ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第19話 デニッシュと春支度

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土曜日の午後、バイトから帰ってきた舞子はよほど疲れたのか、昼ご飯も食べずに押し入れの巣に潜り込み、そのまま昼寝をはじめてしまった。

「舞子、ちょっと出かけてくるから」

声をかけても返事はない。
僕は今日はなんとなく自転車を漕ぐ気になれず、駐車場で車のエンジンをかけて祇園へ向かった。
銀閣寺の方へ走り、東大路を右折する。
二条通を越えたあたりで、視界の左端に平安神宮の大鳥居がちらりと映った。
うん。今日も変わらず、あの派手な朱色だ。

「あーねさーんろーかーくたーこにーしきー」

頭の中で歌いながら知恩院さんの前を通り過ぎる。
八坂さんの前で右折して、しまった。反対車線だった、と少しだけ後悔する。
河原町通りで来るべきだったなと思いつつ、花見小路を過ぎたあたりで車を停めた。
まあ、すぐそこだしいいだろう。

信号が青になるのを待って四条通の反対側に渡り、風格のある店構えの紫色の暖簾をくぐる。

「すみません、祇園だんご4つ下さい」

「へえ、おおきに。他はよろしおすか?」

「だいじょうぶです、そんだけでお願いします」

上品な和服の店員さんが、白い紙箱を手早く組み立て、紅・白・こし餡のだんごを収めてくれる。
あと2ヶ月もすれば、子供の頃から大好きな甘露竹の季節だ。

丁寧に紙袋に入れてもらった箱を受け取り、再び信号を渡る。
車を停めた前には、朱色地に白抜きの家紋が並んだ派手な暖簾のお茶屋がある。
そこで煎茶の茶葉を買えば、今日のミッションは完了だ。

車に戻り、助手席に戦利品を置いて祇園の町をひとまわりしてから東大路へ出る。
知恩院さんのあたりで左手に見える赤い看板、その下の木枠のガラス戸越しには、焼きたてのパンがずらりと並んでいた。甘く香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。
ガラス戸を引くと、鈴の音がひとつ鳴った。

昼メシも食わずに眠り込んでいる舞子に、この店のデニッシュ食パンを買って帰ってやろう。
また、ほっぺたをまん丸に膨らませて食べている顔が目に浮かぶ。

アパートに戻ると、舞子はまだクッションに埋もれて寝ていた。
出る時は丸くなっていたのに、今はお腹を上にして伸びている。
猫かこいつは。

「んにゃ、ハルくん?」

気配に気づいた舞子は、四つん這いになって手を前に伸ばし、お尻を高く上げて伸びをした。
ますます猫みたいだ。

「どこか行ってたの?」

「うん。ちょっと買い物にね。はい、お土産」

茶色い紙袋を渡す。

「わ。ありがとう。これ何?」

「お昼ごはん。食べてへんやろ?」

「わーい」

舞子は紙袋の中を覗き込み、少しだけ首をかしげた。

「……これ、食パン? なんか普通のとちがうね」

「デニッシュ食パン。普通のとはちょっとちゃう。焼きたてやで」

舞子は袋の口を丁寧に折り返し、中を覗く。
ほんのり焼き色のついたつややかな表面に、甘いバターの香りがふわりと立ちのぼる。
その匂いを吸い込んで、口元が少し緩んだ。

「へえ……ちょっと甘い匂い。なんか、おしゃれな感じするね」

キッチンに立ち、まな板を出してパンナイフを手に取る。
厚めに一枚、すうっと切ると、外側は軽く音を立てて割れ、中はふんわりと沈み込んだ。

「……柔らかいけど、表面はパリッてしてる。中、層になってる……すごい」

皿にそっと載せると、舞子は椅子に腰を下ろし、端をゆっくりと口に運んだ。

「……うわ……」

小さく、でも確かな声が漏れる。

「バター……すご……でも全然しつこくない。噛んだら、なんか、じゅわって……」

目を伏せ、ひと噛み、ふた噛み。
味を確かめるようにゆっくり咀嚼してから、静かに言った。

「なんか……パンっていうより、ケーキとパンのあいだ、みたいな……」

「甘すぎないのに、ちゃんと満足感ある……これ、トーストしたら、もっと香ばしくなりそう」

「トーストする?」

紅茶用にお湯とミルクを火にかけながら訊く。

「……うん、してみたい」

舞子は嬉しそうにパンをオーブントースターに入れた。

「焼きすぎないようにね。表面が軽くさっくりして、中が温まるくらい」

「はーい」

トースターのガラス戸の中をのぞき込みながら、流しのヘリにつかまってぴょんぴょんと跳ねている。

チン、という音がした。

「……焼けた」

少し背伸びするようにしてガラス戸をのぞきこみ、そっと扉を開ける。
トーストの表面には薄く焼き色がつき、角のあたりがほんのりパリッとしている。

「いい匂い……」

舞子はトングでそっと取り出し、皿に載せた。
バターの香りが熱でふくらみ、部屋いっぱいに広がる。

僕はティーバッグを2つ入れたマグカップに湯を注ぎ、温めたミルクを添えてテーブルに置く。
舞子は、焼きたてのデニッシュにナイフを入れた。

サク、と小さな音。
薄く焼けた層が、刃の感触に合わせて心地よく割れる。

ひと口。

口に入れた瞬間、舞子は言葉を止めたまま目を伏せる。
さっきとは違う驚きが、表情ににじんでいた。

「……外、さくさく……」

ごく小さな声でつぶやく。

「中が……あったかくて、とろってする……」

ゆっくりと咀嚼し、もう一口。
カップを手に取り、紅茶を含んで、そっと息を吐いた。

「……これ、すごい」

その一言で十分だった。
僕も向かいの椅子に腰を下ろし、まだ残っているパンの塊を見る。
ふたりで食べるには、少し多い。
でも、あっという間になくなるだろう。

春の午後の柔らかな光が、部屋に溢れていた。
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