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1 序章・隋帝国の野望
しおりを挟む暗雲が渦を巻いて天を覆い隠し、大地は深き陰の気が澱む不吉な闇の中に浮かび上がっている。
遠き西の地からは血の臭いで生温く湿った風が吹きそよぎ、木々の葉と枝を音もなく揺らしていた。それに誘われたかのように、神が人に凶事を告げるために遣わすと伝えられる黒き鳥たちがいずこかより集まり、口々に悦びの歌を奏で始める。
仁寿四年。西暦に直すと六〇四年の七月凶日。
一条の光が雲間を裂き、大地を貫くがごとく鋭い雷鳴を轟かせた頃。隋国の新都大興(中国の長安、後の西安)西北に位置する離宮、仁寿宮で一人の男の生命が尽きようとしていた。
男の名は楊堅。後漢の崩壊以来三七〇年に亘って分裂が続いていた中華大帝国を再統一した、初代皇帝・文帝である。
楊堅は、自らの腹の奥深くに埋まった短刀の刃を、信じられないと言うような面持ちでしげしげと見つめた。次いでその短刀の柄、それを持つ手、肘、肩、首と順繰りに視線を上げていき、最後に自分の目の前に立っているその人物の顔を睨むように見上げる。
「……楊広。貴様……血迷ったか」
「父上、貴方は実に優れた方だった」
楊広と呼ばれた男はその視線をむしろ愉しげな表情で受けとめ、穏やかささえ感じさせるような口ぶりで言葉を紡ぐ。
「最初貴方は中国南北朝の片割れ北魏の、そのさらに片割れである北周に使える辺境国の公爵に過ぎませんでした。だが娘を北周王である武帝の皇太子宣帝に嫁がせることで、とんとん拍子に出世していった」
「おのれ……おのれぇ~……」
楊堅は刃を掴み、自らの腹から抜こうと力をこめたようだった。だがその身体からは血液だけでなく生命と力も確実に失われつつあり、もはや短刀を抜き取る力など残されていないのは明白である。
いまの楊堅は中国全土を統一して発展させた偉大な皇帝などではなく、実の息子に裏切られて死出の旅に発ちつつある、一人の哀れな老人に過ぎない。
楊広は短刀をさらに身体の奥深くねじこんだ。楊堅はなにか言おうとするかのように口を開きかけたが、そこから吐き出されたのは赤黒い血と苦痛のうめき声だけ。
「その後も貴方は奸計をもって多くの政敵を屠り、ついには宣帝の太子だったわずか九歳の静帝から禅譲という形で帝位を受け継ぐと直ちにこれを弑し奉った。さらに北周王朝の血を引く男子六十余名をことごとく殺害し、自らの地位を盤石のものとする。続いて南朝の陳をも攻め滅ぼし、中華帝国の統一を成し遂げた。実に見事な手腕でしたよ」
「……」
「だが愚かにも貴方は中国統一だけで満足してしまった。我が隋は北に靺鞨(満州)、契丹(モンゴル)、突厥(トルコ系遊民族)。西に吐谷渾(チベット系遊民族)、南には林邑(南ベトナム)、流求(台湾)、東に朝鮮三国、倭(日本)と四方を敵に囲まれているというのに。放っておけばいずれ、これらの国のどれかが隋に攻めてくるでしょう。そうなる前に私たちはこれら全ての国を滅ぼし、支配下におかなければならないのです」
「……東アジア、全ての国を支配下に……だと? そんな……が、出来る……思……」
「その後東アジア一帯に隋を中心とした巨大統一帝国を建設する。ええ、私になら出来ますとも。父上は本当に運がいいですよ。貴方は志半ばにして生命を落としますが息子たる私がその遺志を継ぎ、貴方の築いた隋をさらに大きくするのですから」
息子の言葉に、楊堅はなにか言い返そうとしたかのようだったが。しかし結局彼はそれ以上言葉を発することはなく、ただ血飛沫を屏風に撒き散らしながら床へ崩れ落ち。そのまま二度と起き上がることはなかった。
「……誰か、誰かおらぬかっ!!」
父帝の死を確認すると、楊広は部屋の外に向け声をあげた。すると宿衛(宮殿に宿直し皇帝を護衛する者)たちが数人、畏まるように部屋の扉を開けて中に入ってくる。
「お呼びでしょうか、殿下……」
だが彼らは部屋に足を踏み入れた瞬間、腹に短刀を突き刺されて白目を剥きながら苦悶の表情を浮かべ息絶えている楊堅と、両手を鮮血で真っ赤に濡らしながら平然とその場に立っている楊広の姿を目の当りにすることとなり、言葉を失った。
「見ての通り。父皇帝はたったいま、病のために薨去なされた」
茫然としている宿衛たちの心の隙を突くがごとく、楊広は彼らの顔を一人ずつ睨むように見回し、一語一語ゆっくり区切って言葉を発する。
「亡くなる直前、陛下は二つの詔勅を遺された。一つは度重なる訓告にも関わらず、奢侈に走り女色に耽溺して職務を怠り無数の不行状を重ね続けた、前太子であり私の兄でもある房陵王楊勇に死を賜ると。もう一つは、現皇太子である私こと晋王楊広に皇帝位を譲るとのことである」
「こ、皇帝位を……?」
「急ぎそのように手配し、即位の準備を進めよ」
「は……はあ。し、しかし……」
「……なにをぼんやりしている?」
動揺し、うろたえる宿衛たちに向け、彼らの後から部屋に入ってきた人物が、底冷えがするほど冷たい目つきと鋭い口ぶりでそう言い放った。彼の名は宇文述。宿衛たちの隊長であり、楊広のむかしからの腹心でもある男だ。
「た……隊長。あの、これは……」
「私は、なにをぼんやりしているのかと訊いておる」
部下たちを一瞥し、宇文述は意味ありげな声を出す。
「前皇帝陛下が病によって亡くなられた以上、次の皇帝位には太子であらせられる晋王殿下がお即きになるのは当然のこと。にも関わらず殿下の……いや、皇帝陛下のご命令に従おうともせずにいるということは隋に対して叛意あると見なさざるを得んが、よいか!?」
宇文述のその言葉に、部下たちは自分らが一つの選択を迫られていることに気がつかざるを得なかった。
自分たちの目の前に立っているこの男を、皇帝を殺害した大逆犯として捕えるか。それとも自分たちの最高位に立つ新皇帝として忠誠を誓うか……。
楊広と宇文述が共謀して皇帝を弑したということは疑う余地もない。とは言え文帝亡きいま、隋で最も大きな権力を有しているのもこの二人だ。そんな彼らを告発などしようものなら、逆に宿衛たちのほうが捕らえられ、処刑されてしまうのは明らかである。
「……はっ! 仰せのままに。皇帝陛下」
結局のところ選択の余地などなきに等しいのだ。宿衛たちは楊広の前にひざまずき叩頭すると、文帝の死と新皇帝の即位を伝えるため、まろぶように駆け出て行った。
それを確認すると楊広は宇文述と顔を見合わせてニヤリと嗤い、悠然と寝間を立ち去っていく。
これが隋の二代皇帝楊広……後に煬帝と諡号されることとなる、中国史上最凶最悪の暴君と悪名高い男が歴史の表舞台に立った瞬間である。
同時に、隋とそれを取り巻く周辺諸国の民たちにとっては長きに亘る苦難と戦乱の時代の始まりでもあった。
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