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十四
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時は、延宝五年(一六七七年)の、正月は九日である。
五穀豊穣を祝う大般若会が終わっても、成田不動の初詣の参詣者に切れ間はない。
ここに再び、田村座の掛け小屋が建ち、明日に初日を控えている。
この年の文月(七月)に、京都は宇治座にて、浄瑠璃「てんぐのだいり」が上演された。
この作品は、無名時代の近松門左衛門の作品だという説がある。
近松といえば、義太夫節浄瑠璃の創始者、竹本義太夫のために書いた、「出世景清」(貞享三年=一六八六年)があまりにも有名だが、後の三大歌舞伎作者の一人である。
その近松の修行時代である。
そういう観点からしても、歌舞伎はまだまだ黎明期であったと言えよう。
田村座はと言えば、別の意味での転換期を迎えていた。
役者の数が激減していた。
元の立役(たちやく=善人の男の役を演ずる幹部役者)が突然死去したことと関係して、何人かの役者が辞めた。
そして、何より、田村富久猿が既に高齢ということもあって、一座への影響力が弱くなっている。
今の立役は、田村鶴太郎。
そう、余助である。
二十七歳と成っていた。
一年前から立役を務めている。
立役としての初舞台を、鶴太郎はかの新庄城下で踏んだ。
お礼興行が出来たという訳だった。
木戸との再会は叶わなかったが、藤次郎と妻の文はともに健在で、何度も観劇に足を運んでくれた。
鶴太郎の芸は更に磨きが掛かって、役者不足の田村座をその存在感で引っ張っていた。
その噂は諸国に知れ渡っている。
そうでなければ、成田山の正月の興行など実現するはずがなかった。
その興行の噂を聞きつけてやってくる、江戸からの観客も数多くいた。
堀越重蔵も、その一人であった。
今回は、海老蔵を伴っている。
その海老蔵は、ただならぬ様相であった。
一昨年、海老蔵が元で、刃傷沙汰があった。
海老蔵の色同士のことであった。
嫉妬に狂った、一方の侍が、待ち伏せて茶屋の一室で斬りつけた。
幸い、切られた方の侍は軽い傷を負っただけで、逃げ切った。
重蔵が手を回したから、表沙汰にはならなかったのだが、それ以来、海老蔵は舞台に上がれなかった。
とても舞台を務められるような、海老蔵の精神状態ではなかったのだ。
それでも、一年経ち、少しは落ち着いて、初詣がてら、後学のためにも田村座の興行を観に行こう、と重蔵が誘った。
重蔵には、密かに別の計画もあった。
それは、田村富久猿、鶴太郎と面会することだった。
どうしてそうなったのか。
それは重蔵の直感であった。
贔屓客として会いたい、という素直な気持ちと、今会っておけば後に何か役に立つことがあるのではないか、という勘である。
初日、最初の演目は「浪人盃」であった。
偶然にも、海老蔵にも思い出深い演目である。
海老蔵は、高坂采女(こうさかうぬめ)の役しか演じたことが無かったが、鶴太郎は浪人、轟辯右衛門(とどろきべんえもん)を演じる。
諸国を回る中で、鶴太郎は、他の劇団の観劇にもよく足を運んだ。
そこから得ることは数多く、自分の役作りにも生かせたし、自ら手掛ける脚本にも役立った。
「浪人盃」も、どこかで観たものを書き起こし、自分なりに書き換え、演出を加えた。
この演目に関しては、浪人、轟辯右衛門を殊更に、劇的に見せるのが、鶴太郎流の演出であった。
正月の興行ということで、あまり血なまぐさい演目は入れていなかった。
それでいくと、「浪人盃」などは持って来いだった。
鶴太郎といえば、時代物しか観たことがない重蔵であったが、「浪人盃」をどう演じるのか、という期待を胸に開演を待っている。
海老蔵はどこか落ち着かない様子だった。
しばらく上がっていない舞台を客席側から観ることに、ある種の恐れがあるのかもしれなかった。
自分は、このまま舞台に上がれないようになってしまうのではないか、という恐怖が背景にあるのか。
若く威勢の良い、美男演じる高坂采女が上手から登場する。
冒頭から長唄までですら、すでに目出度い雰囲気である。
それが轟辯右衛門の登場で、一転、緊迫した空気に変わる。
気がつけば、今回は小屋に花道が設けられており、そこを逡巡しながら、轟辯右衛門が進んで来る。
その迷いを、行きつ戻りつ、身振り手振りで、舞うように演じる。
すでに見せ場に突入。
壁面の明かり窓が次々に開けられ、花道に光が当たる。
舞台下手に着くと、鶴太郎は観客を振り返り、覚悟を決めた表情を見せる。
つら灯りが差し出される。
その後、馬の方へ歩んで、辯右衛門がひれ伏した。
「これ、何者か、慮外者(無礼者)、笠を取れ」
家来が大音声で咎め、侍たちが歩み寄る。
「やれ、待て待て」
ここで、高坂が割って入る。
「かの者我にむかいて平伏の体(てい)とみゆれば、これ全く慮外にあらず。これそな男、それがしに向い用ありげに見えたるは、いかなる人にて何の用事子細聞かん」
轟は、更に進み出るも膝は着いたまま、腰は少し立て、伏せがちに観客の方に顔を向けたまま、謹んで言う。
つら灯りが再度、差し出され、轟の顔が浮かび上がる。
「采女殿には、体(てい)先ず以て大慶(たいけい)至極、以前御懇意の拙者なれども、年へたれば声も聞き忘れ給うべし。今日この道をお通りと承り、あまり懐かしく、最前より待受け、お馬の先に平伏いたしながら、御勘気(昔お怒り)をこうむりし身なれば、顔を貴殿に見せ申すも恐れあり。また面目なく存じ、慮外の編笠真っ平御免」
感情を込めた長台詞。
この後、編笠が取られ、再会となり、扇を盃に見立てて、祝いの酒宴となる。
最後は、正月の舞台とあって、殊更、賑やかに音曲も入れて盛大に演じられた。
初日終演後すぐに、重蔵は楽屋を訪れ、面会を申し出ると、富久猿は快く引き受けてくれた。
それに、立ち話も何ですから、と逆に会食の誘いを受けたのであった。
それならばということで、宴会の手はずを整えて繋ぎを付けます、と申し置いて、重蔵と海老蔵は逗留先の宿、升屋に一旦戻った。
升屋の主人は、簡単な料理と酒ならすぐにでも用意できる、と言うので、重蔵は早速使いを遣った。
四半時ほどで、富久猿と鶴太郎が升屋にやってきた。
「興行の多忙の折、申し訳ございません」
「いやいや、こちらこそ、安々と押しかけまして」
すぐに酒が運ばれてきた。
「初日も大入りようで、おめでとうございます」
「有難う存じます、おかげ様にて」
鶴太郎は出しゃばらず、横で頭だけ下げる。
「まずは」
重蔵は富久猿の盃に、海老蔵は鶴太郎の盃に酒を注いだ。
「私は、成田のお不動さんを以前から信心しておりまして、それで、偶然に田村座の舞台を拝見したのが最初です」
「さようで」
「その時は、まあ、驚きました」
富久猿は少し意外だという表情を見せたが、鶴太郎の方は興味津々、言葉の次を待った。
「回りくどいことはさておき、早い話が、目に新しかった」
「そう、私ども、旅の一座は、何せ田舎芝居のようなものですから」
「いや、珍しいではなく、新しい、と」
二杯目は杯でなく、富久猿の猪口のほうへ酒を注ぐと、自分のは手酌で注ぎ、それを一気に飲み干して、重蔵は切り出した。
「化粧、そして、本、あれは、富久猿さん、そなたの考案ですか」
「恥ずかしながら、さようで、いや、この頃はここに居ます、鶴太郎も考えます」
重蔵は、つくづくと頷き、更に続けた。
「江戸の歌舞伎は、まだまだこれからです。ただただ役者の容姿だけを披露するものではなく、もっと見応えのあるものにしていかなければならない、と、この頃は考えます」
鶴太郎が、重蔵の猪口に酒を注ぐ。
もっと話せ、と言うような表情を浮かべていた。
海老蔵は、怖ず怖ずと富久猿と鶴太郎の猪口に酒を注ぐ。
「早い話が、田村座の舞台には、重みがある。それがここに響いてくる」
重蔵はそう言って、胸に手を当てた。
「今日の、浪人盃にしても、あれはあっさり演じてしまえば、気軽に楽しめる演目。そう演じるものだと、我々は思い込んでいる。しかし、同じ浪人盃でも、田村座が演じれば、まったく別の浪人盃だ」
重蔵がまた酒を煽る。
海老蔵は、富久猿と鶴太郎に、料理を勧めた。
「有難う存じます。同業の方に、そのように言っていただくことは、私も本望です。この鶴太郎は、身寄りもなく、小さい時に拾ったのですが、まあ、勉強熱心で、ゆく先々の芸能を良く観ましてな、それを取り入れてるのです。もちろん、江戸の芝居にも大変に教えられることが多く、そのお陰ですよ」
そういうと、富久猿は、少し気弱な表情を浮かべ、一つ息を吐くと、椀に手を伸ばした。
それを合図に、皆が箸を進める。
「そんなことより、海老蔵さんの舞台は素晴らしい。二度ほど、市村座で拝見していますよ」
ここで鶴太郎が初めて割って入った。
「女形も、よくはまっていて、心奪われました」
海老蔵は、少し笑みを浮かべて頭を下げた。
富久猿が引き取る。
「そうそう、女形といえば上方ですが、それらの役者と全く引けを取りませんよ」
「そんなことは」
海老蔵は手を横に振って謙遜した。
「この海老蔵も、身寄りがありません」
「さようですか、お歳は鶴太郎とおなじぐらいでしょうかね」
「二十九になります」
海老蔵は、恥ずかしそうに答える。
鶴太郎が二十七だから、海老蔵が二つ上だ。
ほぼ同年ということで、鶴太郎はいよいよ海老蔵に親近感をもったらしく、輝いた眼差しを向けながら言った。
「歳も、境遇も似てますな」
富久猿がそう言うのへ、鶴太郎が頷く。
一方の重蔵は、鶴太郎が意外に若いことに驚いた。
正直、海老蔵は貫禄負けしている、と思った。
海老蔵も同様の心持ちでいたに違いない。
重蔵は、頷きながら、心の中を隠すかのように猪口を口に運んだ。
しばし、沈黙が流れた。
それを破ったのは、鶴太郎であった。
「羨ましいです、海老蔵さんが。江戸の中心で舞台を務められて」
それは、裏のない素直な気持ちだった。
言葉に困っていた重蔵は、思わぬ助け舟を得た。
本題の下地が整った気がした。
「歌舞伎はこれからです。いろいろと新しい事を取り込んで成長していかないといけない。田村座も同じでしょう」
話の筋が分からず、富久猿も鶴太郎も言葉の先を待った。
「どうです、富久猿さん。鶴太郎さんを江戸の舞台に上がらせてみては」
「いやいや」
富久猿は、冗談を、と笑いながら言った。
鶴太郎も笑って、重蔵の顔を伺う。
重蔵は笑っていなかった。
「なんと言いましょうか。旅回りの芸は、所詮旅回りの芸です。江戸の舞台とは根本が違う。私どもの芸は江戸では通用しません」
重蔵は空かさず言った。
「いや、まさにそこです。先ほどから申している通り、そこに風穴を開けたい。何度も言いますが、歌舞伎は変わっていかなければならないのです」
今日、このような境地に至ったことに、一番驚いているのは、重蔵かも知れなかった。
実は、もともとは、自らが役者を目指した重蔵だった。
しかし、そのことは叶わなかった。
素質がない、と早々と悟った。
しかしそれは、金儲け、という観点で行くと、自分が出る幕が無いわけではない。
最初は、そのことしかなかった。
それが、長一郎がきっかけで変わって行ったのだ。
そしてさらに、鶴太郎との出会いが、それに拍車を掛けたのである。
座元にならなくても、歌舞伎を動かすことができる、と。
「市村座ならば、私のつてでどうとでもなります」
しばらく、思案していた富久猿が漸く口を開く。
鶴太郎は、このことに関して自分が先に口を出すわけには行かない、と思って押し黙っている。
「私も、あと何年、この一座を引っ張って行けるか分かりません」
事実、もう舞台には上がっていない富久猿だった。
「もう、代替わりの時です」
富久猿は、一旦そこで言葉を切った。
「田村座自体も転機かもしれません。役者が減りましてな。やれる演目に限りがある」
その言葉は、富久猿の事実上の引退宣言と言ってよかった。
そんな弱気なことを聞くのは、鶴太郎にとっても初めてのことだった。
重蔵は、言うべきことを言い切った、という心持ちだった。
「すっかり冷めてしまいました。申し訳ございません、話が過ぎました。どうぞ召し上がってください」
この五年後、田村座は本拠地、京都の興行をもって解散となった。
それと、まるで合わせたかのようだった。
解散の二月後、田村富久猿は帰らぬ人となった。
享年七十一歳であった。
五穀豊穣を祝う大般若会が終わっても、成田不動の初詣の参詣者に切れ間はない。
ここに再び、田村座の掛け小屋が建ち、明日に初日を控えている。
この年の文月(七月)に、京都は宇治座にて、浄瑠璃「てんぐのだいり」が上演された。
この作品は、無名時代の近松門左衛門の作品だという説がある。
近松といえば、義太夫節浄瑠璃の創始者、竹本義太夫のために書いた、「出世景清」(貞享三年=一六八六年)があまりにも有名だが、後の三大歌舞伎作者の一人である。
その近松の修行時代である。
そういう観点からしても、歌舞伎はまだまだ黎明期であったと言えよう。
田村座はと言えば、別の意味での転換期を迎えていた。
役者の数が激減していた。
元の立役(たちやく=善人の男の役を演ずる幹部役者)が突然死去したことと関係して、何人かの役者が辞めた。
そして、何より、田村富久猿が既に高齢ということもあって、一座への影響力が弱くなっている。
今の立役は、田村鶴太郎。
そう、余助である。
二十七歳と成っていた。
一年前から立役を務めている。
立役としての初舞台を、鶴太郎はかの新庄城下で踏んだ。
お礼興行が出来たという訳だった。
木戸との再会は叶わなかったが、藤次郎と妻の文はともに健在で、何度も観劇に足を運んでくれた。
鶴太郎の芸は更に磨きが掛かって、役者不足の田村座をその存在感で引っ張っていた。
その噂は諸国に知れ渡っている。
そうでなければ、成田山の正月の興行など実現するはずがなかった。
その興行の噂を聞きつけてやってくる、江戸からの観客も数多くいた。
堀越重蔵も、その一人であった。
今回は、海老蔵を伴っている。
その海老蔵は、ただならぬ様相であった。
一昨年、海老蔵が元で、刃傷沙汰があった。
海老蔵の色同士のことであった。
嫉妬に狂った、一方の侍が、待ち伏せて茶屋の一室で斬りつけた。
幸い、切られた方の侍は軽い傷を負っただけで、逃げ切った。
重蔵が手を回したから、表沙汰にはならなかったのだが、それ以来、海老蔵は舞台に上がれなかった。
とても舞台を務められるような、海老蔵の精神状態ではなかったのだ。
それでも、一年経ち、少しは落ち着いて、初詣がてら、後学のためにも田村座の興行を観に行こう、と重蔵が誘った。
重蔵には、密かに別の計画もあった。
それは、田村富久猿、鶴太郎と面会することだった。
どうしてそうなったのか。
それは重蔵の直感であった。
贔屓客として会いたい、という素直な気持ちと、今会っておけば後に何か役に立つことがあるのではないか、という勘である。
初日、最初の演目は「浪人盃」であった。
偶然にも、海老蔵にも思い出深い演目である。
海老蔵は、高坂采女(こうさかうぬめ)の役しか演じたことが無かったが、鶴太郎は浪人、轟辯右衛門(とどろきべんえもん)を演じる。
諸国を回る中で、鶴太郎は、他の劇団の観劇にもよく足を運んだ。
そこから得ることは数多く、自分の役作りにも生かせたし、自ら手掛ける脚本にも役立った。
「浪人盃」も、どこかで観たものを書き起こし、自分なりに書き換え、演出を加えた。
この演目に関しては、浪人、轟辯右衛門を殊更に、劇的に見せるのが、鶴太郎流の演出であった。
正月の興行ということで、あまり血なまぐさい演目は入れていなかった。
それでいくと、「浪人盃」などは持って来いだった。
鶴太郎といえば、時代物しか観たことがない重蔵であったが、「浪人盃」をどう演じるのか、という期待を胸に開演を待っている。
海老蔵はどこか落ち着かない様子だった。
しばらく上がっていない舞台を客席側から観ることに、ある種の恐れがあるのかもしれなかった。
自分は、このまま舞台に上がれないようになってしまうのではないか、という恐怖が背景にあるのか。
若く威勢の良い、美男演じる高坂采女が上手から登場する。
冒頭から長唄までですら、すでに目出度い雰囲気である。
それが轟辯右衛門の登場で、一転、緊迫した空気に変わる。
気がつけば、今回は小屋に花道が設けられており、そこを逡巡しながら、轟辯右衛門が進んで来る。
その迷いを、行きつ戻りつ、身振り手振りで、舞うように演じる。
すでに見せ場に突入。
壁面の明かり窓が次々に開けられ、花道に光が当たる。
舞台下手に着くと、鶴太郎は観客を振り返り、覚悟を決めた表情を見せる。
つら灯りが差し出される。
その後、馬の方へ歩んで、辯右衛門がひれ伏した。
「これ、何者か、慮外者(無礼者)、笠を取れ」
家来が大音声で咎め、侍たちが歩み寄る。
「やれ、待て待て」
ここで、高坂が割って入る。
「かの者我にむかいて平伏の体(てい)とみゆれば、これ全く慮外にあらず。これそな男、それがしに向い用ありげに見えたるは、いかなる人にて何の用事子細聞かん」
轟は、更に進み出るも膝は着いたまま、腰は少し立て、伏せがちに観客の方に顔を向けたまま、謹んで言う。
つら灯りが再度、差し出され、轟の顔が浮かび上がる。
「采女殿には、体(てい)先ず以て大慶(たいけい)至極、以前御懇意の拙者なれども、年へたれば声も聞き忘れ給うべし。今日この道をお通りと承り、あまり懐かしく、最前より待受け、お馬の先に平伏いたしながら、御勘気(昔お怒り)をこうむりし身なれば、顔を貴殿に見せ申すも恐れあり。また面目なく存じ、慮外の編笠真っ平御免」
感情を込めた長台詞。
この後、編笠が取られ、再会となり、扇を盃に見立てて、祝いの酒宴となる。
最後は、正月の舞台とあって、殊更、賑やかに音曲も入れて盛大に演じられた。
初日終演後すぐに、重蔵は楽屋を訪れ、面会を申し出ると、富久猿は快く引き受けてくれた。
それに、立ち話も何ですから、と逆に会食の誘いを受けたのであった。
それならばということで、宴会の手はずを整えて繋ぎを付けます、と申し置いて、重蔵と海老蔵は逗留先の宿、升屋に一旦戻った。
升屋の主人は、簡単な料理と酒ならすぐにでも用意できる、と言うので、重蔵は早速使いを遣った。
四半時ほどで、富久猿と鶴太郎が升屋にやってきた。
「興行の多忙の折、申し訳ございません」
「いやいや、こちらこそ、安々と押しかけまして」
すぐに酒が運ばれてきた。
「初日も大入りようで、おめでとうございます」
「有難う存じます、おかげ様にて」
鶴太郎は出しゃばらず、横で頭だけ下げる。
「まずは」
重蔵は富久猿の盃に、海老蔵は鶴太郎の盃に酒を注いだ。
「私は、成田のお不動さんを以前から信心しておりまして、それで、偶然に田村座の舞台を拝見したのが最初です」
「さようで」
「その時は、まあ、驚きました」
富久猿は少し意外だという表情を見せたが、鶴太郎の方は興味津々、言葉の次を待った。
「回りくどいことはさておき、早い話が、目に新しかった」
「そう、私ども、旅の一座は、何せ田舎芝居のようなものですから」
「いや、珍しいではなく、新しい、と」
二杯目は杯でなく、富久猿の猪口のほうへ酒を注ぐと、自分のは手酌で注ぎ、それを一気に飲み干して、重蔵は切り出した。
「化粧、そして、本、あれは、富久猿さん、そなたの考案ですか」
「恥ずかしながら、さようで、いや、この頃はここに居ます、鶴太郎も考えます」
重蔵は、つくづくと頷き、更に続けた。
「江戸の歌舞伎は、まだまだこれからです。ただただ役者の容姿だけを披露するものではなく、もっと見応えのあるものにしていかなければならない、と、この頃は考えます」
鶴太郎が、重蔵の猪口に酒を注ぐ。
もっと話せ、と言うような表情を浮かべていた。
海老蔵は、怖ず怖ずと富久猿と鶴太郎の猪口に酒を注ぐ。
「早い話が、田村座の舞台には、重みがある。それがここに響いてくる」
重蔵はそう言って、胸に手を当てた。
「今日の、浪人盃にしても、あれはあっさり演じてしまえば、気軽に楽しめる演目。そう演じるものだと、我々は思い込んでいる。しかし、同じ浪人盃でも、田村座が演じれば、まったく別の浪人盃だ」
重蔵がまた酒を煽る。
海老蔵は、富久猿と鶴太郎に、料理を勧めた。
「有難う存じます。同業の方に、そのように言っていただくことは、私も本望です。この鶴太郎は、身寄りもなく、小さい時に拾ったのですが、まあ、勉強熱心で、ゆく先々の芸能を良く観ましてな、それを取り入れてるのです。もちろん、江戸の芝居にも大変に教えられることが多く、そのお陰ですよ」
そういうと、富久猿は、少し気弱な表情を浮かべ、一つ息を吐くと、椀に手を伸ばした。
それを合図に、皆が箸を進める。
「そんなことより、海老蔵さんの舞台は素晴らしい。二度ほど、市村座で拝見していますよ」
ここで鶴太郎が初めて割って入った。
「女形も、よくはまっていて、心奪われました」
海老蔵は、少し笑みを浮かべて頭を下げた。
富久猿が引き取る。
「そうそう、女形といえば上方ですが、それらの役者と全く引けを取りませんよ」
「そんなことは」
海老蔵は手を横に振って謙遜した。
「この海老蔵も、身寄りがありません」
「さようですか、お歳は鶴太郎とおなじぐらいでしょうかね」
「二十九になります」
海老蔵は、恥ずかしそうに答える。
鶴太郎が二十七だから、海老蔵が二つ上だ。
ほぼ同年ということで、鶴太郎はいよいよ海老蔵に親近感をもったらしく、輝いた眼差しを向けながら言った。
「歳も、境遇も似てますな」
富久猿がそう言うのへ、鶴太郎が頷く。
一方の重蔵は、鶴太郎が意外に若いことに驚いた。
正直、海老蔵は貫禄負けしている、と思った。
海老蔵も同様の心持ちでいたに違いない。
重蔵は、頷きながら、心の中を隠すかのように猪口を口に運んだ。
しばし、沈黙が流れた。
それを破ったのは、鶴太郎であった。
「羨ましいです、海老蔵さんが。江戸の中心で舞台を務められて」
それは、裏のない素直な気持ちだった。
言葉に困っていた重蔵は、思わぬ助け舟を得た。
本題の下地が整った気がした。
「歌舞伎はこれからです。いろいろと新しい事を取り込んで成長していかないといけない。田村座も同じでしょう」
話の筋が分からず、富久猿も鶴太郎も言葉の先を待った。
「どうです、富久猿さん。鶴太郎さんを江戸の舞台に上がらせてみては」
「いやいや」
富久猿は、冗談を、と笑いながら言った。
鶴太郎も笑って、重蔵の顔を伺う。
重蔵は笑っていなかった。
「なんと言いましょうか。旅回りの芸は、所詮旅回りの芸です。江戸の舞台とは根本が違う。私どもの芸は江戸では通用しません」
重蔵は空かさず言った。
「いや、まさにそこです。先ほどから申している通り、そこに風穴を開けたい。何度も言いますが、歌舞伎は変わっていかなければならないのです」
今日、このような境地に至ったことに、一番驚いているのは、重蔵かも知れなかった。
実は、もともとは、自らが役者を目指した重蔵だった。
しかし、そのことは叶わなかった。
素質がない、と早々と悟った。
しかしそれは、金儲け、という観点で行くと、自分が出る幕が無いわけではない。
最初は、そのことしかなかった。
それが、長一郎がきっかけで変わって行ったのだ。
そしてさらに、鶴太郎との出会いが、それに拍車を掛けたのである。
座元にならなくても、歌舞伎を動かすことができる、と。
「市村座ならば、私のつてでどうとでもなります」
しばらく、思案していた富久猿が漸く口を開く。
鶴太郎は、このことに関して自分が先に口を出すわけには行かない、と思って押し黙っている。
「私も、あと何年、この一座を引っ張って行けるか分かりません」
事実、もう舞台には上がっていない富久猿だった。
「もう、代替わりの時です」
富久猿は、一旦そこで言葉を切った。
「田村座自体も転機かもしれません。役者が減りましてな。やれる演目に限りがある」
その言葉は、富久猿の事実上の引退宣言と言ってよかった。
そんな弱気なことを聞くのは、鶴太郎にとっても初めてのことだった。
重蔵は、言うべきことを言い切った、という心持ちだった。
「すっかり冷めてしまいました。申し訳ございません、話が過ぎました。どうぞ召し上がってください」
この五年後、田村座は本拠地、京都の興行をもって解散となった。
それと、まるで合わせたかのようだった。
解散の二月後、田村富久猿は帰らぬ人となった。
享年七十一歳であった。
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