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十三
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寛文八年(一六六八年)の正月が明けた。
長一郎(海老蔵)は、数えの二十歳になった。
評判記の位附(評価の位)は上がらなかったが、すでに一人前の役者であり、小屋での地位も上がっていた。
重蔵は、気持ちを新たにしていた。
前年、成田山詣で、偶然にも田村座の鶴太郎の演技を目にした。
それ以来、重蔵には思うところがあり、密かに計画を練っていた。
一方、市村座を含め、江戸四座においては、新しい役者も増え、歌舞伎の有り様も変わっていった。
言わば、歌舞伎は歌舞伎独自の芸能として一本立ちする必要を、誰もが、それぞれに感じ始めていた。
重蔵もその点では、同じであった。
正月は、七草の日。
重蔵と長一郎は、市村座にほど近い堺町の、とある茶屋の一室に居た。
「いまや、容姿の人気だけで勝負できる時代ではなくなった。お前ももっと芸に磨きをかけ変わっていく事が大事だ」
長一郎は、重蔵が改まって話し始めたことに戸惑っていた。
重蔵が言っていることは良く分かるし、自分でもそういう時代の流れを肌で感じていた。
しかし、どうすれば良いのか、長一郎には皆目見当がつかない。
「そこで、俺もよくよく考えた」
一旦伏せた目を上げ、長一郎は重蔵を見つめた。
「一つには、もちろん芸だ。芸は演じるほどに磨きがかかるのは言うまでもない。そのことを俺は心配していない」
重蔵は、長一郎の技芸を認めている、と言っているのだ。
「だが、それでは人並みだ」
重蔵は、自分の猪口に酒を注いで、一気に飲み干した。
「人と違ったことをするのだ。何でもいいから、何か違うことだ」
長一郎は、重蔵の次の言葉を待った。
「見た目ではっきり分かる違い。衣装や化粧」
重蔵は、長一郎の猪口に酒を注いで、まあ飲め、と言った。
「心配するねえ、俺に考えがある」
重蔵の頭には、田村座の鶴太郎の化粧のことがあった。
あの、血潮を表したような化粧が重蔵の脳裏にこびりついている。
それと、決めの表情。
重蔵は、再びその映像を思い出しながら、自分の猪口に酒を注いで、噛みしめるように飲んだ。
「二つ目は」
長一郎は、猪口を置いて、再び重蔵を見つめる。
「こちらのほうが、実は大事かもしれない」
重蔵はそう前置きをした。
「役者の評判記が、いろいろと出ていることをお前も知っているだろう」
長一郎は頷く。
「評者がどう評価し、評判記にどう書くか、それが人気を左右する時代になった」
重蔵の持論が展開される。
「早い話が、評者に取りいれば良い。そんなことをしている役者を知っているわけではないが、極端な話がそういうことができるようになる。いや、俺はそれをしようとしているわけではないのだが」
火鉢の炭が、かたっと崩れ、灰が小さく舞い上がった。
部屋は、魚油の匂いに満たされている。
「観客、世間に対して、どのように見せて行くか、が大事だと、俺は考えている。贔屓客を増やすために、舞台や評判記以外にどういうやり方があるか、俺はそのことをずっと考えてきた」
長一郎は、この八年の間、ひたすら芸を磨くことに精を出してきた。
評価は、それに紐付いて上がってくるもの、と真っ正直に思っていて、今、重蔵が語ったことなどは、思ってもみなかった。
なるほど、しかし、それでどうするというのだ。
「お前は、座元の役者じゃねえ。そこも引けを取るところだ。だからと言って、座元になるのは至難の業」
長一郎は頷く。
「そうなると、何か他のことに乗っかることが必要だ」
重蔵は、また酒を注いだ。
長一郎は、無駄に想いを巡らす。
「俺が成田のお不動さんを信心していることはお前も知っているだろう」
何を話そうとしているのか、長一郎にはまだ分からない。
「成田山信仰は、江戸では益々勢いを増している」
重蔵は続ける。
「恐れ多いことではあるが、そこに乗じる」
この正月、重蔵と長一郎は揃って成田不動に初詣に参じた。
そして、「歌舞伎役者 堀越海老蔵」の名前で、金五十両を寄進した。
これ自体は、もちろん、密かに行ったことではあった。
しかし、噂はどこからとも知れず起こり、少しずつ広がっていく。
「海老蔵は、市川の出らしいぜ」
「そうらしいなあ。ガキの頃から成田のお不動さんを信心してて、それで、何でも五十両もの大金を寄進したらしいぜ」
歌舞伎の観客にも、成田山信仰者は多かった。
このことがきっかけで、誰もが、海老蔵の芸を成田山に引きつけて評価するようになった。
さらに、市川や成田方面からの客も徐々に増えていくのである。
厠に起きた長一郎は、火鉢の消し炭をひっくり返し、煙管の雁首を持って行って、火を付けた。
何度か、すぱすぱ、とやると、煙が立ち上がる。
ここは、湯島の茶屋。
新しい色は、紀州の武家だった。
眠りが浅い日が続いていた。
色との情事は、ほんの一時のことだが、何もかも忘れさせてくれた。
しかし、それが終わってしまえば、舞台のことがすぐに心を占めてくる。
重圧に押しつぶされそうだった。
この勢いに乗って、自分は本当に名実ともに一流の役者に上り詰めることができるのだろうか、と。
少しずつ評判が上がっていることは肌で感じる。
その御蔭で、良い役も回ってきている。
当然、舞台の数も増えた。
有り難い忙しさだった。
しかし、どうも、長一郎には、しっくりこなかった。
地に足がついていない。
自分じゃない誰かのような心地だった。
長一郎は、溜息と一緒に、煙を吐き出した。
隣室の瀬戸文史朗は、寝息も聞こえないくらい深く寝入っていた。
久しぶりの逢瀬だった。
何度も断った末のことだった。
それほどに忙しかったのだが、瀬戸は、他の色を疑っていた。
知り合って半年余り。
長一郎も、夢中であり、他の色などありえなかった。
やることをやっちまったら、この有様。
心のなかで独り言ちた。
所詮、色は色。
長一郎は、ふと自分の行く末を想った。
不安であった。
重蔵は、長一郎の心の中を見透かしていた。
なりふり構わず、突き進む、そういう勢いが足りない。
生い立ちが邪魔をしているのだろうか。
長一郎は、すっかり重蔵の息子として本当に良くやっている、と重蔵は今では感謝に絶えない。
いや、本当の息子でも、こうは行かない、と。
重蔵は、自らが、こういう境地に至るなどとは初めは思ってもみなかった。
これまでは、人の子など、商品に過ぎないと思っていたからだ。
しかし、長一郎に関しては全く違う。
どうしてだろう。
良くは分からなかったが、結果そうなってしまった。
馬が合う、と言うのは、このことだろうか。
それはいいのだが、だった。
「重蔵さん、どうしました。酒の手が止まってますよ」
塩問屋の、木村屋瀬左衛門が声を掛けたのだ。
問屋の会合の後の宴会だった。
宴が進み、それぞれが別れて、小さい塊になって飲んでいる。
芸者はとっくに帰ってしまった。
近頃、重蔵の頭の中はいつも、商売のことよりも、舞台のことでいっぱいなのだ。
「いやいや、飲み過ぎました。そろそろお開きとしましょうか」
「そうですね。ときに重蔵さんは、芝居は観ますか」
急に瀬左衛門が聞いた。
問屋仲間は、重蔵が海老蔵を抱えていることなど知らない。
詮索もしない。
放蕩息子か、ぐらいに思っている。
「いや、たまに行くぐらいですよ」
「そうですか。いやね、海老蔵という役者が評判らしいですね。さっき、田島屋さんが言ってました」
「ほう、海老蔵ね」
重蔵は、素知らぬふりで、人づてのあやふやなうわさ話に、ひとしきり耳を傾けた。
悪い気はしなかった。
長一郎(海老蔵)は、数えの二十歳になった。
評判記の位附(評価の位)は上がらなかったが、すでに一人前の役者であり、小屋での地位も上がっていた。
重蔵は、気持ちを新たにしていた。
前年、成田山詣で、偶然にも田村座の鶴太郎の演技を目にした。
それ以来、重蔵には思うところがあり、密かに計画を練っていた。
一方、市村座を含め、江戸四座においては、新しい役者も増え、歌舞伎の有り様も変わっていった。
言わば、歌舞伎は歌舞伎独自の芸能として一本立ちする必要を、誰もが、それぞれに感じ始めていた。
重蔵もその点では、同じであった。
正月は、七草の日。
重蔵と長一郎は、市村座にほど近い堺町の、とある茶屋の一室に居た。
「いまや、容姿の人気だけで勝負できる時代ではなくなった。お前ももっと芸に磨きをかけ変わっていく事が大事だ」
長一郎は、重蔵が改まって話し始めたことに戸惑っていた。
重蔵が言っていることは良く分かるし、自分でもそういう時代の流れを肌で感じていた。
しかし、どうすれば良いのか、長一郎には皆目見当がつかない。
「そこで、俺もよくよく考えた」
一旦伏せた目を上げ、長一郎は重蔵を見つめた。
「一つには、もちろん芸だ。芸は演じるほどに磨きがかかるのは言うまでもない。そのことを俺は心配していない」
重蔵は、長一郎の技芸を認めている、と言っているのだ。
「だが、それでは人並みだ」
重蔵は、自分の猪口に酒を注いで、一気に飲み干した。
「人と違ったことをするのだ。何でもいいから、何か違うことだ」
長一郎は、重蔵の次の言葉を待った。
「見た目ではっきり分かる違い。衣装や化粧」
重蔵は、長一郎の猪口に酒を注いで、まあ飲め、と言った。
「心配するねえ、俺に考えがある」
重蔵の頭には、田村座の鶴太郎の化粧のことがあった。
あの、血潮を表したような化粧が重蔵の脳裏にこびりついている。
それと、決めの表情。
重蔵は、再びその映像を思い出しながら、自分の猪口に酒を注いで、噛みしめるように飲んだ。
「二つ目は」
長一郎は、猪口を置いて、再び重蔵を見つめる。
「こちらのほうが、実は大事かもしれない」
重蔵はそう前置きをした。
「役者の評判記が、いろいろと出ていることをお前も知っているだろう」
長一郎は頷く。
「評者がどう評価し、評判記にどう書くか、それが人気を左右する時代になった」
重蔵の持論が展開される。
「早い話が、評者に取りいれば良い。そんなことをしている役者を知っているわけではないが、極端な話がそういうことができるようになる。いや、俺はそれをしようとしているわけではないのだが」
火鉢の炭が、かたっと崩れ、灰が小さく舞い上がった。
部屋は、魚油の匂いに満たされている。
「観客、世間に対して、どのように見せて行くか、が大事だと、俺は考えている。贔屓客を増やすために、舞台や評判記以外にどういうやり方があるか、俺はそのことをずっと考えてきた」
長一郎は、この八年の間、ひたすら芸を磨くことに精を出してきた。
評価は、それに紐付いて上がってくるもの、と真っ正直に思っていて、今、重蔵が語ったことなどは、思ってもみなかった。
なるほど、しかし、それでどうするというのだ。
「お前は、座元の役者じゃねえ。そこも引けを取るところだ。だからと言って、座元になるのは至難の業」
長一郎は頷く。
「そうなると、何か他のことに乗っかることが必要だ」
重蔵は、また酒を注いだ。
長一郎は、無駄に想いを巡らす。
「俺が成田のお不動さんを信心していることはお前も知っているだろう」
何を話そうとしているのか、長一郎にはまだ分からない。
「成田山信仰は、江戸では益々勢いを増している」
重蔵は続ける。
「恐れ多いことではあるが、そこに乗じる」
この正月、重蔵と長一郎は揃って成田不動に初詣に参じた。
そして、「歌舞伎役者 堀越海老蔵」の名前で、金五十両を寄進した。
これ自体は、もちろん、密かに行ったことではあった。
しかし、噂はどこからとも知れず起こり、少しずつ広がっていく。
「海老蔵は、市川の出らしいぜ」
「そうらしいなあ。ガキの頃から成田のお不動さんを信心してて、それで、何でも五十両もの大金を寄進したらしいぜ」
歌舞伎の観客にも、成田山信仰者は多かった。
このことがきっかけで、誰もが、海老蔵の芸を成田山に引きつけて評価するようになった。
さらに、市川や成田方面からの客も徐々に増えていくのである。
厠に起きた長一郎は、火鉢の消し炭をひっくり返し、煙管の雁首を持って行って、火を付けた。
何度か、すぱすぱ、とやると、煙が立ち上がる。
ここは、湯島の茶屋。
新しい色は、紀州の武家だった。
眠りが浅い日が続いていた。
色との情事は、ほんの一時のことだが、何もかも忘れさせてくれた。
しかし、それが終わってしまえば、舞台のことがすぐに心を占めてくる。
重圧に押しつぶされそうだった。
この勢いに乗って、自分は本当に名実ともに一流の役者に上り詰めることができるのだろうか、と。
少しずつ評判が上がっていることは肌で感じる。
その御蔭で、良い役も回ってきている。
当然、舞台の数も増えた。
有り難い忙しさだった。
しかし、どうも、長一郎には、しっくりこなかった。
地に足がついていない。
自分じゃない誰かのような心地だった。
長一郎は、溜息と一緒に、煙を吐き出した。
隣室の瀬戸文史朗は、寝息も聞こえないくらい深く寝入っていた。
久しぶりの逢瀬だった。
何度も断った末のことだった。
それほどに忙しかったのだが、瀬戸は、他の色を疑っていた。
知り合って半年余り。
長一郎も、夢中であり、他の色などありえなかった。
やることをやっちまったら、この有様。
心のなかで独り言ちた。
所詮、色は色。
長一郎は、ふと自分の行く末を想った。
不安であった。
重蔵は、長一郎の心の中を見透かしていた。
なりふり構わず、突き進む、そういう勢いが足りない。
生い立ちが邪魔をしているのだろうか。
長一郎は、すっかり重蔵の息子として本当に良くやっている、と重蔵は今では感謝に絶えない。
いや、本当の息子でも、こうは行かない、と。
重蔵は、自らが、こういう境地に至るなどとは初めは思ってもみなかった。
これまでは、人の子など、商品に過ぎないと思っていたからだ。
しかし、長一郎に関しては全く違う。
どうしてだろう。
良くは分からなかったが、結果そうなってしまった。
馬が合う、と言うのは、このことだろうか。
それはいいのだが、だった。
「重蔵さん、どうしました。酒の手が止まってますよ」
塩問屋の、木村屋瀬左衛門が声を掛けたのだ。
問屋の会合の後の宴会だった。
宴が進み、それぞれが別れて、小さい塊になって飲んでいる。
芸者はとっくに帰ってしまった。
近頃、重蔵の頭の中はいつも、商売のことよりも、舞台のことでいっぱいなのだ。
「いやいや、飲み過ぎました。そろそろお開きとしましょうか」
「そうですね。ときに重蔵さんは、芝居は観ますか」
急に瀬左衛門が聞いた。
問屋仲間は、重蔵が海老蔵を抱えていることなど知らない。
詮索もしない。
放蕩息子か、ぐらいに思っている。
「いや、たまに行くぐらいですよ」
「そうですか。いやね、海老蔵という役者が評判らしいですね。さっき、田島屋さんが言ってました」
「ほう、海老蔵ね」
重蔵は、素知らぬふりで、人づてのあやふやなうわさ話に、ひとしきり耳を傾けた。
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