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第十章 星の海から帰る 四

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     四

「ナーヴェ! ナーヴェ!」
 呼んでも、宝は目を開けない。それどころか、急に呼吸が乱れ始めた。アッズーロの腕の中で、喘ぐように、忙しなく息をする。
「くそっ」
 アッズーロがナーヴェを抱えたまま、防空壕入り口の扉を開けようとしたところで、中から灯火が漏れ、レーニョが出てきた。
「申し訳ございません。なれど、陛下のお声が、尋常ではございませんでしたので」
「よい判断だ」
 一言労って、アッズーロは命じた。
「侍医のメーディコを呼べ。ナーヴェの容体が急変した」
「すぐに……!」
 レーニョは血相を変えて、防空壕の奥へ走り去っていった。油皿を持ったレーニョが去り、暗闇と化した防空壕の中へ、アッズーロは怒鳴った。
「誰ぞ、灯りを持て!」
「――はい、ただ今!」
 応じて油皿を手に、真っ先に出てきたのはルーチェだった。
「よい反応だ。ナーヴェの部屋まで速やかに先導せよ」
 急かしたアッズーロに、ルーチェは一礼し、先に立って足早に通路を進んだ。
 部屋に入り、アッズーロが長椅子にナーヴェを寝かせたところへ、メーディコがレーニョとともに駆けつけてきた。
「声を出し、目を開けたかと思うたら、突然息が荒くなった。今はまた意識がなくなっておる」
 アッズーロが告げると、これまで何度もナーヴェの診察をしてきた壮年の侍医は、難しい顔をした。
「とにかく、できるだけのことは致します」
 短く答えて、メーディコはナーヴェの長衣の胸紐を解き、襟を寛げつつレーニョに指示した。
「侍従殿、ナーヴェ様の両足を少し持ち上げて下され。それで、多少は楽になるはずです」
「分かりました」
 レーニョは手にしていた油皿をルーチェに渡し、ナーヴェの両足を抱えて、ゆっくり持ち上げた。メーディコは次にアッズーロを振り向いた。
「陛下は、ひたすらナーヴェ様の名をお呼び下され。もう一度目を開いて頂ければ、助かるやもしれませぬ」
「おまえは何故いつもそう悲観的な物言いばかりするのだ」
 文句を言いながらアッズーロはナーヴェの顔の上に屈み込み、その頬に手を添えて呼んだ。
「ナーヴェ、目を開けよ。気をしっかり持て!」
「女官殿」
 メーディコは、ナーヴェの手首を取って脈を探りながら、ルーチェにも指示を出す。
「生姜湯を作ってきて下され。気付けになるよう、できるだけ濃いものを。但し、人肌まで冷まして」
「分かりました!」
 ルーチェはレーニョから預かったほうの油皿を小卓の上へ置くと、素早く部屋を出ていった。
「ナーヴェ、目を開けよ! 努力せよ、そなたの口癖であろう!」
 アッズーロは繰り返し呼び掛けた。ナーヴェの呼吸は、幾分落ち着いてきたように見えるが、まだ浅い。
「ナーヴェ、目を開けよ! このまま――は許さんぞ! 許さぬからな!」
 アッズーロは、ナーヴェのこけた頬を、指先で叩いた。


 呼ばれている。頬を軽く叩かれている。右手を誰かに握られている。両足も、誰かに抱えられている。目を開きたい。だが、瞼が重い。ナーヴェは、体の各部の中で一番動き易い口を、懸命に開けた。
「……ア……」
「ナーヴェ、苦しいのか?」
 アッズーロの、切羽詰まった声がする。この優しい青年を、自分はどれだけ苦しめているのだろう。ナーヴェは、大きく息を吸い、吐く息で声を出した。
「……アッズー……」
 声の勢いのお陰か、目が少し開いた。狭い視界の中に、ぼんやりと青年の顔がある。
「ナーヴェ!」
「アッズー……」
 ナーヴェは微笑んで見せようと努力した。
「生姜湯お持ちしました!」
 知っている少女の声が聞こえた。
「陛下、ナーヴェ様の上半身を起こして下され。気付けに生姜湯を飲んで頂きます」
 指示する男の声にも聞き覚えがある。
「侍従殿は、一端ナーヴェ様の足を下ろして」
 すぐに肩と頭を支えられて抱き起こされ、視界が回る。思わず目を閉じた直後、間近でアッズーロの声がした。
「ナーヴェ、生姜湯だ」
 背中が密着しているので、青年の声は、体にも直接響いてくる。
「気付け用ゆえ、少々濃いが、我慢せよ」
 唇に、硬いものが触れた。生姜のきつい香りがする。ナーヴェは、浅い呼吸をしながら、僅かに口を開けた。すぐに硬いものが口の中へ入り、辛い生姜湯が舌の上に流れた。
「げほっ、ごほっ」
 刺激的な香りに、咳が出る。
「ナーヴェ……」
 アッズーロの、焦燥を滲ませた声がする。ナーヴェは、一気に口の中の生姜湯を飲み込んだ。咳は続くが、気管支や肺に生姜湯が入った訳ではない。ナーヴェは、アッズーロに分かるよう、口を開けた。
「いけるか?」
 心配げに問うたアッズーロに、ナーヴェは何とか頭を動かして微かに頷いた。
「よし。少しずついくぞ」
 低く響く声で告げ、アッズーロは辛抱強く、ナーヴェに匙で生姜湯を飲ませ続けた――。
 いつの間にか陥っていた微睡みから目覚めると、油皿の灯りを背に受けて、まだそこにアッズーロがいた。枕辺に椅子を置いているのか、すぐ傍から顔を覗き込んでくる。メーディコ達は自室に戻ったのか、部屋は静かだ。
「……生姜湯、ありがとう……。ずっと傍にいてくれて、嬉しいよ……」
 感謝を伝えると、頬に手を添えられた。優しく、慈しむように撫でられる。温かさに、ナーヴェは目を細めた。
「そなたと、また話せるとは、われのほうこそ、本当に嬉しい」
 アッズーロらしくない素直な喜びの表現に、ナーヴェは頬を弛めた。
「流星が見えた……。今日は、初夏の月十三の日……、もう十四の日かな……。きみが、ぼくの肉体を、十日以上……もたせてくれたから……、また、会えたんだ……」
「わが愛の証が、示せたな」
 アッズーロは、心底嬉しそうだ。ナーヴェは、微かに顔を曇らせて告げた。
「ただ……、何故、帰ってこられたのか……、ぼくにも、全然、分からないんだ……。本体は、粉々になった……。ぼくの……思考回路も、動力が切れて……、機能停止……したはずだった……。だから、ごめん、アッズーロ。ぼくは、いつまた、機能停止するか、分からない……。この状態が、いつまで続くか、分からないんだ……」
「――ならば、われはできるだけ、そなたの傍にいよう。できるだけ、語り合おう」
 答えて、アッズーロはナーヴェの前髪に口付けた。
「うん……。でも、政務は、滞らせないで……」
 ナーヴェが釘を刺すと、アッズーロは苦笑した。
「そなたのそういうところは、相変わらずよな」
 ナーヴェも苦笑してから、訥々と話した。
「小惑星を目指して……宇宙を航行している……間、たくさんの……歌や詩を、記録から……呼び出して……いたんだ。その中に、『天にあっては……願わくは比翼の鳥となり、地にあっては……願わくは連理の枝となろう』という、男女の……誓いの言葉が……あってね……。きみに、言ってみたかったな……って、思ったんだ……」
「何となく分かる気もするが……、どういう意味なのだ?」
 アッズーロは、ナーヴェの髪を指先で梳きながら、優しく問うてきた。「比翼の鳥」と「連理の枝」について、ナーヴェは、ゆっくりと説明した。
「成るほど……、われらに相応しい言葉だな」
 にっと笑ったアッズーロに、ナーヴェは微笑んで頷いた。
「そう……だね……」
 眠気が襲ってくる。やりたかったことを一つ終えて、安堵した所為だろうか。
「後は……、きみと、お酒が飲みたいと……思ったんだよ……」
「それは、そなたの体が、もっと回復してからだな。早く、よくなるがよい」
 アッズーロの声は、どこまでも優しい。
「うん……。努力する……」
 ナーヴェは、下りてくる瞼に抗って、アッズーロを見る。
「だから……、政務の合間だけは……、傍に……」
「政務なぞ放っておいて傍に、と言うてもよいのだぞ?」
 溜め息をついて見せたアッズーロに、ナーヴェは辛うじて首を横に振り、目を閉じた。


 最愛の宝は、言葉通り、律義に努力した。目覚めて二日目には麦粥が食べられるようになった。食べた分だけ元気に話せるようになり、起きていられる時間も増えたが、二週間眠り続けた体は、なかなか動くようにはならないようだった。
「ずっとここにいても飽きよう。少し、外へ出てみるか?」
 目覚めて三日目の朝食後にアッズーロが提案すると、宝は子どものように顔を輝かせて頷いた。
 フィオーレとミエーレの手を借りて身仕度を済ませた宝を抱き上げ、アッズーロは、油皿を持ったレーニョに先導させて、外へ出た。
「――明るいね……」
 ナーヴェは、眩しい朝の日差しに、目を細めた。
「うむ。その辺りの木陰に座るか」
 まだまだ軽い体を抱えたまま歩き、アッズーロは栗の木陰へ入った。腰を下ろして、痩せた体を膝の上に座らせ、華奢な肩を抱き寄せたまま、アッズーロは栗の幹に凭れる。
「いい風が、吹いているね……」
 ナーヴェは、うっとりとした表情で目を閉じた。
「そうだな」
 アッズーロは、微風に青い前髪をそよがせたナーヴェの顔に見とれた。腕に抱えたこの存在は、やはり掛け替えのない宝だ。
「少し、口を開け」
 短く命じて、アッズーロは、多少血色のよくなったナーヴェの唇に口付けた。そのまま、二週間分の思いを込めて、深く深く口付ける。ナーヴェは、素直にアッズーロに応じた。やがて、腕に感じるナーヴェの動悸が速くなってきたところで、アッズーロは口を離した。まだ無理をさせる訳にはいかない。
「……アッズーロ……」
 ナーヴェは、潤んだ青い双眸で見上げてくる。アッズーロは嘆息して言った。
「そのように無防備な顔をするでない。われの自制心を試す気か。続きはまた今度だ。そなたの体調が戻れば、幾らでも、な」
「……うん……」
 ナーヴェは、アッズーロの襟元に頭を寄せてくる。その顔が、寂しげだ。
「どうした。そなたらしくないな。こういうことを止めるのは、寧ろ、そなたのほうであろう」
「――どんなのがぼくらしいかなんて、忘れたよ……」
 宝は、木漏れ日の中、拗ねたように呟いた。
「それは『嘘』であろう。そなた、随分と人らしくなったな」
 軽く驚いたアッズーロに、ナーヴェは、自嘲気味に反論した。
「ぼくには、もう本体もない。どうして今、ここにこうしているのか、いつ機能停止するか――死ぬかも分からない。きみ達人と、同じになったんだよ」
「それは重畳」
 アッズーロは笑んだ。
「そもそもそれが、そなたの望みではなかったのか?」
「きみの隣にずっといたい、それが、ぼくの一番の望み。でも、ここにいられる理由が不明なままでは、いつ機能停止するか――いつきみと別れないといけないかも、分からない。きみのことを、危険から守ることもできない……」
 俯いた宝の双眸は、不安に揺れている。ナーヴェがどういう状況にあるか判然としないことについては、アッズーロも不安だったが、当人の不安は、それ以上だったようだ。
「――そなたは、既に充分われらを守った。気に病むな。次はわれらにそなたを守らせよ。王都の復興も進んでおる。一週間後には戻れよう。それまでに、今少し元気になれ」
 穏やかに言い聞かせると、ナーヴェはこくりと頷いた。
「――ごめん。本当に、ぼくらしくなかったね。ないはずだったきみとの時間を過ごせているだけで、満足しないといけないのに……」
 詫びて、宝は顔を上げた。いつもの微笑みを浮かべている。
「外に連れてきてくれて、ありがとう、アッズーロ。きみの時間を、これ以上奪う訳にはいかない。仕方なかったとはいえ、ぼくが破壊してしまった王都の復興には、王の裁可が必要だ」
「急にしおらしくなるな。この場で抱いてしまいたくなる」
 アッズーロが文句を言うと、腕の中で、宝はくすりと笑った。
 しかし、防空壕の小部屋で再び長椅子に横たわらせたナーヴェは、昼になっても、夕方になっても、寂しげで、不安そうなままだった。夜になって、アッズーロが油皿の火を消そうとした時には、か細い声で求めてきた。
「手を、握っていてほしいんだ……。いつ機能停止しても、きみを感じながら、意識を失えるように……」
「手ぐらい幾らでも握るゆえ、気弱なことを言うでない」
 アッズーロは溜め息をついて、宝を叱った。とはいえ、長椅子から長椅子へ、腕を伸ばして一晩、手を握り続けるのは、さすがにきつい。アッズーロは、狭い部屋の中、自らの長椅子を押して、ナーヴェの長椅子へくっ付けてしまった。
「ごめん……」
 心底すまなそうに、ナーヴェは詫びた。
「よい。気にするな。そなたに求められるは、わが歓びだ」
 アッズーロは答えて、油皿の火を消し、手探りで掛布を被りながら長椅子に横たわると、腕を伸ばしてナーヴェを掛布ごと抱き寄せた。
「ありがとう……」
 ナーヴェは、安堵した呟きを漏らして、アッズーロの胸に頭を寄せてくる。さらさらとした髪が顎や首に触れてくすぐったい。暫くすると、腕の中から、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
(本体がないと、やはり不安定になる訳か……)
 アッズーロは、闇の中、顔をしかめた。ナーヴェが戻ってきたことは素直に喜ばしいが、その理由については、見当も付かない。
(すまん。われには、こうして傍にいてやることしかできん……。ならば、できることを、とことんするしかあるまいな)
 決意したアッズーロは、翌日から、仮小屋の机の傍にも長椅子を置かせて、政務の間、ナーヴェをそこに寝かせ始めた。ナーヴェは、ひどく喜び、アッズーロの求めに応じて的確な助言をすることもあれば、疲れてすやすやと眠ったりもしながら、幸せそうに過ごした。眠る宝の頭を、時折さわさわと撫でながら、アッズーロは政務に精を出した。アッズーロ自身、傍にナーヴェを置いておくと、気持ちが安らいで、政務が捗る気がした。そうして一週間が過ぎ、アッズーロの計画通りに、一家で王都へ戻る日が来た。
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