ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第55話 城と庭と、また出た彼女さん説

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「せっかく観光してるんだから、ちゃんと京都っぽいお店で食べたいな」

舞子がそう言って、リュックから「るるぶ」を引っ張り出した。昨日買ったばかりなのに、もう付箋だらけで端も折れている。

「ここ。『祇園下河原 ひさご』。親子丼が名物なんだって」

誌面の写真には、玉子でとじられた鶏肉が丼からこぼれそうに光っていた。

「昭和5年創業って書いてる。……1930年?」

「そやな。もうすぐ還暦や」

「決まり。絶対ここ」

舞子の目がきらっと光いた。

自転車で川端を南下し、東山安井を左に折れて下河原通へ入る。車の音が遠のくと、木造の旅館の白壁や、塀越しに見える庭木の緑が、さっきまでの清水坂とは別の京都を見せてくれた。

「こういう通り、自転車だとまた違って見えるね」

舞子が後ろから笑う。

すぐ左手に、くすんだえんじ色の暖簾が見えた。自転車を寄せてロックをかけ、「ひさご」と染め抜かれた暖簾をくぐる。

丸い照明の下、年配のご夫婦や観光客が静かに丼を前にしている。気取らない空気と、甘い出汁の匂いが心地いい。

きぬがさ丼、木の葉丼、親子丼。

「きぬがさ丼って?」

「油揚げと九条ねぎの玉子とじ。木の葉丼は、親子丼の鶏の代わりにかまぼこや椎茸入れたやつやな」

「名前だけで美味しそう。でも今日は親子丼」

「異議なし」

ほどなくして届いた丼から、ふわっと湯気が立ちのぼる。卓上の小さな瓢箪から山椒をひと振りすると、香りが一段階きゅっと締まった。

「いただきます」

卵はとろりと半熟で、鶏肉はやわらかい。出汁の甘さがご飯に染みて、箸を入れるたびに湯気が立つ。最初は「あつっ」と笑いながら食べていたのに、気づけば会話が途切れ、箸の音と湯のみを置く音だけが続いた。

「……幸せ」

舞子が丼の底を見せて、うっとりとため息をついた。

「こういう“京都っぽいお昼”、ずっと憧れてたんだよね」

「そら良かった。ほな午後どうする? 三十三間堂寄ってから北にぶっ飛ばして──」

「うーん……お腹いっぱいになったら、のんびり回るのがいいなあ、って気分になっちゃった」

少しとろんとした目つきで言う。

「はい出た。満腹睡魔」

「ねむくないもん。……でも、三十三間堂はまた今度でもいいかな。京都は一日にしてならず、でしょ?」

「それローマやけどな」

くだらない会話をしながら店を出て、自転車にまたがる。

四条の混雑を避けて川端を北へ、御池を西へ。鴨川を渡ると、観光地のざわめきが背中の方へ遠ざかっていった。

「道の歌の東西バージョンってあるの? 『まるたけえびす』の」

舞子が前を見たまま訊く。

「『てらごこふやとみ……』とかあるらしいけど、僕は大ざっぱに東大路、川端、河原町、烏丸、堀川、千本、西大路、葛野大路って覚えてるだけやな」

「それ、十分すごいと思う」

そんな話をしているうちに、堀川との交差点に着いた。右前方に二条城の外堀と石垣が見える。
外堀に沿って自転車を止め、東大手門から入城券を買う。枡形を抜けると、石の匂いがひやっと上がってきた。
正面には、檜皮葺の曲線が美しい唐門。欄間の鶴や松竹梅、脇の唐獅子が、光を受けて静かに浮かび上がっている。

「うわぁ……」

舞子が小声でため息をついた。
靴を脱いで二の丸御殿へ。一歩踏み出した足の下で、「チチッ」と小さな音がする。

「今の?」

「鴬張りやな。板と釘が擦れて鳴る仕掛け。泥棒避けって言われてるやつ」

「ほんとに小鳥みたいに鳴くんだ」

最初の間は虎の間。金地の襖いっぱいに、竹林と猛虎。ここは大名が最初に通される遠侍で、「威圧担当」と解説に書いてあった。

式台から黒書院、白書院へと進むほど、畳の縁の文様や柱の太さが変わっていく。部屋そのものが「身分の段差」を説明しているようだった。

やがて大広間。将軍の上段と来客の下段が向かい合い、ここで大政奉還の宣言が行われたと案内板にある。

「教科書で見た場所を、自分で歩いてるんだね」

舞子がぽつりと言う。

「そう考えると、ちょっとぞわっとするな」

御殿を出ると、目の前には二の丸庭園。池に三つの中島、切り詰めた黒松、巖組。風が水面を押して、影だけがゆっくり揺れた。

「こういう“ちゃんと見せる豪華さ”、京都でもここだけだね」

「将軍家の“見せ筋”やからな。虎で脅して、上段で締める、みたいな」

土塀沿いに歩けば、石垣の角から隅櫓が白く張り出している。堀の中を覗くと、大きな鯉が一匹、ゆっくりと身を翻した。

唐門の前では修学旅行生がクラス写真の列を作っていた。先生が「はい、ここから撮ると門がちょうど入るからね」と声をかける。人波が切れた隙に、もう一度だけ唐門の彫刻を見上げた。

「満足?」

「うん。天守じゃなくて御殿と庭で見せる“城”って、なんか京都っぽいな」

二条城を後にし、堀川を少し北へ。丸太町を西へ折れて二条駅を過ぎ、西大路に出る。古い八百屋や肉屋、昭和っぽい喫茶店の間に、新しいビルがぽつぽつ混じっている。信号待ちのたびに、パンの匂いや揚げ物の匂いが風に乗ってきた。

「この交差点右に曲がったら北野天満宮」

「学問の神様だっけ?」

「うん。受験シーズンはえらい行列や」

北野白梅町で左折し、嵐電と並走する今出川通へ入る。ほどなくして住宅地の細い路地を右へ折れると、急に空が広くなった。龍安寺の南門だ。

苔むした石垣と生け垣のあいだを抜ける参道は、土と砂利が混じった柔らかい感触で、足音も吸い込んでしまう。

靴を脱いで方丈の縁側に上がると、白砂と石の庭が目の前に広がった。

「……写真で見るより、ずっと静かだね」

舞子は縁側の端に座り、膝を抱えて庭を見つめた。砂の白さと石の影。15個の石が、5つのグループに分かれて置かれているのが見て取れるけれど、どう座っても全部は見えない。

「見えそうで見えないな」

僕が言うと、舞子は少し首をかしげた。

「全部見たいのに、どこか一個だけ隠れちゃう。……そういうもんなんだよ、って言われてるみたい」

しばらく黙って庭を眺めた。目を閉じると、遠くで鳥の声と、松の枝が風に擦れる音だけが聞こえる。

横手の蹲踞には「吾唯足知」の文字。舞子が小さな声でつぶやく。

「“今の自分で足りてる”って、つい忘れちゃうけど……たまにはこういう場所で思い出さないとね」

鏡容池のほうへ回ると、水面に松と空の色が揺れていた。紅葉の季節なら、きっとここは別世界だろう。まだ緑の多い初秋の庭は、静かな呼吸だけをこちらに渡してくる。

「ねえ、もし京都じゃなくて東京とか大阪に住んでたら、私たち、こういうとこまでちゃんと来てたかな」

舞子がふいに、そんなことを言った。

「どうやろなあ。『いつでも行ける』って思ったまま、結局行かへんかもしれん」

「そっか。でも、今ちゃんと来られてよかった」

その言い方が少しだけ真面目で、僕は横顔を盗み見た。

「来てよかった」

「そうやな。写真だけじゃ空気の温度までは分からへんし」

きぬかけの道をさらに北へ。10分も漕げば金閣寺だ。駐輪場に自転車を預け、黒門をくぐって玉砂利の参道を進む。

総門を抜けた瞬間、視界がぱっと開ける。鏡湖池の向こうに、舎利殿が金色に立っていた。

「わあ……」

舞子の声が、さっきよりもう一段小さくなる。写真で見慣れていたはずの姿なのに、実物は意外なほど静かだった。金箔はまぶしいはずなのに、水面に映る像が揺れるせいか、全体が柔らかく見える。

「写真で見るより、空気が澄んでる感じ」

「僕も初めてやけど、“静かな派手さ”ってこういうことかもしれんな」

三層それぞれが寝殿造、武家造、仏殿造だという説明を横目に、池の端を歩く。島の石組や松の枝ぶりが、金色の後ろで影絵みたいに連なっていた。

一周して振り返ると、舎利殿は西日を受けて少し赤みを帯びた金色に変わっている。参道を戻る途中、係の人が門の方をちらちら見ていた。拝観時間も終わりに近いらしい。

「そろそろ帰ろか」

「うん。でも喉乾いた」

僕も同じことを考えていた。

「ほな、北野白梅町のバイト先寄ってこ。すぐそこやし」

鞍馬口通を西へ出て、西大路を南へ。ここからはずっとゆるい下り坂で、ペダルをほとんど踏まなくても自転車はすべっていく。

昼過ぎの風は、さっきより少しだけ冷たくなっていた。汗で湿ったTシャツに当たると、表面だけすっと冷える。肩の奥の鈍い痛みも、風に撫でられて薄まっていくような気がした。

「わーい、楽ちん」

舞子が両足を前に伸ばして、風を切る。

「危ないからちゃんと足はペダルに乗せとけ」

口ではそう言いながら、僕も少しだけスピードを上げた。

見慣れた扉を開けて店に入ると、高校生アルバイトのショウコちゃんが水とメニューを持ってきた。

「いらっしゃいませ。珍しいですね、この時間にお客さんで来るなんて」

メニューをテーブルに置きながら、ちらっと舞子を見る。

「今日は彼女さんとデートですか?」

「いや、親戚の子。京都案内してた」

「そうなんですか。いいですね」

ショウコちゃんは高2で、舞子と同い年だ。けれど落ち着き具合は、どう見ても向こうのほうが大人びている。

「僕はアイスモカジャバ。舞子は?」

「この、アイスティにソフトクリーム乗ってるやつ」

メニューの写真を指さして言う。

「じゃあ、アイスモカジャバと、アイスティ・フロスティお願いします」

「はーい」

ショウコちゃんが去っていき、ふとホールを見渡すと、この時間ならいるはずの店長の姿が見えない。
やがてグラスを乗せたトレイを持って戻ってきたショウコちゃんに訊ねる。

「店長、今日は?」

「社員さん急な会議らしくて、今日は代わりにシフトリーダーが……」

「あー! ハルヒトお前!」

バックヤードから聞き慣れた声が飛んできた。見ると、エプロン姿のタカトモが出てくる。

「お前なあ、怪我したとか言うてバンドの練習ブッチしといて、そのせいでこっちは暇なって店長の代わりに働いてんのに、お前は舞子ちゃんとデートかい!」

「いや、ほんまごめん!」

思わず半分立ち上がって頭を下げる。

「あの右肩でベースはさすがに無理やってんて」

「ごめんで済むか。来週は絶対来いよ。スタジオ代もったいないんやからな」

「分かった分かった。ビワコオオナマズに誓って」

「何に誓っとんねん!」

プリプリ言いながらも、タカトモの声にはどこか楽しそうな響きがあった。
テーブルの上で、グラスの氷がからんと鳴る。アイスティ・フロスティの上のソフトクリームをスプーンで崩しながら、舞子がにこにこと僕を見る。

「何やねん」

「ううん」

舞子はわざとらしく目を伏せ、小さな声で呟いた。

「彼女さん……デート……」

からかい半分、本気半分みたいな声色で言われて、僕はストローを咥えたまま、返事の言葉を一つ見失った。

窓の外では、北野白梅町の交差点をバスや自転車が絶え間なく行き交っている。さっきまで自分たちもあの流れの一部だったのに、今はガラス越しにぼんやり眺めているだけだ。

「今日だけで、結構いろいろ回ったよね」

舞子がストローをくわえたまま言う。

「八坂から清水、二条城に龍安寺、金閣寺。よう考えたら、修学旅行二日分くらいやな」

「ふふ。得した気分」

そう言って、舞子はまたアイスティを一口飲んだ。グラスの中で、溶けかけたソフトクリームがゆっくり渦を巻いている。

このまま日が暮れて、自転車で鴨川を渡って、舞子とアパートに帰る。その途中で、今日見た景色の話をもう一度して、どこが一番良かったかでまた少し揉めるかもしれない。

そんな光景をぼんやり想像していたら、右肩の奥が、さっきよりも少しだけ軽くなっているのに気づいた。

京都の一日は、まだ少しだけ続きそうだった。
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