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第六章 選ばれた新たな未来
52 受け入れた現実
しおりを挟む「泣かせてすまない。これを使ってくれないか?」
ゲオルグが、自分のハンカチを濡らして、私に差し出してくれた。
「迷惑かけて、ごめんなさい。……有難く使わせて貰うわ」
私はゲオルグからハンカチを受け取ると、目の上に乗せた。肌ざわりのいい感触に、ひんやりとした冷たさ。とても気持ちがいい。
数日前に、一日中、泣いていた時と比べると、今日は、少し泣いただけなので、目の赤みが引けば、問題ないだろう。
そう思って目を閉じると、カサカサと風に揺れる葉の音が聞こえてきた。そして、その葉の揺れる音と共に、ゲオルグのつらそうな声が聞こえてきた。
「迷惑など……私が、悪い。焦り過ぎた……」
――焦りすぎた。ゲオルグの言葉を聞いて、自分もそうだったのかもしれないと思った。
早くハンスのことを忘れなくてはいけない。
早く新しい日常に慣れなければならない。
早く心を落ち着けなければならない。
早く――。早く――。早く――。
私は『早く、早く』と自分自身を追い詰めていたことに気づいた。
ハンスとは、10年も毎日のように一緒に過ごしていたのだ。
ハンスと一緒に、勉強したり、遊んだり、ハンスの大会の応援にいったり……。
私の記憶には、ハンスと過ごした想い出しかない。
ホフマン伯爵家に嫁ぐなら、私は将来、領地の経営をするか、宝石の仕事をすることになると、ホフマン伯爵の秘書の方に言われた。
いずれにしてもどちらも勉強しなければできない。だから私は、ハンスが乗馬や剣を習っている時間は全て、領地経営の勉強をしていた。
領地経営の勉強も宝石の勉強も当時の私には、とても難しかったので、必死で勉強した。
余裕のなかった私は、家族と、エカテリーナと数ヶ月に1度会って話をするくらいしか、人との交流がなかったのだ。冷静に考えてみると、これまでの私は、ハンスが中心の世界にいたのだ。ハンスのことをすぐに忘れられなくても仕方ないと思えた。
――私にはずっとハンスしかいなかったのだから――
ハンスと過ごしてきた日々をそう簡単に忘れることなどできないことに気づいた。
忘れられないのなら、自然と思い出さなくなるまで、このままでもいいように思えた。
私は、ハンカチを目の上から取ると、上を向けていた顔を、真っすぐに戻し、風に揺れる草花を眺めながら言った。
「私も焦り過ぎていたのね……」
ゲオルグの視線を感じて、ゲオルグの方を見ると、驚いた顔をした後に、目を細めて口元に笑みを浮かべて呟くように言った。
「お互い、焦らず、ゆっくりと自分のできることをするか……」
「ふふふ、そうね……ありがとう、ゲオルグ」
少しずつ変えて行こう。
すぐにこれまでのことを忘れられるほど、私は器用な方ではない。
それなら、ゆっくりと、今のことを考えてみよう。
「そろそろ、戻ろうか」
「ええ」
こうして、私たちは、教室に戻ったのだった。
☆==☆==
教室に戻ると、教室内がざわざわとしていた。
「どうかしたのだろうか?」
ゲオルグも教室内の様子を見て、眉を寄せた。
「そうね、何かあったみたいだわ」
私も状況がわからずに、首を傾けると、ゲオルグが、近くにいたクラスメイトである伯爵令嬢のマリー様に尋ねた。
「何かあったのか?」
ゲオルグに話かけられたマリー様は、興奮したように答えた。
「ゲオルグ様! 実は、ステーア公爵家のハワード様が、特別講師としてSクラスの外交の講義を担当して下さるそうなのです! 先程、エリスが、講師室で紹介されたと言っていましたの。今日はこれからあいさつに来られるそうですわ」
「ステーア公爵の次男のハワード殿が直々に外交の講義をされるのか……(あのお忙しい方々が、学院で講義?! なぜだ? 何かあるのか?)」
ゲオルグは、顎に手をあてて眉を寄せて考え込んでしまったようだった。
ステーア公爵家といえば、この国の外交を管理されている家だ。
そんな方が講義をして下さるのは、私たちにとって、とても幸運なことだった。
「それは素晴らしいわ」
私が、声を上げると、マリー様も嬉しそうに言った。
「そうでしょう? わたくしたちも嬉しくて! どのようなお話をお伺いできるのか楽しみだし、ハワード様との繋がりを持てば、家族にも感謝されるわ」
ハワード様との繋がりを持てば、つまりはステーア公爵家と繋がりと持つことになる。亡きホフマン伯爵が『Sクラスでの繋がりが将来必ず大きな助けになる』とよく言っていた。
確かに、Sクラスにいると、高位貴族の方々と繋がりと持つチャンスは多いと実感した。
チリン。チリン。
その時、このクラス専用の始まりのベルが鳴った。Sクラス以外のクラスは学院の大きな鐘の音が、講義の始まりと終わりの合図になるが、Sクラスにはそれぞれのベルがあり、始まりの時にだけ、ベルが鳴らされるのだ。
「あ、始まりますわ。それでは、ゲオルグ様、シャルロッテ様、失礼致します」
「失礼致します」
「教えてくれて、感謝する」
「いえ、では」
私とゲオルグもマリー様と別れ、席に着いた。
しばらくして、実習担当のイルーナ先生と一緒に、背の高い20歳くらいの若い男性が教室に入ってきた。見た目も気品に溢れている。私たちのクラスにはサフィール王子殿下や、ゲオルグがいるので、皆、高貴な方は見慣れているはずだが、それでも、目を奪われるほどの存在感だった。
じっと、男性を見ていると、男性と目が合い、笑顔を向けられた。
(今のは……偶然よね)
すると、イルーナ先生が口を開いた。
「皆さん、実習のまとめを始める前に、紹介したい方がいらっしゃいます。これから、定期的に皆さんに外交の講義をして下さる、ハワード先生です」
「はじめまして、ハワードです。私は、皆さんに学ぶ機会を提供するために来ています。爵位などは気にせず、積極的に質問し、外交を学んで下さい」
外交は、私も宝石の仕分けをする必要があるので、とても興味のある講義だ。その講義を、現在外交を行っている家の方が直々に教えて下さるのだ。
こんな有難い機会は、滅多にあるものではない。
私が、嬉しくて、真剣に先生を見ていると、また、先生と目が合って微笑んでくれた。
(これからの外交の時間が楽しみだわ)
私は、外交の講義がとても楽しみになったのだった。
☆==☆==
――数日前のステーア公爵家にて。
ステーア公爵は、執務室に息子であるハワードを呼んで、これまでの経緯を説明した。
「なるほど……今後は、ランゲ侯爵家の技術力が補強されるわけですね。王子殿下は食えないと思っていましたが……中々、使える王になりそうですね」
ハワードが小さく笑いながら言うと、ステーア公爵も口の端を上げながら言った。
「いずれにしても、これでランゲ侯爵家に資金が流れれば、現在研究が止まっている分野も目覚ましい効果が期待できる。そうなれば、外交が楽になる。願ったり叶ったりだ。ハルバルト侯爵家も、ランゲ侯爵家に資金が流れれば、国内の流通がスムーズになる。この変化は、我々と同じく歓迎すべきことだろうな」
ハワードは、公爵の話に頷いた後に、眉を寄せて言った。
「そうですね……ただ……ノイーズ公爵家は、このまま、黙っていない可能性がありますね」
公爵も眉を寄せて言った。
「そうだな。シャルロッテ嬢に随分と興味を持っておったようだしな。一応、牽制はしたが……」
「直接、彼女を保護できれば、良かったのでしょうが……」
「はは、それこそ周りが黙ってはいない。皆が今回の譲渡に反対しないのは、相手が、ランゲ侯爵家だからだ。皆、あの領の技術力に助けられているからな……さて、私の言いたいことはわかったか?」
公爵がニヤリと笑うと、ハワードは溜息をついた。
「ええ。そうですね……彼女は学生……ですか。……学院に潜り込んで、彼女と繋がりを作って、他の貴族の動きを牽制していきます」
「そうだな、それはいい。頼んだぞ」
「はい」
ハワードは、返事をすると、ステーア公爵の執務室を出て、溜息をついた。
「宝石の流通権限を持つ女か……使えない女じゃなければいいがな」
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