10 / 77
10. 二人の新生活
しおりを挟む
その後、エイマー治療院での仕事の内容やお給金についての説明を受け、併設された従業員寮や保育園を別の方から案内してもらった。
お給金はただの下働きにしては全然悪くないし、案内された寮の部屋は決して広くはなかったけれど、ユーリと二人で暮らしていくには充分だった。保育園は規模が小さく、保育士さんの数も子どもの人数も少なかったけれど、雰囲気は悪くない。少し年配の方から若い方まで、優しそうな保育士さんばかりだ。しかも寮も保育園も、この治療院のすぐそば。突然の環境の変化と、瞬く間に決まった新たな生活に心臓がバクバクしているけれど、もうこうなったら飛び込んでみるしかないと思った。ここで尻込みしていたって、ここより良い条件の生活なんて見つかる保証はない。何より治療院の雰囲気とエイマー先生の澄んだ瞳を見て、私は確信していた。ここはきっといい職場のはずだ、と。
「従業員寮の部屋は、今九割方埋まっているの。よかったねー、お部屋が空いていて」
案内してくれたポニーテールの快活な女性がそう言って、私たち親子に微笑みかけてくれた。
「は、はい。ありがとうございます」
「私も保育園に子どもを預けて、ここの治療院で受付なんかの仕事をしているのよ。夫の職場の近くに住んでるから、寮にはいないけどねっ。よかったら仲良くしてね」
彼女はそう言って、私たちを残し帰っていった。
仕事は三日後から始めることになった。やって来た初日から早速入居させてもらえることになり、私は抱えていた大きなボストンバッグ二つをその部屋に下ろし、安堵のため息をついた。前のアパートには箱詰めされた荷物がまだいくつか置いてあり、こちらの住所が決まり次第アンナさんが業者を手配して送ってくれる手筈になっている。何から何まで本当にありがたい。すぐに手紙を書いて、何かお礼の品物と一緒に送らなくちゃ。
その日はユーリと二人で部屋の掃除をし、ご近所探索を兼ねて食料品や日用品の買い物に出かけ、夜はユーリの大好きな具だくさんのポトフを作って一緒に食べた。半日以上私と二人でゆっくり過ごすことができて、ユーリはご機嫌だった。この部屋に必要最低限の家具が備え付けられていることも本当にありがたい。テーブルに差し向かいに座って、べちょべちょになる口の周りを時々拭いてやりながら、私はユーリに尋ねる。
「どう? ユーリ。ポトフ美味しい?」
「おいちい! ぱんもしゅごーくおいちい!」
「ふふ。本当ね。美味しいパン屋さんが近くにあってラッキーだわ」
「まま、ぱんがだいしゅきだよねー?」
「うん。ママは焼き立てのパンがだーい好き」
ニシシと笑ったユーリが、ポトフの中のじゃがいもをスプーンに乗せて口に運ぶ。私は安心して、また大きく息をついた。よかった……。勇気を出して王都まで出てきたものの、本当に仕事や住居がすぐに見つかるだろうかと、実はずっと不安ではあったのだ。エイマー先生に感謝しなくては。それと、アンナさんご夫婦にも。どちらも私にとって、最高の出会いだった。
一心不乱にポトフをはくはくと食べているユーリのほっぺたを見つめて幸せを噛みしめながらも、私の心はまだかすかな不安に揺れていた。このセレネスティア王国に渡ってきて約三年、せっかく慣れてきた場所や、知り合えた人々と離れ、また一から自分たちの生活を作っていかなくてはならない。全ては今後の人生のためと分かってはいても、頼れる身内や友人が一人もそばにいないというのは、なかなか心細いものだ。
ユーリのふわふわした栗色の髪や、長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳、真っ白でふくふくしたほっぺや小さなおててを見つめていると、あの人の姿が頭をよぎる。
彼が今、ここにいてくれたら。
ユーリを産んで以来、何度そう思ったか分からない。
この子が誕生した、その瞬間も。
この子が熱を出した時や、怪我をした時。不安で眠れなかった夜も。
ハイハイをはじめた時や、履かせていた靴が入らなくなって、足のサイズが大きくなったことに気付いた時。初めて「まま」と呼んでくれた時も。
この喜びをあの人と分かち合えたら、どんなに幸せだっただろうと、何度も思った。
だけど、私たちの間に、それは決して叶わぬ望みだったのだ。
「おなかいっぱーい」
「ふふ。はい。よく食べました。お利口さんね」
パンとポトフをたっぷり食べたユーリが、私を見てまたニパッと笑った。この子のこの笑顔を守っていくのは、私しかいない。弱気になっていたらダメだ。しっかりしなくちゃ。
ずっと自分に言い聞かせてきた言葉をまた頭の中で繰り返し、私はユーリの頭を撫でた。
疲れていたのか、その夜ユーリはいつもよりだいぶ早い時間に眠りについた。くうくうと小さな寝息を立てるユーリを起こさないようにベッドからそっと抜け出すと、私は静かに部屋の片付けを始めた。何せ今日引っ越してきたばかりなのだ。やるべきことは山ほどある。明日以降の買い物リストも作らなくっちゃ。
二時間ほどゴソゴソ動き回って掃除や片付けをした後、私は灯りを消して再びユーリの隣に滑り込み、そのミルクのような甘い匂いを嗅ぎながら目を閉じた。
(おやすみなさい、セシル)
あの人は今頃、何をしているんだろう。
きっともう婚約者の方と結婚して、自分の家庭を築いているんだろうな。
そんなことを思い、胸にツキリと鈍い痛みを覚える。
想うだけだから、許してほしい。
彼に対する私の恋慕は、今もこの胸の中でだけ、切なく熱く滾り続けている。
お給金はただの下働きにしては全然悪くないし、案内された寮の部屋は決して広くはなかったけれど、ユーリと二人で暮らしていくには充分だった。保育園は規模が小さく、保育士さんの数も子どもの人数も少なかったけれど、雰囲気は悪くない。少し年配の方から若い方まで、優しそうな保育士さんばかりだ。しかも寮も保育園も、この治療院のすぐそば。突然の環境の変化と、瞬く間に決まった新たな生活に心臓がバクバクしているけれど、もうこうなったら飛び込んでみるしかないと思った。ここで尻込みしていたって、ここより良い条件の生活なんて見つかる保証はない。何より治療院の雰囲気とエイマー先生の澄んだ瞳を見て、私は確信していた。ここはきっといい職場のはずだ、と。
「従業員寮の部屋は、今九割方埋まっているの。よかったねー、お部屋が空いていて」
案内してくれたポニーテールの快活な女性がそう言って、私たち親子に微笑みかけてくれた。
「は、はい。ありがとうございます」
「私も保育園に子どもを預けて、ここの治療院で受付なんかの仕事をしているのよ。夫の職場の近くに住んでるから、寮にはいないけどねっ。よかったら仲良くしてね」
彼女はそう言って、私たちを残し帰っていった。
仕事は三日後から始めることになった。やって来た初日から早速入居させてもらえることになり、私は抱えていた大きなボストンバッグ二つをその部屋に下ろし、安堵のため息をついた。前のアパートには箱詰めされた荷物がまだいくつか置いてあり、こちらの住所が決まり次第アンナさんが業者を手配して送ってくれる手筈になっている。何から何まで本当にありがたい。すぐに手紙を書いて、何かお礼の品物と一緒に送らなくちゃ。
その日はユーリと二人で部屋の掃除をし、ご近所探索を兼ねて食料品や日用品の買い物に出かけ、夜はユーリの大好きな具だくさんのポトフを作って一緒に食べた。半日以上私と二人でゆっくり過ごすことができて、ユーリはご機嫌だった。この部屋に必要最低限の家具が備え付けられていることも本当にありがたい。テーブルに差し向かいに座って、べちょべちょになる口の周りを時々拭いてやりながら、私はユーリに尋ねる。
「どう? ユーリ。ポトフ美味しい?」
「おいちい! ぱんもしゅごーくおいちい!」
「ふふ。本当ね。美味しいパン屋さんが近くにあってラッキーだわ」
「まま、ぱんがだいしゅきだよねー?」
「うん。ママは焼き立てのパンがだーい好き」
ニシシと笑ったユーリが、ポトフの中のじゃがいもをスプーンに乗せて口に運ぶ。私は安心して、また大きく息をついた。よかった……。勇気を出して王都まで出てきたものの、本当に仕事や住居がすぐに見つかるだろうかと、実はずっと不安ではあったのだ。エイマー先生に感謝しなくては。それと、アンナさんご夫婦にも。どちらも私にとって、最高の出会いだった。
一心不乱にポトフをはくはくと食べているユーリのほっぺたを見つめて幸せを噛みしめながらも、私の心はまだかすかな不安に揺れていた。このセレネスティア王国に渡ってきて約三年、せっかく慣れてきた場所や、知り合えた人々と離れ、また一から自分たちの生活を作っていかなくてはならない。全ては今後の人生のためと分かってはいても、頼れる身内や友人が一人もそばにいないというのは、なかなか心細いものだ。
ユーリのふわふわした栗色の髪や、長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳、真っ白でふくふくしたほっぺや小さなおててを見つめていると、あの人の姿が頭をよぎる。
彼が今、ここにいてくれたら。
ユーリを産んで以来、何度そう思ったか分からない。
この子が誕生した、その瞬間も。
この子が熱を出した時や、怪我をした時。不安で眠れなかった夜も。
ハイハイをはじめた時や、履かせていた靴が入らなくなって、足のサイズが大きくなったことに気付いた時。初めて「まま」と呼んでくれた時も。
この喜びをあの人と分かち合えたら、どんなに幸せだっただろうと、何度も思った。
だけど、私たちの間に、それは決して叶わぬ望みだったのだ。
「おなかいっぱーい」
「ふふ。はい。よく食べました。お利口さんね」
パンとポトフをたっぷり食べたユーリが、私を見てまたニパッと笑った。この子のこの笑顔を守っていくのは、私しかいない。弱気になっていたらダメだ。しっかりしなくちゃ。
ずっと自分に言い聞かせてきた言葉をまた頭の中で繰り返し、私はユーリの頭を撫でた。
疲れていたのか、その夜ユーリはいつもよりだいぶ早い時間に眠りについた。くうくうと小さな寝息を立てるユーリを起こさないようにベッドからそっと抜け出すと、私は静かに部屋の片付けを始めた。何せ今日引っ越してきたばかりなのだ。やるべきことは山ほどある。明日以降の買い物リストも作らなくっちゃ。
二時間ほどゴソゴソ動き回って掃除や片付けをした後、私は灯りを消して再びユーリの隣に滑り込み、そのミルクのような甘い匂いを嗅ぎながら目を閉じた。
(おやすみなさい、セシル)
あの人は今頃、何をしているんだろう。
きっともう婚約者の方と結婚して、自分の家庭を築いているんだろうな。
そんなことを思い、胸にツキリと鈍い痛みを覚える。
想うだけだから、許してほしい。
彼に対する私の恋慕は、今もこの胸の中でだけ、切なく熱く滾り続けている。
1,118
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
地味で器量の悪い公爵令嬢は政略結婚を拒んでいたのだが
克全
恋愛
「アルファポリス」「カクヨム」「小説家になろう」に同時投稿しています。
心優しいエヴァンズ公爵家の長女アマーリエは自ら王太子との婚約を辞退した。幼馴染でもある王太子の「ブスの癖に図々しく何時までも婚約者の座にいるんじゃない、絶世の美女である妹に婚約者の座を譲れ」という雄弁な視線に耐えられなかったのだ。それにアマーリエにも自覚があった。自分が社交界で悪口陰口を言われるほどブスであることを。だから王太子との婚約を辞退してからは、壁の花に徹していた。エヴァンズ公爵家てもつながりが欲しい貴族家からの政略結婚の申し込みも断り続けていた。このまま静かに領地に籠って暮らしていこうと思っていた。それなのに、常勝無敗、騎士の中の騎士と称えられる王弟で大将軍でもあるアラステアから結婚を申し込まれたのだ。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
公爵夫人の気ままな家出冒険記〜「自由」を真に受けた妻を、夫は今日も追いかける〜
平山和人
恋愛
王国宰相の地位を持つ公爵ルカと結婚して五年。元子爵令嬢のフィリアは、多忙な夫の言葉「君は自由に生きていい」を真に受け、家事に専々と引きこもる生活を卒業し、突如として身一つで冒険者になることを決意する。
レベル1の治癒士として街のギルドに登録し、初めての冒険に胸を躍らせるフィリアだったが、その背後では、妻の「自由」が離婚と誤解したルカが激怒。「私から逃げられると思うな!」と誤解と執着にまみれた激情を露わにし、国政を放り出し、精鋭を率いて妻を連れ戻すための追跡を開始する。
冒険者として順調に(時に波乱万丈に)依頼をこなすフィリアと、彼女が起こした騒動の後始末をしつつ、鬼のような形相で迫るルカ。これは、「自由」を巡る夫婦のすれ違いを描いた、異世界溺愛追跡ファンタジーである。
【完】婚約者に、気になる子ができたと言い渡されましたがお好きにどうぞ
さこの
恋愛
私の婚約者ユリシーズ様は、お互いの事を知らないと愛は芽生えないと言った。
そもそもあなたは私のことを何にも知らないでしょうに……。
二十話ほどのお話です。
ゆる設定の完結保証(執筆済)です( .ˬ.)"
ホットランキング入りありがとうございます
2021/08/08
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる