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37. ふいのときめき
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そして訪れた、約束のその日。
遠乗りというほど本格的に馬に乗って移動することはせず、私たちは馬車で移動してここまでやって来ると、到着した湖の周りで、ほんの少しだけ乗馬を楽しんだ。それから三人でお喋りをしながら、辺りを散策する。王家の所有地であるこの辺りは都会から離れておりとても静かで、気持ちの良い風がふわりと吹くたびに深いグリーンの木々が優しくさざめき、小鳥たちが可愛らしい声で歌う。湖の碧い水面がキラキラと揺れて輝いた。
「……なんて素敵なところかしら……。ずっとここにいたくなります」
私が思わずそう呟くと、アルバート様がクスリと笑った。
「気に入ってくれてよかった。たしかに、ここでこうして君たちとのんびり過ごしていると、もう王宮に戻りたくなくなるよ」
「そうでしょうね。アルバート王弟殿下、毎日本当にお疲れ様です。大変でしょう? あの方の教育や指導は」
冗談めいた口調で言ったアルバート様のその言葉に、カトリーナが反応する。
「まぁね。相変わらずだなダミアンは。何かと理由をつけては部屋から抜け出し逃げようとする。今日だって俺が不在の間昨日までに学んだことを復習しておくよう言ってきたけれど、おそらくしてないだろうしな。君もいつも大変だろう?」
「ええ。普段は決して口にはできませんが、正直……、あのお方にはもうとうに愛想が尽きております。自身の義務だと思って諦めてはおりますが、もっと真っ当な方であってほしかったわ……」
他人の目がないこの場所で、アルバート様もカトリーナも本音を吐露しあいながら苦笑している。本当は笑っていられる状況でもないのだけれど。
ダミアン王太子殿下は現国王陛下と王妃陛下の間に生まれた唯一の男児ではあるけれど、その素行は決して王族として素晴らしいものではなく、昔から周囲の人々は皆手を焼いていた。勉強嫌いで、政治にさえ興味なし、その上女癖は最悪。カトリーナのようなしっかりした優秀な人が妃でなければ務まらないだろう。私も彼の婚約者の座を目指していたとはいえ、あの方に会って会話を交わすたびに内心は鬱々としたものだ。頑張って王家に嫁ぐ立場を得たところで、夫となるのはこんな人なのかと。
「あら、お昼の準備をしてくれているわね。……まぁ、何かしらあれ。食後のデザートかしら」
「ああ。甘いものが好きな君たちのためにいろいろと準備してきているよ。せっかくだからお腹いっぱい食べて帰ったらいいさ」
「ま、殿下ったら。私たちを太らせようとしてますの? ……ふふ、でも嬉しいですわ。ありがとうございます。ちょっと見てくるわね、私」
向こうの方で大きなシートが広げられ昼食の準備が始まったのを見て、珍しくはしゃいでいるカトリーナは吸い込まれるようにそちらに行ってしまった。侍女たちに何やら話しかけ、楽しそうに笑っている。
アルバート様と二人きりになった途端、急に辺りが静かになった気がした。
するとアルバート様が私の方に向き直り、いつもの優しい微笑みをくれる。
「楽しい? ティファナ」
「ええ、とても。こんなにのんびりした気持ちになったのは久しぶりです。本当に、ありがとうございますアルバート様。毎日お忙しいはずなのに、私のためにこんな時間を作ってくださって」
「……当然だよ。君のためならこれくらいのことはいつでもするさ。俺がどれだけ君を大事に思ってるか、分かってる?」
「……っ、」
私の瞳を覗き込むようにして微笑みながらそう言ってくださるアルバート様の言葉に、心臓がトクンと跳ねる。そこに深い意味なんてないはずなのに、なぜだか私の頬は熱を帯びた。……やだ。恥ずかしい。
赤面してしまったのを誤魔化すために、私はふいっと顔を逸らした。
「お、お兄様ったら。なんだかそのお言葉は、よくありませんわ。そういうことを仰ると、深読みされてしまいますわよ、ご令嬢方に」
「……ご令嬢方? どこの?」
「わ、私以外の皆さんですわ。もうお兄様は大人なのですから、そんなお優しいことばかり言っていると、別の意味にとられてしまいますわよ。ただでさえ、お兄様は見目麗しくて素敵な方なのに……」
な、何を言っているのかしら、私は……。
こんなことを言ったら、むしろ私が深読みして狼狽えているのがバレちゃうじゃないの……っ。
アルバート様は顔を背けた私の後ろでクスクスと楽しそうに笑っている。
「ティファナ以外の誰にこんなことを言うって言うんだ。俺が誰よりも大事に思っているのは君なんだよ、ティファナ。他のご令嬢方にこんなこと、言うはずがないだろう?」
「……っ! な……、」
アルバート様の優しい声が、私の耳に甘く響く。鼓動がますます激しくなり、頬がどんどん火照ってくる。
(何なのよ私も、もう……っ)
恥ずかしくてどんな顔をしていいやら分からず顔を背けたままでいると、アルバート様が身を屈め、私の耳元に囁いた。
「……ね、気付いてる? ティファナ。さっきから君は俺のことを、“お兄様”って呼んでいるよ」
「えっ!? ……あ……っ、」
そう言われて、やっと気付く。本当だ。完全に無意識でそう呼んでいた。
慌てて振り返ってしまい、間近でアルバート様にこの火照った顔を見られてしまう。けれど、目の前にある青く澄んだ瞳の美しさにハッとして、そのまま身動きができなくなった。
アルバート様もまた、私から視線を外さない。柔らかな表情の奥には、見たことのない色気が漂っているような気がした。
「……光栄だな。そんなに動揺してくれるなんて。少しは俺のことを一人の男として意識しはじめてくれてるのかな」
(……え……っ?)
「君のそんな表情が見られるなんて。……本当に可愛い」
そう言うとアルバート様は、ほんの一瞬、その指先で私の頬を掠めるようにそっと撫でた。
その瞬間、またふわりと暖かい風が吹き、アルバート様のムスクのような香水の香りがほのかに私の鼻腔をくすぐった。
(~~~~~~っ!?)
アルバート様の言葉や仕草、その蠱惑的な香りに激しく混乱した私は、慌てて彼から距離を取ろうとした。
けれど。
「……痛……っ、」
「……ティファナ?」
離れようと後ずさった私は、髪を引っ張られる痛みに動きを止めた。
よく見ると、私の横髪がアルバート様の胸元のボタンに引っかかってしまっていた。
「……ああ、今の風のせいかな。ちょっと待っててごらん」
「ご、ごめんなさいお兄……、ア、アルバート様」
「君が謝ることじゃないよ。風の悪戯だ」
私の耳元で優しくそう言いながら、アルバート様が長い指先を器用に動かしながら私の髪をボタンからゆっくりと外していく。……一度変に意識してしまうと、もうその指先さえもが色っぽく見えてしまって、いたたまれない。互いの吐息さえも感じられそうな距離に動揺して、心臓が破裂するほど大きく脈打っている。どうすればいいか分からず、私は必死で視線を泳がせながらアルバート様から目を逸らし続けた。
「……可愛い。君は本当に可愛いよ、ティファナ」
……どうして今、こんなに近くで、そんなことを言うんですか、アルバート様……っ!
たまらなく気恥ずかしくて、激しく動揺してしまって。
私の指先も唇も、小刻みに震えていた。
「……はい。取れたよ。綺麗な髪が切れてしまわなくてよかった」
そう言ってアルバート様が少し離れた瞬間、私はほうっと息をついた。その時初めて、自分が息を止めていたことに気付いた。
「……ありがとう、ございます……」
「うん」
真っ赤な顔で俯いたままそう言うと、アルバート様は小さくクスリと笑ってそう返事をした。
慈しむように私を見つめるその視線を感じながらも、私は彼から目を逸らし続けていた。
遠乗りというほど本格的に馬に乗って移動することはせず、私たちは馬車で移動してここまでやって来ると、到着した湖の周りで、ほんの少しだけ乗馬を楽しんだ。それから三人でお喋りをしながら、辺りを散策する。王家の所有地であるこの辺りは都会から離れておりとても静かで、気持ちの良い風がふわりと吹くたびに深いグリーンの木々が優しくさざめき、小鳥たちが可愛らしい声で歌う。湖の碧い水面がキラキラと揺れて輝いた。
「……なんて素敵なところかしら……。ずっとここにいたくなります」
私が思わずそう呟くと、アルバート様がクスリと笑った。
「気に入ってくれてよかった。たしかに、ここでこうして君たちとのんびり過ごしていると、もう王宮に戻りたくなくなるよ」
「そうでしょうね。アルバート王弟殿下、毎日本当にお疲れ様です。大変でしょう? あの方の教育や指導は」
冗談めいた口調で言ったアルバート様のその言葉に、カトリーナが反応する。
「まぁね。相変わらずだなダミアンは。何かと理由をつけては部屋から抜け出し逃げようとする。今日だって俺が不在の間昨日までに学んだことを復習しておくよう言ってきたけれど、おそらくしてないだろうしな。君もいつも大変だろう?」
「ええ。普段は決して口にはできませんが、正直……、あのお方にはもうとうに愛想が尽きております。自身の義務だと思って諦めてはおりますが、もっと真っ当な方であってほしかったわ……」
他人の目がないこの場所で、アルバート様もカトリーナも本音を吐露しあいながら苦笑している。本当は笑っていられる状況でもないのだけれど。
ダミアン王太子殿下は現国王陛下と王妃陛下の間に生まれた唯一の男児ではあるけれど、その素行は決して王族として素晴らしいものではなく、昔から周囲の人々は皆手を焼いていた。勉強嫌いで、政治にさえ興味なし、その上女癖は最悪。カトリーナのようなしっかりした優秀な人が妃でなければ務まらないだろう。私も彼の婚約者の座を目指していたとはいえ、あの方に会って会話を交わすたびに内心は鬱々としたものだ。頑張って王家に嫁ぐ立場を得たところで、夫となるのはこんな人なのかと。
「あら、お昼の準備をしてくれているわね。……まぁ、何かしらあれ。食後のデザートかしら」
「ああ。甘いものが好きな君たちのためにいろいろと準備してきているよ。せっかくだからお腹いっぱい食べて帰ったらいいさ」
「ま、殿下ったら。私たちを太らせようとしてますの? ……ふふ、でも嬉しいですわ。ありがとうございます。ちょっと見てくるわね、私」
向こうの方で大きなシートが広げられ昼食の準備が始まったのを見て、珍しくはしゃいでいるカトリーナは吸い込まれるようにそちらに行ってしまった。侍女たちに何やら話しかけ、楽しそうに笑っている。
アルバート様と二人きりになった途端、急に辺りが静かになった気がした。
するとアルバート様が私の方に向き直り、いつもの優しい微笑みをくれる。
「楽しい? ティファナ」
「ええ、とても。こんなにのんびりした気持ちになったのは久しぶりです。本当に、ありがとうございますアルバート様。毎日お忙しいはずなのに、私のためにこんな時間を作ってくださって」
「……当然だよ。君のためならこれくらいのことはいつでもするさ。俺がどれだけ君を大事に思ってるか、分かってる?」
「……っ、」
私の瞳を覗き込むようにして微笑みながらそう言ってくださるアルバート様の言葉に、心臓がトクンと跳ねる。そこに深い意味なんてないはずなのに、なぜだか私の頬は熱を帯びた。……やだ。恥ずかしい。
赤面してしまったのを誤魔化すために、私はふいっと顔を逸らした。
「お、お兄様ったら。なんだかそのお言葉は、よくありませんわ。そういうことを仰ると、深読みされてしまいますわよ、ご令嬢方に」
「……ご令嬢方? どこの?」
「わ、私以外の皆さんですわ。もうお兄様は大人なのですから、そんなお優しいことばかり言っていると、別の意味にとられてしまいますわよ。ただでさえ、お兄様は見目麗しくて素敵な方なのに……」
な、何を言っているのかしら、私は……。
こんなことを言ったら、むしろ私が深読みして狼狽えているのがバレちゃうじゃないの……っ。
アルバート様は顔を背けた私の後ろでクスクスと楽しそうに笑っている。
「ティファナ以外の誰にこんなことを言うって言うんだ。俺が誰よりも大事に思っているのは君なんだよ、ティファナ。他のご令嬢方にこんなこと、言うはずがないだろう?」
「……っ! な……、」
アルバート様の優しい声が、私の耳に甘く響く。鼓動がますます激しくなり、頬がどんどん火照ってくる。
(何なのよ私も、もう……っ)
恥ずかしくてどんな顔をしていいやら分からず顔を背けたままでいると、アルバート様が身を屈め、私の耳元に囁いた。
「……ね、気付いてる? ティファナ。さっきから君は俺のことを、“お兄様”って呼んでいるよ」
「えっ!? ……あ……っ、」
そう言われて、やっと気付く。本当だ。完全に無意識でそう呼んでいた。
慌てて振り返ってしまい、間近でアルバート様にこの火照った顔を見られてしまう。けれど、目の前にある青く澄んだ瞳の美しさにハッとして、そのまま身動きができなくなった。
アルバート様もまた、私から視線を外さない。柔らかな表情の奥には、見たことのない色気が漂っているような気がした。
「……光栄だな。そんなに動揺してくれるなんて。少しは俺のことを一人の男として意識しはじめてくれてるのかな」
(……え……っ?)
「君のそんな表情が見られるなんて。……本当に可愛い」
そう言うとアルバート様は、ほんの一瞬、その指先で私の頬を掠めるようにそっと撫でた。
その瞬間、またふわりと暖かい風が吹き、アルバート様のムスクのような香水の香りがほのかに私の鼻腔をくすぐった。
(~~~~~~っ!?)
アルバート様の言葉や仕草、その蠱惑的な香りに激しく混乱した私は、慌てて彼から距離を取ろうとした。
けれど。
「……痛……っ、」
「……ティファナ?」
離れようと後ずさった私は、髪を引っ張られる痛みに動きを止めた。
よく見ると、私の横髪がアルバート様の胸元のボタンに引っかかってしまっていた。
「……ああ、今の風のせいかな。ちょっと待っててごらん」
「ご、ごめんなさいお兄……、ア、アルバート様」
「君が謝ることじゃないよ。風の悪戯だ」
私の耳元で優しくそう言いながら、アルバート様が長い指先を器用に動かしながら私の髪をボタンからゆっくりと外していく。……一度変に意識してしまうと、もうその指先さえもが色っぽく見えてしまって、いたたまれない。互いの吐息さえも感じられそうな距離に動揺して、心臓が破裂するほど大きく脈打っている。どうすればいいか分からず、私は必死で視線を泳がせながらアルバート様から目を逸らし続けた。
「……可愛い。君は本当に可愛いよ、ティファナ」
……どうして今、こんなに近くで、そんなことを言うんですか、アルバート様……っ!
たまらなく気恥ずかしくて、激しく動揺してしまって。
私の指先も唇も、小刻みに震えていた。
「……はい。取れたよ。綺麗な髪が切れてしまわなくてよかった」
そう言ってアルバート様が少し離れた瞬間、私はほうっと息をついた。その時初めて、自分が息を止めていたことに気付いた。
「……ありがとう、ございます……」
「うん」
真っ赤な顔で俯いたままそう言うと、アルバート様は小さくクスリと笑ってそう返事をした。
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