2 / 97
2 英雄(?)、故郷に帰る
しおりを挟むこの日。空は涼やかと呼ぶには少し冷たすぎる色をしていた。
真夏には無数の草花が萌え広がり、目に眩しいほどの緑が視界を覆い尽くさんばかりに広がる丘陵地帯も、年が改まったばかりのこの時期にはまだ茶色い枯れ草と冷たく乾いた黒土が空しく風に吹かれるのみという寒々しい光景ばかりが目についている。
そんなどこかもの悲しい景色の中。丘の間を縫うようにして作られた蛇のごとく曲がりくねっている一筋の道を、一人の男がへこへこした足取りでゆっくり歩いていた。
男は、その名を乙支文徳という。身長一七〇センチと少し。一見痩せ型だが、よく見れば最低限の筋肉はつくべきところにしっかりついた、程よく引き締まった体型の持ち主であり、顔立ちもそれなりに精悍で整っている。
もっともいまの姿……旅着である皮服とズボンはいいとして、その上から綿のたっぷり詰まった外套を何枚も重ね着し、防寒用のマントや毛糸の帽子までかぶっている姿を見て精悍だと思う人はあまりいないだろう。だが現在この道を歩いているのは乙支文徳一人だけ。そのため彼は他人の目を気にすることもなく、南へと続く道を歩き続けていた。
「……高句麗か。なにもかも懐かしい」
ふと足を止め周囲の景色を改めて見やってから、乙支文徳は軽く目を細め、小さく吐息をこぼしつつ感慨深げに呟いた。
自分では、かなり格好良く決めたつもりだったのだが。このような着膨れダルマ姿の上、そのセリフのすぐ後で『へっくちん!』と情けないくしゃみをした挙げ句に鼻水をツララのように垂らしてしまったため、色々と台無しになってしまった感が否めないこと甚だしい。
まあ、それはともかく。
乙支文徳は洟を大きくすすりあげて鼻水を元の場所に収納してから、地平線の果てまで続くかと思うほど長く伸びた道の先にと改めて視線を向けてみた。この道の向こうには、三年ぶりに訪れる故郷の街と城が、彼の帰りをいまや遅しと待ち続けてくれているはずなのである。
しかしその道の前のほうから馬の蹄が大地を蹴るような音が聞こえてきたので、乙支文徳は顔面を真っ青にする羽目となった。
なんだろう。野盗だろうか?
もしそうなら早いところ逃げるなり身を隠す場所を探すなりしなければならないと、乙支文徳は焦った。
こう見えても乙支文徳は実は軍人なのだが、情けないことに武道や剣の扱いに関しては素人以下の実力しかない。だから野盗なんぞと戦っても絶対に勝てないという自信があったためである。
だが近づいてきているのがたった一騎で、しかもその背中に乗っているのが自分のよく知っている人物だということに気がつくと、乙支文徳はほっと安堵の息をついた。
「お? なんだ。あれは高建武じゃないか。もしかして迎えに来てくれたのかな。おーい、おーい!」
乙支文徳は大きく手を振ってそう声をかけた。その声が聞こえたのか、馬の背に乗っていた人物は馬を方向転換させると、そのまま乙支文徳のいる場所へ向かってくる。
やって来たのは一見するとまだ幼い少女のようだった。年齢はどう高く見積もっても十五歳以上には見えない。身長も一四五センチあるかないかという小柄な体格で、ふわふわと柔らかそうな栗毛の髪と色白の肌、ぱっちりとした大きな瞳の持ち主である。
それだけを見ればどこかの貴族の令嬢か、あるいは裕福な商家のお嬢さまのように思えるかもしれない。
だが彼女が身にまとっている青銅製の無骨な鎧や兜、それに腰から無造作に下げているが手入れのよく行き届いた鋼鉄製のバスタード・ソードを見れば、それが間違いであることにすぐ気がつくだろう。
乙支文徳とは別の意味でそうは見えないかもしれないのだが、彼女はここ高句麗国において数多くの武勲を立てたれっきとした軍人なのである。
少女……高建武は乙支文徳の目の前までたどり着くと軽く手綱を引き、馬を立ち止まらせた。彼女の一〇倍くらいの体重がある、燃えるような長い鬣が特徴の気が強そうな青毛の軍馬だ。そんな馬の首筋を優しく撫で、彼女は花が咲いたような笑みを向けてくる。
「あの、そちらのちょっとメタボリックなかた。お尋ねしたいことがあるんですけど」
声をかけてきた高建武のその言葉に乙支文徳は首をかしげたが、彼女は構わず言葉を続ける。
「この辺りで、乙支文徳閣下の姿をお見かけしませんでしたでしょうか?」
「……はぁ?」
「あ、名前を言っても分かりませんか。身長は貴方と同じくらいで貴方よりはちょっとスマートな男の人です。結構いい年のくせに童顔で、呑気そうでなにも考えていないような顔をしているんですが」
「お前……気づいてなかったのかよ」
は? なにがですか、と言わんばかりに無邪気な微笑みを浮かべ続けている少女の顔を半眼になって睨みつけながら、乙支文徳は苦々しい息を吐きつつ言葉を続ける。
「しかしそれにしてもだ。この世界で、お前にだけは童顔とか呑気そうな顔だなんて言われたくないぞ。高建武」
乙支文徳のその言葉に少女は手を口元に当てて、驚愕したような声をあげた。
「なななななな、なんで貴方、あたしの名前をご存じなんですか? 初対面ですし、名乗った覚えなんかないのに。はっ! もしかして貴方は人の心を読み取るバケモノ!? そんな。この辺りにはケモノはいてもバケモノはいないはずなのに! いやだー! 食べないでくださーい‼」
「食べないよー……じゃなくて、そんなわけないだろ! 相変わらずボケボケな奴だな。ほら、よく見ろ。おれだよ、おれおれ」
「いえ。そんなサッカーの応援、もしくはオレオレ詐欺みたいなことを言われても……あたしには貴方のようにぶくぶく肥えた知り合いは存在しませんし。人違いでは?」
「人違いなら、おれがお前の名前を知っている理由の説明にならないだろうが。いい加減に気づけ。おれが乙支文徳なの!!」
「へっ? ……って、ああっ!? 言われてみれば、確かに貴方は乙支文徳閣下。ちょっと見ない間に、ずいぶんとお太りになられましたね。過食症ですか?」
「三年ぶりに再会したら全然気づいてもらえなかった上にバケモノ呼ばわりされて。やっと分かってくれたと思ったら、最初の挨拶がそれかよ」
げんなりと息を吐き、乙支文徳はやれやれと呟いた。
「別に太ったわけじゃあない。寒いからちょっと服を多めに着こんでいるだけだ。それくらい見て分かれ」
「……ああ、確かにその通りのようですね。これはあたしがうっかりさんでした。高建武一生の不覚です」
言って高建武はてへっ、と照れ笑いするようにぺろりと一つ(一つしかないが)舌を出して見せたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる