言いつつも、褒められて悪い気はしない。

窓の外では風がゆっくりと吹き、桜の花びらがぽつ、ぽつと舞い始めていた。
ボンネットにも、薄い一枚が静かに落ちてくる。

舞子は蓋に注いだお茶をそっと口に運ぶ。
ふわりと立ちのぼる湯気が鼻先をくすぐり、目を細めた。

「……あったかい。すごくいい匂い。これ、今朝淹れてたお茶?」

「うん。宇治の煎茶。ちょっとだけいいやつ」

「へえ……お団子と合うね」

舞子は紅、白、餡の団子を一本ずつ箱の上にきれいに並べる。
一本を手に取り、ゆっくり口に運んだ。

「……ん。もっちもち……。あ、思ったより甘さ控えめかも」

「京都の和菓子やからな。上品にできてる」

「うん、好きかも、こういうの」

そう言いながら、次の団子を手に取る。
車の中には、香ばしい餅の匂いとお茶の香りと、ほんのりと桜の気配が混じっていた。

ふと、舞子が窓の外を見て言う。

「ねえ、すごく不思議だね。車の中なのに、ちゃんとお花見してるって感じする」

「そうやろ? このスピードやからやな。歩いてるより遅いかもしれん」

「……なんか、時間が止まってるみたい」

舞子はそう言って空を見上げた。

桜のトンネルの向こうに、琵琶湖の青がわずかにのぞいている。
その光が舞子の横顔に反射して、ほんのり桜色に染めていた。

車列は一向に動く気配を見せなかったが、
ふたりはそれを気にする様子もなく、静かに団子を食べ、湯気の立つお茶をすすった。

渋滞なんて、この時間をつくるためにあるんやな――
そんなふうに思う。

舞子は最後のこし餡の団子をひと口で食べ、小さく拍手した。

「おいしかったー。今日、もうこれだけで満足かも」

「まだ始まったばっかりやけどな」

ふたりは笑い合い、春の光に包まれた車内で、もう一杯お茶を淹れた。
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