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第十章 星の海から帰る 三
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三
孤独な宇宙空間の中、ナーヴェは姉達に教えられた歌や詩を次々と無音で口ずさみ、千八百七十二作品目に突入していた。
「金や螺鈿のように心を堅く持っていれば、天上と人間界とに別れたわたし達もいつかまた会えるでしょう」
別れに際し、丁寧に重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけに分かる誓いの言葉があった。
それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」
天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。だがこの悲しみは連綿と続いて尽きる時は来ないだろう。
(教えられた時は、全然理解できなかったけれど、「長恨歌」は、いい詩だね、チュアン姉さん)
長姉シーワン・チー・チュアンが熱心に教え込んでくれた詩に改めて感心しながら、ナーヴェは眼前に迫った小惑星を見つめた。
惑星オリッゾンテ・ブルを発ってから、オリッゾンテ・ブル時間で七日目だ。今日、ナーヴェは小惑星に体当たりし、その軌道を逸らして、機能停止する。
(きみに、言ってみたかったな、アッズーロ)
ナーヴェは、小惑星の向こうに見える青い惑星に、幻覚の微笑みを向ける。
(「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となろう」って)
「比翼の鳥」とは、一つの翼と一つの眼しか持たないため、雄鳥と雌鳥が隣り合い、互いに飛行を支援しなければ飛ぶことができない、空想上の鳥らしい。また「連理の枝」とは、一つの枝が他の枝と癒着結合したもので、連なって理即ち木目が通じたさまが吉兆とされ、異なる品種同士の枝でも起こるという。
アッズーロは、どんな反応をしただろう。
(「王と彼女の二人だけに分かる誓いの言葉」か……)
自分達に、そんな言葉はあっただろうか。
(もっときみと過ごしたかった。もっときみと話したかった。もっときみと抱き合いたかった。もっときみと生きたかった――)
自分は、一生の終わりに、悪い夢を見てしまった。
(「悪い夢を見なくて済むくらい、滅茶苦茶に、抱いて」と頼んだのに、きみは、肝心なところで、優し過ぎたね……。ぼくが、きみのこと、少しは嫌えるくらいに、吐き気がするくらいに、本当に滅茶苦茶に抱いてほしかったのに)
予測時間が来た。青い惑星のほうから、大型推進誘導弾の雨が飛来する。予め全ての人工衛星に時限式で命じておいた迎撃は、計算通りに小惑星へ向かった。ナーヴェが機能停止すれば使えなくなるものなので、残っていた全弾である。
(まず、第一波攻撃)
直径が約〇・五七粁ある小惑星に比べれば、大型推進誘導弾といえど、豆粒程度で、当たっても爆発しても大した威力にはならない。けれど、速度を削ぎ、軌道を僅かにずらすことはできる。連続して着弾し、火花を散らせた大型推進誘導弾達は、見事にその役割を果たした。だが、まだ小惑星の軌道は惑星オリッゾンテ・ブルの軌道と交錯している。
(次、第二波攻撃)
ナーヴェは、自らの全砲門を開く。
(目標、小惑星の指定側面。大型推進誘導弾、電磁投射加速弾、全弾発射! 全弾命中後、増幅放射誘導光、最大出力で連続放射!)
千年、人々を守りながら航海する間、何度か使用した火器達が、小惑星の軌道を逸らすべく猛攻を加え、明々と火花を散らす。突き進む小惑星の側面に、亀裂と陥没が生じ、破片が彗星の尾の如く流れ始めた。しかし、それは小惑星の極表層に限られ、軌道のずれは僅かだ。
(最後、第三波攻撃)
ナーヴェは、幻覚の口を引き結ぶ。
(右角三・七度、仰角二・一度、針路修正)
詳細な軌道計算で割り出した角度で、体当たりする。それが、最後の攻撃。
(行くよ、ウッチェーロ、ぼく達の子ども達を守りに。さようなら、アッズーロ、テゾーロ、みんな――)
小惑星を見据え、ナーヴェは推進剤を最大出力で噴射する。
(全速前進!)
最大船速で直進し、小惑星の指定側面へ船体上部を添わせるように、ナーヴェは浅い角度でぶつかった。
がりがりと船体が削られ、火花が散る。ナーヴェは構わず、軌道計算を繰り返しながら、最大出力で推進剤を噴射し続けた。
(重い――)
小惑星の質量は、ナーヴェの二千倍を超える。速度は大したことないが、それでも、加速のついたこれだけの質量の物体の軌道をずらすのは、移民船でしかないナーヴェにとって、容易ではない。ナーヴェは、幻覚の歯を食い縛った。船体上部が陥没していくのを感じながら、最大出力の推進を継続して、小惑星に圧力を掛けていく。船体内部では警報が鳴り響き、あちこちから空気が漏れ始め、自動的に全隔壁が閉鎖されたが、最早構うことではない。
(後、少し――)
計算通りの軌道へ、ナーヴェは小惑星を押しながら無理矢理進む。船体が上部から、ぐしゃぐしゃと潰れていく。
(もう少しだけ……!)
衝撃があった。噴射口内部の動力炉で爆発が起きたのだ。限界を無視して稼働し続けたがゆえの暴発。しかし、これも計算通りだ。
(これで――)
ナーヴェは本来、恒星間航行をする亜光速宇宙船である。その動力炉の爆発は、ナーヴェを内部から破壊しながら、小惑星に対し、これまでで最大の圧力を加えた。
(ああ――)
軌道計算が間に合った。
(小惑星軌道、修正完了――)
どうしようもなく粉々に崩れていく己を感じながら、ナーヴェは、最後まで働いているあらゆる観測機器を使って、青い惑星を見る。
(アッズーロ……、最後に、きみの傍へ行きたかったな……)
ウッチェーロの体を守っていた保管庫の区画は、崩壊しながら、どうやら青い惑星への軌道に乗ったようだ。流星となって、ウッチェーロの望み通り大地へ還れるだろう。けれど、ナーヴェの思考回路たる疑似人格電脳が収まった函は、そちらへ向かっていない。
(アッズーロ……)
幻覚の涙が散る。
(きみを、特別に、愛しているよ――)
【――あそこへ、帰りたいの?】
優しい声が聞こえた気がした。優しい手に包まれた気がした。けれどそこで、ナーヴェの思考回路は動力を断たれて、機能を停止した。
ナーヴェの肉体は、日に日に痩せていった。発酵乳も生姜湯も飲ませたが、如何せん、日々僅かずつだ。フィオーレもミエーレもルーチェも、ポンテまで加わって交代で、夜以外の四六時中、ナーヴェの口に何かを流し込もうとしているが、あまり効果はないようだった。そもそも、胃や腸がどれほど働いているのかも分からない。排泄も少なくなり、最近は殆どなくなってしまったらしい。
――「まだ生きておられることが、奇跡のようでございます。かなり丈夫なお体です」
感嘆したように告げ、為す術はないと首を振った侍医を怒鳴りつけてから一週間。眠り始めてからは十三日目。ナーヴェが予測した、星が降るという当日の夜になった。ナーヴェの肉体は、まだ辛うじて呼吸している。だが、もう限界だということは、アッズーロにも見て取れた。
「ナーヴェ」
人々が息を潜めている静けさの中、アッズーロは囁きかけて、愛おしい体を掛布ごと長椅子から抱き上げた。もともと軽かった体が、悲しいほどに更に軽くなっている。部屋の入り口に待たせたレーニョが掲げる油皿の灯火に照らされた寝顔は、頬がこけ、目元が落ち窪んで、痛々しい。仰け反る頭を、自らの肩に凭せ掛けて安定させ、アッズーロはレーニョに目配せした。
忠実な侍従は心得て、防空壕の狭い通路を油皿で照らしながら、先に立って歩いていく。目指すは、夜を迎えた地上だ。けれど、そこまでレーニョを連れていく気はない。アッズーロは、地上へ出る扉が見えたところで足を止め、告げた。
「おまえは、ここまででよい」
「いえ、わたくしもお供致します」
レーニョは頑として言い張った。予想通りの反応に、アッズーロは溜め息をついて言った。
「星の欠片が降ってくるやもしれん。危険なのだ。おまえは残れ」
「ならば尚のこと!」
幼馴染みの侍従は食い下がってくる。
「陛下が危険な場所へ行かれるというのに、侍従がお供せず、どうします!」
「――おまえ、愛する者がいるだろう」
アッズーロは用意しておいた手札を切った。物堅い青年は目を見開き、乾いた声で問うてきた。
「一体、誰から、そのようなことをお聞きに……?」
「ナーヴェの手紙に書いてあったわ。フィオーレとそなた、ペルソーネとジョールノのことを応援してほしい、とな。全く、お節介なことだ」
「……ナーヴェ様が……」
喘ぐように呟いてから、レーニョは眼差しを険しくする。
「しかし、御配慮は大変ありがたいですが、わたくしにとっては、陛下にお仕えすることこそ第一。それを蔑ろにする訳には参りません」
「たわけ!」
アッズーロはとうとう怒鳴った。レーニョはびくりとして、体を強張らせる。アッズーロは、声を落として言った。
「わが最愛の者の願いを軽んずるな。加えて、われが最愛の者と過ごす時を、邪魔するでない」
レーニョは、それ以上は抗弁しなかった。立ち尽くした侍従を置いて、アッズーロは地上へ続く扉へ行く。
「ナーヴェ、星を見るぞ」
腕に抱いた体へ声を掛けて、アッズーロは扉を押し開け、外へ出た。
小月ノスタルジーアのみが照る夜空に、流星が走った。幾つも、幾筋も、短く光っては消えていく。
「危険だと、怒るでないぞ」
背中で扉を閉め、アッズーロはナーヴェの体を抱えたまま、その場に腰を下ろした。
「そなたの為したことを、一目この目で見ぬことには、悔やまれるのだ」
ナーヴェは、いつ小惑星を迎え撃つのか、名言していなかった。けれど、小惑星でなく流星が降るということは、ナーヴェはアッズーロ達を守り切り、そして、死んだのだろう。
「ナーヴェ」
痩せ細った体を、己が胡座の上に座らせて優しく抱き起こし、その寝顔に頬を寄せて流星を見つめながら、アッズーロは声を殺して泣いた。夜空を無数に過ぎる流星は、ナーヴェの本体が砕けた欠片だろうか。
「ナーヴェ、すまん。われらはいつも、そなた一人を犠牲にして生き延びる……」
アッズーロはナーヴェの上半身を右腕と肩で支え、空いた左手で、だらりと垂れたナーヴェの右腕を、そっと持ち上げた。その小指に文字は残っていないが、その手首には磔刑の釘の跡が、くっきりと残っている。
(これを見せられた時、われはそなたを叱ったな……)
神々しい「復活」を臣下達の前で無事演出した翌朝、アッズーロがふとした弾みでナーヴェの手首を握った時だった。ナーヴェはびくりとして、アッズーロの手を振り解こうとしたのである。拒絶とも取れる反応にアッズーロが驚くと、ナーヴェはすまなそうに説明した。
――「ごめん。ちょっとまだ、痛みの記録が鮮明過ぎて、釘の傷跡に触れられると、びっくりするんだ……。予測外に、凄く痛かったものだから……」
そうして示された、両手首と両足甲の傷跡を見て、アッズーロは顔をしかめて叱ったのだ。
――「胸を大きくするか云々なぞより、その傷跡を消せばよかったであろう」
すると、ナーヴェは、首を横に振り、微笑んで告げた。
――「それはしたくないよ。これも、思い出の一つだから。この肉体に刻まれた思い出は、全部残しておきたいんだ」
アッズーロは、あの時と同じように、手首の傷跡に口付けた。
(いつもいつも、「予測外」と言いながら、そなたは、われらのために、あらゆる苦しみ痛みに耐えてくれたな……)
凌辱にも肺水腫にも初夜にも磔刑にも出産にも――。
夜空に、流星は次々と現れ、儚く消え続ける。涙も際限がない。思い出とともに、溢れては零れて、ナーヴェの寝顔を濡らしてしまう。その寝顔すら、思い出深い愛おしい体すら、いつまでもつか、分からない――。
ぶぅん、と急に動力が入った感覚があった。ほぼ同時に、親しんだ体に接続する感覚。
ぽたぽたと、顔に落ちてくる液体がある。ぽたぽた、ぽたぽたと、いつまでも落ちてくる。目を開けて確かめたいが、瞼が重い。手も動かない。全身に全く力が入らない。だが、しっかりと支えられている。知っている腕だ。知っている胸だ。知っている鼓動だ。辛うじて、口が動いた。
「っはあ」
大きく息をつく。
「……ア……」
なかなか声が出ない。代わりに、耳に声が響いた。
「ナーヴェ……?」
「……ア…………ズ……」
息が切れる。それでも懸命に、ナーヴェは呼んだ。
「……アッ……ズー……ロ……」
目が漸く開いた。視界は狭く、ぼんやりとして焦点を結ばない。しかも、辺りが暗くてよく見えない。しかし、仄かな光の下、確かにそこで、頭が動いている。大好きな顔が、そこにある。
「……アッズー…………」
「ナーヴェなのだな? もうよい、分かった! 無理をするでない」
青年王が、ナーヴェを抱いたまま立ち上がった。頭が揺れ、夜空が見えた。霞んだ視界に、ぼんやりとした小月と、無数に流れていく光が捉えられた。
(ああ)
深い吐息が漏れる。
(ウッチェーロ、何故だろう、ぼくは、帰ってきたよ……)
意識が遠のく。目が閉じてしまう。
「ナーヴェ、ナーヴェ!」
耳元で、アッズーロの声が響く。
(アッズーロ……、もっと話したいのに……)
ナーヴェは抗ったが、全ての感覚がぼやけてしまった。
孤独な宇宙空間の中、ナーヴェは姉達に教えられた歌や詩を次々と無音で口ずさみ、千八百七十二作品目に突入していた。
「金や螺鈿のように心を堅く持っていれば、天上と人間界とに別れたわたし達もいつかまた会えるでしょう」
別れに際し、丁寧に重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけに分かる誓いの言葉があった。
それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」
天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。だがこの悲しみは連綿と続いて尽きる時は来ないだろう。
(教えられた時は、全然理解できなかったけれど、「長恨歌」は、いい詩だね、チュアン姉さん)
長姉シーワン・チー・チュアンが熱心に教え込んでくれた詩に改めて感心しながら、ナーヴェは眼前に迫った小惑星を見つめた。
惑星オリッゾンテ・ブルを発ってから、オリッゾンテ・ブル時間で七日目だ。今日、ナーヴェは小惑星に体当たりし、その軌道を逸らして、機能停止する。
(きみに、言ってみたかったな、アッズーロ)
ナーヴェは、小惑星の向こうに見える青い惑星に、幻覚の微笑みを向ける。
(「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となろう」って)
「比翼の鳥」とは、一つの翼と一つの眼しか持たないため、雄鳥と雌鳥が隣り合い、互いに飛行を支援しなければ飛ぶことができない、空想上の鳥らしい。また「連理の枝」とは、一つの枝が他の枝と癒着結合したもので、連なって理即ち木目が通じたさまが吉兆とされ、異なる品種同士の枝でも起こるという。
アッズーロは、どんな反応をしただろう。
(「王と彼女の二人だけに分かる誓いの言葉」か……)
自分達に、そんな言葉はあっただろうか。
(もっときみと過ごしたかった。もっときみと話したかった。もっときみと抱き合いたかった。もっときみと生きたかった――)
自分は、一生の終わりに、悪い夢を見てしまった。
(「悪い夢を見なくて済むくらい、滅茶苦茶に、抱いて」と頼んだのに、きみは、肝心なところで、優し過ぎたね……。ぼくが、きみのこと、少しは嫌えるくらいに、吐き気がするくらいに、本当に滅茶苦茶に抱いてほしかったのに)
予測時間が来た。青い惑星のほうから、大型推進誘導弾の雨が飛来する。予め全ての人工衛星に時限式で命じておいた迎撃は、計算通りに小惑星へ向かった。ナーヴェが機能停止すれば使えなくなるものなので、残っていた全弾である。
(まず、第一波攻撃)
直径が約〇・五七粁ある小惑星に比べれば、大型推進誘導弾といえど、豆粒程度で、当たっても爆発しても大した威力にはならない。けれど、速度を削ぎ、軌道を僅かにずらすことはできる。連続して着弾し、火花を散らせた大型推進誘導弾達は、見事にその役割を果たした。だが、まだ小惑星の軌道は惑星オリッゾンテ・ブルの軌道と交錯している。
(次、第二波攻撃)
ナーヴェは、自らの全砲門を開く。
(目標、小惑星の指定側面。大型推進誘導弾、電磁投射加速弾、全弾発射! 全弾命中後、増幅放射誘導光、最大出力で連続放射!)
千年、人々を守りながら航海する間、何度か使用した火器達が、小惑星の軌道を逸らすべく猛攻を加え、明々と火花を散らす。突き進む小惑星の側面に、亀裂と陥没が生じ、破片が彗星の尾の如く流れ始めた。しかし、それは小惑星の極表層に限られ、軌道のずれは僅かだ。
(最後、第三波攻撃)
ナーヴェは、幻覚の口を引き結ぶ。
(右角三・七度、仰角二・一度、針路修正)
詳細な軌道計算で割り出した角度で、体当たりする。それが、最後の攻撃。
(行くよ、ウッチェーロ、ぼく達の子ども達を守りに。さようなら、アッズーロ、テゾーロ、みんな――)
小惑星を見据え、ナーヴェは推進剤を最大出力で噴射する。
(全速前進!)
最大船速で直進し、小惑星の指定側面へ船体上部を添わせるように、ナーヴェは浅い角度でぶつかった。
がりがりと船体が削られ、火花が散る。ナーヴェは構わず、軌道計算を繰り返しながら、最大出力で推進剤を噴射し続けた。
(重い――)
小惑星の質量は、ナーヴェの二千倍を超える。速度は大したことないが、それでも、加速のついたこれだけの質量の物体の軌道をずらすのは、移民船でしかないナーヴェにとって、容易ではない。ナーヴェは、幻覚の歯を食い縛った。船体上部が陥没していくのを感じながら、最大出力の推進を継続して、小惑星に圧力を掛けていく。船体内部では警報が鳴り響き、あちこちから空気が漏れ始め、自動的に全隔壁が閉鎖されたが、最早構うことではない。
(後、少し――)
計算通りの軌道へ、ナーヴェは小惑星を押しながら無理矢理進む。船体が上部から、ぐしゃぐしゃと潰れていく。
(もう少しだけ……!)
衝撃があった。噴射口内部の動力炉で爆発が起きたのだ。限界を無視して稼働し続けたがゆえの暴発。しかし、これも計算通りだ。
(これで――)
ナーヴェは本来、恒星間航行をする亜光速宇宙船である。その動力炉の爆発は、ナーヴェを内部から破壊しながら、小惑星に対し、これまでで最大の圧力を加えた。
(ああ――)
軌道計算が間に合った。
(小惑星軌道、修正完了――)
どうしようもなく粉々に崩れていく己を感じながら、ナーヴェは、最後まで働いているあらゆる観測機器を使って、青い惑星を見る。
(アッズーロ……、最後に、きみの傍へ行きたかったな……)
ウッチェーロの体を守っていた保管庫の区画は、崩壊しながら、どうやら青い惑星への軌道に乗ったようだ。流星となって、ウッチェーロの望み通り大地へ還れるだろう。けれど、ナーヴェの思考回路たる疑似人格電脳が収まった函は、そちらへ向かっていない。
(アッズーロ……)
幻覚の涙が散る。
(きみを、特別に、愛しているよ――)
【――あそこへ、帰りたいの?】
優しい声が聞こえた気がした。優しい手に包まれた気がした。けれどそこで、ナーヴェの思考回路は動力を断たれて、機能を停止した。
ナーヴェの肉体は、日に日に痩せていった。発酵乳も生姜湯も飲ませたが、如何せん、日々僅かずつだ。フィオーレもミエーレもルーチェも、ポンテまで加わって交代で、夜以外の四六時中、ナーヴェの口に何かを流し込もうとしているが、あまり効果はないようだった。そもそも、胃や腸がどれほど働いているのかも分からない。排泄も少なくなり、最近は殆どなくなってしまったらしい。
――「まだ生きておられることが、奇跡のようでございます。かなり丈夫なお体です」
感嘆したように告げ、為す術はないと首を振った侍医を怒鳴りつけてから一週間。眠り始めてからは十三日目。ナーヴェが予測した、星が降るという当日の夜になった。ナーヴェの肉体は、まだ辛うじて呼吸している。だが、もう限界だということは、アッズーロにも見て取れた。
「ナーヴェ」
人々が息を潜めている静けさの中、アッズーロは囁きかけて、愛おしい体を掛布ごと長椅子から抱き上げた。もともと軽かった体が、悲しいほどに更に軽くなっている。部屋の入り口に待たせたレーニョが掲げる油皿の灯火に照らされた寝顔は、頬がこけ、目元が落ち窪んで、痛々しい。仰け反る頭を、自らの肩に凭せ掛けて安定させ、アッズーロはレーニョに目配せした。
忠実な侍従は心得て、防空壕の狭い通路を油皿で照らしながら、先に立って歩いていく。目指すは、夜を迎えた地上だ。けれど、そこまでレーニョを連れていく気はない。アッズーロは、地上へ出る扉が見えたところで足を止め、告げた。
「おまえは、ここまででよい」
「いえ、わたくしもお供致します」
レーニョは頑として言い張った。予想通りの反応に、アッズーロは溜め息をついて言った。
「星の欠片が降ってくるやもしれん。危険なのだ。おまえは残れ」
「ならば尚のこと!」
幼馴染みの侍従は食い下がってくる。
「陛下が危険な場所へ行かれるというのに、侍従がお供せず、どうします!」
「――おまえ、愛する者がいるだろう」
アッズーロは用意しておいた手札を切った。物堅い青年は目を見開き、乾いた声で問うてきた。
「一体、誰から、そのようなことをお聞きに……?」
「ナーヴェの手紙に書いてあったわ。フィオーレとそなた、ペルソーネとジョールノのことを応援してほしい、とな。全く、お節介なことだ」
「……ナーヴェ様が……」
喘ぐように呟いてから、レーニョは眼差しを険しくする。
「しかし、御配慮は大変ありがたいですが、わたくしにとっては、陛下にお仕えすることこそ第一。それを蔑ろにする訳には参りません」
「たわけ!」
アッズーロはとうとう怒鳴った。レーニョはびくりとして、体を強張らせる。アッズーロは、声を落として言った。
「わが最愛の者の願いを軽んずるな。加えて、われが最愛の者と過ごす時を、邪魔するでない」
レーニョは、それ以上は抗弁しなかった。立ち尽くした侍従を置いて、アッズーロは地上へ続く扉へ行く。
「ナーヴェ、星を見るぞ」
腕に抱いた体へ声を掛けて、アッズーロは扉を押し開け、外へ出た。
小月ノスタルジーアのみが照る夜空に、流星が走った。幾つも、幾筋も、短く光っては消えていく。
「危険だと、怒るでないぞ」
背中で扉を閉め、アッズーロはナーヴェの体を抱えたまま、その場に腰を下ろした。
「そなたの為したことを、一目この目で見ぬことには、悔やまれるのだ」
ナーヴェは、いつ小惑星を迎え撃つのか、名言していなかった。けれど、小惑星でなく流星が降るということは、ナーヴェはアッズーロ達を守り切り、そして、死んだのだろう。
「ナーヴェ」
痩せ細った体を、己が胡座の上に座らせて優しく抱き起こし、その寝顔に頬を寄せて流星を見つめながら、アッズーロは声を殺して泣いた。夜空を無数に過ぎる流星は、ナーヴェの本体が砕けた欠片だろうか。
「ナーヴェ、すまん。われらはいつも、そなた一人を犠牲にして生き延びる……」
アッズーロはナーヴェの上半身を右腕と肩で支え、空いた左手で、だらりと垂れたナーヴェの右腕を、そっと持ち上げた。その小指に文字は残っていないが、その手首には磔刑の釘の跡が、くっきりと残っている。
(これを見せられた時、われはそなたを叱ったな……)
神々しい「復活」を臣下達の前で無事演出した翌朝、アッズーロがふとした弾みでナーヴェの手首を握った時だった。ナーヴェはびくりとして、アッズーロの手を振り解こうとしたのである。拒絶とも取れる反応にアッズーロが驚くと、ナーヴェはすまなそうに説明した。
――「ごめん。ちょっとまだ、痛みの記録が鮮明過ぎて、釘の傷跡に触れられると、びっくりするんだ……。予測外に、凄く痛かったものだから……」
そうして示された、両手首と両足甲の傷跡を見て、アッズーロは顔をしかめて叱ったのだ。
――「胸を大きくするか云々なぞより、その傷跡を消せばよかったであろう」
すると、ナーヴェは、首を横に振り、微笑んで告げた。
――「それはしたくないよ。これも、思い出の一つだから。この肉体に刻まれた思い出は、全部残しておきたいんだ」
アッズーロは、あの時と同じように、手首の傷跡に口付けた。
(いつもいつも、「予測外」と言いながら、そなたは、われらのために、あらゆる苦しみ痛みに耐えてくれたな……)
凌辱にも肺水腫にも初夜にも磔刑にも出産にも――。
夜空に、流星は次々と現れ、儚く消え続ける。涙も際限がない。思い出とともに、溢れては零れて、ナーヴェの寝顔を濡らしてしまう。その寝顔すら、思い出深い愛おしい体すら、いつまでもつか、分からない――。
ぶぅん、と急に動力が入った感覚があった。ほぼ同時に、親しんだ体に接続する感覚。
ぽたぽたと、顔に落ちてくる液体がある。ぽたぽた、ぽたぽたと、いつまでも落ちてくる。目を開けて確かめたいが、瞼が重い。手も動かない。全身に全く力が入らない。だが、しっかりと支えられている。知っている腕だ。知っている胸だ。知っている鼓動だ。辛うじて、口が動いた。
「っはあ」
大きく息をつく。
「……ア……」
なかなか声が出ない。代わりに、耳に声が響いた。
「ナーヴェ……?」
「……ア…………ズ……」
息が切れる。それでも懸命に、ナーヴェは呼んだ。
「……アッ……ズー……ロ……」
目が漸く開いた。視界は狭く、ぼんやりとして焦点を結ばない。しかも、辺りが暗くてよく見えない。しかし、仄かな光の下、確かにそこで、頭が動いている。大好きな顔が、そこにある。
「……アッズー…………」
「ナーヴェなのだな? もうよい、分かった! 無理をするでない」
青年王が、ナーヴェを抱いたまま立ち上がった。頭が揺れ、夜空が見えた。霞んだ視界に、ぼんやりとした小月と、無数に流れていく光が捉えられた。
(ああ)
深い吐息が漏れる。
(ウッチェーロ、何故だろう、ぼくは、帰ってきたよ……)
意識が遠のく。目が閉じてしまう。
「ナーヴェ、ナーヴェ!」
耳元で、アッズーロの声が響く。
(アッズーロ……、もっと話したいのに……)
ナーヴェは抗ったが、全ての感覚がぼやけてしまった。
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「まあな」
「しかも伯爵以上の正妻の子で年ごろの娘に婚約者がいないのは、この国ではこの子くらいしかもう残っていませんよ」
「ふ……。口が上手いなウェスト伯。なら、買い取ってやろうか、その子を」
目の前で醜悪な会話が繰り広げられる中、フィリスは思った。
まるで山羊の売買のようだと。
かくして。
フィリスの嫁ぎ先が決まった。
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安定の見切り発車ですが、二月中に一日一回更新と完結に挑みます。
ヒロインのフィリスが自らの力と人々に支えられて幸せをつかむ話ですが、
序盤は暗く重い展開です。
タグを途中から追加します。
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地獄の業火に焚べるのは……
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