55 / 74
54. 焦る夫の失態
しおりを挟む
私はあくまで淡々とした態度で彼の執務室へと入る。
「お呼びと伺いましたが。いかがなさいましたか?」
「……これだ」
私の姿を認めた彼は、机の前から書類の束をかざす。取りに来いと言っているのだろうか。私は渋々彼のそばまで歩み出る。
私が近付くと、彼は手にしていた書類を音を立てて机の上に放り出した。ぞんざいな態度にカチンとくる。
けれど私は黙ってその書類を取り上げた。それを確認し、一瞬固まってしまう。
「……これは」
「異論を受け付けるつもりは毛頭ない。黙ってサインを」
何を勘違いしたのか、ラウル様は強張った口調でそんなことを言いながら私から目を逸らした。その表情も、普段より随分余裕がないように見える。
(異論など、もちろんございませんが)
手元の書類に改めて視線を落とす。
それは離縁の手続きに関する正式な書類だった。ラウル様のサインだけが、すでに済ませてある。
「……よろしいのですか。こんなところまで進めてしまって。ヘイワード公爵の帰国をお待ちになった方がいいと思いますが。いくら何でも、お義父様が不在の間に離縁の手続きまでしてしまうとなると……」
あくまでも彼のためだった。私にとってこの書類は大変都合がいいのだから。けれど、ヘイワード公爵に何の許可もとらず勝手にオールディス侯爵家の娘と離縁してしまえば、さすがにラウル様も無事では済まないと思ったから。情けをかける必要などないのだけれど、私は思わず目の前の男を庇うようなことを言っていた。
だけど、そんな優しさは完全に無駄だったとすぐに知る。
ラウル様は苛立ちを露わにし、私を睨みつけながら言い放った。
「くどいな君は! 父が不在の今だからこそ手続きを済ませておきたいんじゃないか。父を通せば話が長くなってしまう……。君は私の本心を知ったはずだ。私はロージエを愛している。それなのに、愛の欠片もない結婚生活にそんなにも縋り付きたいのか。プライドはないのか、プライドは。曲がりなりにも侯爵家の令嬢なのだから、気高き誇りを持つべきじゃないのか」
……一体何をこんなに焦っているのだろう。
私はまじまじとラウル様の顔を見つめた。目の前の彼は、どう見ても冷静ではない。まるで追い詰められた小動物のように激しく動揺し、とにかく一刻も早く離縁の手続きを済ませてしまいたいと狼狽えている。そう感じた。
(もしかして……ロージエさんが妊娠しているから? それが真実だから世間体を気にして、彼女のお腹の小さいうちに妻に迎えようとでも考えている……?)
問い詰めてみたいけれど、私がそのことを知っていることをラウル様は知らない。はず。ブライト男爵か、彼女自身がラウル様に伝えていないのならば。
ラウル様から「聞いたのだろう」と言ってこないということは、まだ知らない可能性が……。
私が黙ったまま思考を巡らせていると、彼はついに舌打ちし、机の上に拳を打ちつけた。ドン、という乱暴な音に驚く。ラウル様の目は血走っていた。
「何か言ったらどうなんだ! 私と君との間に愛はない。私は君のような女性を愛することはないと結婚当初から言っている。ヘイワード公爵家の財産で優雅な暮らしを送る未来なら、さっさと諦めてくれ。私は真実の愛で結ばれたロージエを妻にするんだ!」
もはや狂気じみたラウル様の様子に、徐々に恐怖心が湧き上がる。これ以上刺激しない方がいいかもしれない。頭ではそう分かっていながらも、私は聞かずにはいられなかった。
「……ロージエさんは男爵家のお嬢さんですわよね? 公爵の許可なく私と正式に離縁してしまって、その後はどうなさるおつもりなのですか? ヘイワード公爵家に、特別裕福でも歴史ある名家でもない、社交界の末端に位置する男爵家のお嬢さんを妻に迎えたいと、跡継ぎを生ませたいと、そう仰るおつもりですか? それを公爵がお認めになると……?」
「うるさい! 黙れ、ティファナ・オールディス!」
痛いところを突かれたからか、ラウル様はついに大声を上げ、私の目の前まで歩み寄ってきた。そして至近距離から私の顔を指さして血走った目で怒鳴りつける。
「そんなことはお前の知ったことじゃない! 俺とロージエが二人で乗り越える問題だ。いや、問題でさえない。父に真実の愛を認めてもらえばいいだけなのだから。たしかに普通に考えれば、俺たちは身分違いの、決して結ばれることのない恋人同士だ。だが! 過去に例外が全くないわけじゃない! 俺たちだって乗り越えられる! そのためにはお前の存在が邪魔なんだよ! つべこべ言わずに早くサインをしろ!!」
……どう見ても普通じゃない。何かがあったんだ。ロージエさんの妊娠かもしれないし、他の理由があるのかも。
(本当に盲目なのね……)
恋は恐ろしい。冷静沈着で優秀なはずの男を愚か者にも変えてしまうし、その人生全てを狂わせてしまうこともある。
かつて見たことがないほど取り乱したラウル様は別人のようで、その姿を見ながら私は考えた。とにかくもう、この部屋から出よう。このままここにいたら何をされるか分かったものじゃない。
「……分かりました。この書類は部屋に持ち帰り、熟考させていただきますわ。このように怒鳴りつけられながら半ば脅されるかたちで重要な書類にサインなど、したくありませんので」
そう言って私が部屋を出ようと、彼から顔を背けたその時だった。
「……お前という女は……! いつまでごねるつもりだ! 俺とロージエの邪魔をするな!!」
そう叫ぶとラウル様は私の肩を乱暴に掴み、強引に自分の方に向き直らせる。そして狂ったように腕を振り上げ、私の左頬をしたたかに引っ叩いたのだった。
「お呼びと伺いましたが。いかがなさいましたか?」
「……これだ」
私の姿を認めた彼は、机の前から書類の束をかざす。取りに来いと言っているのだろうか。私は渋々彼のそばまで歩み出る。
私が近付くと、彼は手にしていた書類を音を立てて机の上に放り出した。ぞんざいな態度にカチンとくる。
けれど私は黙ってその書類を取り上げた。それを確認し、一瞬固まってしまう。
「……これは」
「異論を受け付けるつもりは毛頭ない。黙ってサインを」
何を勘違いしたのか、ラウル様は強張った口調でそんなことを言いながら私から目を逸らした。その表情も、普段より随分余裕がないように見える。
(異論など、もちろんございませんが)
手元の書類に改めて視線を落とす。
それは離縁の手続きに関する正式な書類だった。ラウル様のサインだけが、すでに済ませてある。
「……よろしいのですか。こんなところまで進めてしまって。ヘイワード公爵の帰国をお待ちになった方がいいと思いますが。いくら何でも、お義父様が不在の間に離縁の手続きまでしてしまうとなると……」
あくまでも彼のためだった。私にとってこの書類は大変都合がいいのだから。けれど、ヘイワード公爵に何の許可もとらず勝手にオールディス侯爵家の娘と離縁してしまえば、さすがにラウル様も無事では済まないと思ったから。情けをかける必要などないのだけれど、私は思わず目の前の男を庇うようなことを言っていた。
だけど、そんな優しさは完全に無駄だったとすぐに知る。
ラウル様は苛立ちを露わにし、私を睨みつけながら言い放った。
「くどいな君は! 父が不在の今だからこそ手続きを済ませておきたいんじゃないか。父を通せば話が長くなってしまう……。君は私の本心を知ったはずだ。私はロージエを愛している。それなのに、愛の欠片もない結婚生活にそんなにも縋り付きたいのか。プライドはないのか、プライドは。曲がりなりにも侯爵家の令嬢なのだから、気高き誇りを持つべきじゃないのか」
……一体何をこんなに焦っているのだろう。
私はまじまじとラウル様の顔を見つめた。目の前の彼は、どう見ても冷静ではない。まるで追い詰められた小動物のように激しく動揺し、とにかく一刻も早く離縁の手続きを済ませてしまいたいと狼狽えている。そう感じた。
(もしかして……ロージエさんが妊娠しているから? それが真実だから世間体を気にして、彼女のお腹の小さいうちに妻に迎えようとでも考えている……?)
問い詰めてみたいけれど、私がそのことを知っていることをラウル様は知らない。はず。ブライト男爵か、彼女自身がラウル様に伝えていないのならば。
ラウル様から「聞いたのだろう」と言ってこないということは、まだ知らない可能性が……。
私が黙ったまま思考を巡らせていると、彼はついに舌打ちし、机の上に拳を打ちつけた。ドン、という乱暴な音に驚く。ラウル様の目は血走っていた。
「何か言ったらどうなんだ! 私と君との間に愛はない。私は君のような女性を愛することはないと結婚当初から言っている。ヘイワード公爵家の財産で優雅な暮らしを送る未来なら、さっさと諦めてくれ。私は真実の愛で結ばれたロージエを妻にするんだ!」
もはや狂気じみたラウル様の様子に、徐々に恐怖心が湧き上がる。これ以上刺激しない方がいいかもしれない。頭ではそう分かっていながらも、私は聞かずにはいられなかった。
「……ロージエさんは男爵家のお嬢さんですわよね? 公爵の許可なく私と正式に離縁してしまって、その後はどうなさるおつもりなのですか? ヘイワード公爵家に、特別裕福でも歴史ある名家でもない、社交界の末端に位置する男爵家のお嬢さんを妻に迎えたいと、跡継ぎを生ませたいと、そう仰るおつもりですか? それを公爵がお認めになると……?」
「うるさい! 黙れ、ティファナ・オールディス!」
痛いところを突かれたからか、ラウル様はついに大声を上げ、私の目の前まで歩み寄ってきた。そして至近距離から私の顔を指さして血走った目で怒鳴りつける。
「そんなことはお前の知ったことじゃない! 俺とロージエが二人で乗り越える問題だ。いや、問題でさえない。父に真実の愛を認めてもらえばいいだけなのだから。たしかに普通に考えれば、俺たちは身分違いの、決して結ばれることのない恋人同士だ。だが! 過去に例外が全くないわけじゃない! 俺たちだって乗り越えられる! そのためにはお前の存在が邪魔なんだよ! つべこべ言わずに早くサインをしろ!!」
……どう見ても普通じゃない。何かがあったんだ。ロージエさんの妊娠かもしれないし、他の理由があるのかも。
(本当に盲目なのね……)
恋は恐ろしい。冷静沈着で優秀なはずの男を愚か者にも変えてしまうし、その人生全てを狂わせてしまうこともある。
かつて見たことがないほど取り乱したラウル様は別人のようで、その姿を見ながら私は考えた。とにかくもう、この部屋から出よう。このままここにいたら何をされるか分かったものじゃない。
「……分かりました。この書類は部屋に持ち帰り、熟考させていただきますわ。このように怒鳴りつけられながら半ば脅されるかたちで重要な書類にサインなど、したくありませんので」
そう言って私が部屋を出ようと、彼から顔を背けたその時だった。
「……お前という女は……! いつまでごねるつもりだ! 俺とロージエの邪魔をするな!!」
そう叫ぶとラウル様は私の肩を乱暴に掴み、強引に自分の方に向き直らせる。そして狂ったように腕を振り上げ、私の左頬をしたたかに引っ叩いたのだった。
1,261
あなたにおすすめの小説
愛してしまって、ごめんなさい
oro
恋愛
「貴様とは白い結婚を貫く。必要が無い限り、私の前に姿を現すな。」
初夜に言われたその言葉を、私は忠実に守っていました。
けれど私は赦されない人間です。
最期に貴方の視界に写ってしまうなんて。
※全9話。
毎朝7時に更新致します。
私のことは愛さなくても結構です
ありがとうございました。さようなら
恋愛
サブリナは、聖騎士ジークムントからの婚約の打診の手紙をもらって有頂天になった。
一緒になって喜ぶ父親の姿を見た瞬間に前世の記憶が蘇った。
彼女は、自分が本の世界の中に生まれ変わったことに気がついた。
サブリナは、ジークムントと愛のない結婚をした後に、彼の愛する聖女アルネを嫉妬心の末に殺害しようとする。
いわゆる悪女だった。
サブリナは、ジークムントに首を切り落とされて、彼女の家族は全員死刑となった。
全ての記憶を思い出した後、サブリナは熱を出して寝込んでしまった。
そして、サブリナの妹クラリスが代打としてジークムントの婚約者になってしまう。
主役は、いわゆる悪役の妹です
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
うまくいかない婚約
ありがとうございました。さようなら
恋愛
エーデルワイスは、長年いがみ合っていた家門のと結婚が王命として決まっていた。
そのため、愛情をかけるだけ無駄と家族から愛されずに育てられた。
婚約者のトリスタンとの関係も悪かった。
トリスタンには、恋人でもある第三王女ビビアンがいた。
それでも、心の中で悪態をつきながら日々を過ごしていた。
忘れられた幼な妻は泣くことを止めました
帆々
恋愛
アリスは十五歳。王国で高家と呼ばれるう高貴な家の姫だった。しかし、家は貧しく日々の暮らしにも困窮していた。
そんな時、アリスの父に非常に有利な融資をする人物が現れた。その代理人のフーは巧みに父を騙して、莫大な借金を負わせてしまう。
もちろん返済する目処もない。
「アリス姫と我が主人との婚姻で借財を帳消しにしましょう」
フーの言葉に父は頷いた。アリスもそれを責められなかった。家を守るのは父の責務だと信じたから。
嫁いだドリトルン家は悪徳金貸しとして有名で、アリスは邸の厳しいルールに従うことになる。フーは彼女を監視し自由を許さない。そんな中、夫の愛人が邸に迎え入れることを知る。彼女は庭の隅の離れ住まいを強いられているのに。アリスは嘆き悲しむが、フーに強く諌められてうなだれて受け入れた。
「ご実家への援助はご心配なく。ここでの悪くないお暮らしも保証しましょう」
そういう経緯を仲良しのはとこに打ち明けた。晩餐に招かれ、久しぶりに心の落ち着く時間を過ごした。その席にははとこ夫妻の友人のロエルもいて、彼女に彼の掘った珍しい鉱石を見せてくれた。しかし迎えに現れたフーが、和やかな夜をぶち壊してしまう。彼女を庇うはとこを咎め、フーの無礼を責めたロエルにまで痛烈な侮蔑を吐き捨てた。
厳しい婚家のルールに縛られ、アリスは外出もままならない。
それから五年の月日が流れ、ひょんなことからロエルに再会することになった。金髪の端正な紳士の彼は、彼女に問いかけた。
「お幸せですか?」
アリスはそれに答えられずにそのまま別れた。しかし、その言葉が彼の優しかった印象と共に尾を引いて、彼女の中に残っていく_______。
世間知らずの高貴な姫とやや強引な公爵家の子息のじれじれなラブストーリーです。
古風な恋愛物語をお好きな方にお読みいただけますと幸いです。
ハッピーエンドを心がけております。読後感のいい物語を努めます。
※小説家になろう様にも投稿させていただいております。
今から婚約者に会いに行きます。〜私は運命の相手ではないから
ありがとうございました。さようなら
恋愛
婚約者が王立学園の卒業を間近に控えていたある日。
ポーリーンのところに、婚約者の恋人だと名乗る女性がやってきた。
彼女は別れろ。と、一方的に迫り。
最後には暴言を吐いた。
「ああ、本当に嫌だわ。こんな田舎。肥溜めの臭いがするみたい。……貴女からも漂ってるわよ」
洗練された都会に住む自分の方がトリスタンにふさわしい。と、言わんばかりに彼女は微笑んだ。
「ねえ、卒業パーティーには来ないでね。恥をかくのは貴女よ。婚約破棄されてもまだ間に合うでしょう?早く相手を見つけたら?」
彼女が去ると、ポーリーンはある事を考えた。
ちゃんと、別れ話をしようと。
ポーリーンはこっそりと屋敷から抜け出して、婚約者のところへと向かった。
白い結婚を終えて自由に生きてまいります
なか
恋愛
––アロルド、私は貴方が結婚初日に告げた言葉を今でも覚えている。
忘れもしない、あの時貴方は確かにこう言った。
「初めに言っておく、俺達の婚姻関係は白い結婚として……この関係は三年間のみとする」
「白い結婚ですか?」
「実は俺には……他に愛する女性がいる」
それは「公爵家の令嬢との問題」を理由に、三年間だけの白い結婚を強いるもの。
私の意思を無視して三家が取り決めたものであったが、私は冷静に合意を決めた
――それは自由を得るため、そして『私自身の秘密を隠すため』の計算でもあった。
ところが、三年の終わりが近づいたとき、アロルドは突然告白する。「この三年間で君しか見えなくなった。白い結婚の約束をなかったことにしてくれ」と。
「セシーリア、頼む……どうか、どうか白い結婚の合意を無かった事にしてくれ」
アロルド、貴方は何を言い出すの?
なにを言っているか、分かっているの?
「俺には君しかいないと、この三年間で分かったんだ」
私の答えは決まっていた。
受け入れられるはずがない。
自由のため、私の秘密を守るため、貴方の戯言に付き合う気はなかった。
◇◇◇
設定はゆるめです。
とても強い主人公が自由に暮らすお話となります。
もしよろしければ、読んでくださると嬉しいです!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる