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図書室
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昼下がりの図書室は、いつも少し湿った紙の匂いと、微かに軋む床板の音で満ちていた。窓際のカーテンは風に揺れ、陽射しをゆらゆらと切り取る。その日も山本渚は、授業をさぼったわけでもなく、特別に勉強熱心だったわけでもなく、ただ習慣のように図書室に足を運んでいた。彼女にとってここは、友人とのおしゃべりよりも落ち着く隠れ家のような場所だったのだ。
背表紙が色あせた本の並ぶ棚を、いつものようになんとなく指先でなぞって歩く。物理学の難解な専門書もあれば、誰も読んだことがなさそうな地方史の冊子もある。そんな中、不意に「すっ」と空気が変わった気がした。視線を落とした先に、一冊の黒いノートが、隙間に押し込まれるように置かれていたのだ。
装丁は簡素で、題名も著者名も印字されていない。ただの無地のノートのように見える。だが、渚はなぜかそれを手に取らずにはいられなかった。カバーは布のような質感で、持ち上げるとひどく軽い。
「誰かの落とし物かな……?」
そう思いながら、彼女は机に腰掛けて開いてみた。最初の数ページは真っ白。だが五ページほど進んだところで、奇妙な文字が現れた。万年筆で書かれたような深い黒のインクで、整った字ではあるが古びている。
――このノートに二人の名前を書け。書かれた者たちは性を入れ替える。
それだけだった。説明も注意書きもなく、唐突な命令のように記されている。渚は思わず吹き出した。
「なにこれ……冗談?」
オカルトめいた話は嫌いではない。むしろ深夜の怪談番組を一人で観てしまうくらいには興味がある。しかし、実際に学校の図書室でこんな代物に出会うとは思いもしなかった。手帳の持ち主がふざけて書いたのだろう、と片付けようとした瞬間、次の行に目が止まった。
――望まぬ名を書いてはならぬ。望まぬ者の運命を弄ぶな。
一気に背筋が冷える。たかがイタズラ文句に過ぎないかもしれない。だが、この一文は彼女の心に妙な重みを残した。
(もし、本当に入れ替わったら……?)
脳裏に、同じクラスの友人たちの顔が浮かんだ。快活でスポーツ万能な小田切、勉強ばかりしている石田、そして幼なじみの優斗。彼らと性別が入れ替わった自分を想像して、渚は頬を赤らめてしまう。笑い飛ばせるはずなのに、心臓は妙に高鳴っていた。
ページをさらに繰ると、誰かがすでに名前を書き込んだ跡があるのに気づいた。鉛筆で薄く消された文字がうっすら残っている。だが、判別できるほどには残っていない。誰が試したのかはわからない。それが現実だったのか、ただの遊びだったのかさえも。
ふと、渚は自分の指先が震えていることに気づいた。ノートを閉じればすべてが冗談で終わる。だが、もしも、と考えてしまった時点で、頭の中では選択肢が芽生えてしまった。
「……ちょっとだけ、試してみてもいいかも」
独り言が静まり返った図書室に吸い込まれる。鉛筆を握り、渚はページをめくり直す。紙は少しざらついて、書き込むにはちょうどいい感触だ。
最初に書こうとしたのは自分の名前だった。山本渚――。字を書きながら、自分の存在を紙に刻む感覚が妙に鮮烈に思えた。そして次に思案する。相手の名前は誰にする? 友達、家族、クラスメート……。
考えれば考えるほど、胸の内でざわめきが広がる。ふざけ半分でやるなら誰でもいい。けれど、名前を書くこと自体にすでに「選ぶ」行為の重みがあった。
そのとき、廊下から誰かの足音が近づいてきた。反射的に渚はノートを閉じ、机の下に隠した。扉が開き、司書の先生が入ってくる。
「山本さん、今日も来ていたのね。授業はもう終わった?」
「あ、はい。ちょっとだけ本を見てて……」
取り繕うように微笑みながら答える渚。先生はにこりと頷いて、奥のカウンターへ向かっていった。胸の鼓動はまだ早い。危うく覗かれそうになった秘密を抱え込んでいるような罪悪感が全身を支配していた。
再び机の下のノートを取り出し、じっと見つめる。黒い表紙はただの文房具に過ぎないはずなのに、今は何か生き物のように彼女を見返している気がした。
――名前を書けば、性別が入れ替わる。
頭の中で、その言葉が何度も繰り返される。
渚は深く息を吸った。ノートを閉じて棚に戻すのか、それとも……。
答えはまだ出ない。けれど確かに、その瞬間から彼女の日常は、静かに歪み始めていた。
背表紙が色あせた本の並ぶ棚を、いつものようになんとなく指先でなぞって歩く。物理学の難解な専門書もあれば、誰も読んだことがなさそうな地方史の冊子もある。そんな中、不意に「すっ」と空気が変わった気がした。視線を落とした先に、一冊の黒いノートが、隙間に押し込まれるように置かれていたのだ。
装丁は簡素で、題名も著者名も印字されていない。ただの無地のノートのように見える。だが、渚はなぜかそれを手に取らずにはいられなかった。カバーは布のような質感で、持ち上げるとひどく軽い。
「誰かの落とし物かな……?」
そう思いながら、彼女は机に腰掛けて開いてみた。最初の数ページは真っ白。だが五ページほど進んだところで、奇妙な文字が現れた。万年筆で書かれたような深い黒のインクで、整った字ではあるが古びている。
――このノートに二人の名前を書け。書かれた者たちは性を入れ替える。
それだけだった。説明も注意書きもなく、唐突な命令のように記されている。渚は思わず吹き出した。
「なにこれ……冗談?」
オカルトめいた話は嫌いではない。むしろ深夜の怪談番組を一人で観てしまうくらいには興味がある。しかし、実際に学校の図書室でこんな代物に出会うとは思いもしなかった。手帳の持ち主がふざけて書いたのだろう、と片付けようとした瞬間、次の行に目が止まった。
――望まぬ名を書いてはならぬ。望まぬ者の運命を弄ぶな。
一気に背筋が冷える。たかがイタズラ文句に過ぎないかもしれない。だが、この一文は彼女の心に妙な重みを残した。
(もし、本当に入れ替わったら……?)
脳裏に、同じクラスの友人たちの顔が浮かんだ。快活でスポーツ万能な小田切、勉強ばかりしている石田、そして幼なじみの優斗。彼らと性別が入れ替わった自分を想像して、渚は頬を赤らめてしまう。笑い飛ばせるはずなのに、心臓は妙に高鳴っていた。
ページをさらに繰ると、誰かがすでに名前を書き込んだ跡があるのに気づいた。鉛筆で薄く消された文字がうっすら残っている。だが、判別できるほどには残っていない。誰が試したのかはわからない。それが現実だったのか、ただの遊びだったのかさえも。
ふと、渚は自分の指先が震えていることに気づいた。ノートを閉じればすべてが冗談で終わる。だが、もしも、と考えてしまった時点で、頭の中では選択肢が芽生えてしまった。
「……ちょっとだけ、試してみてもいいかも」
独り言が静まり返った図書室に吸い込まれる。鉛筆を握り、渚はページをめくり直す。紙は少しざらついて、書き込むにはちょうどいい感触だ。
最初に書こうとしたのは自分の名前だった。山本渚――。字を書きながら、自分の存在を紙に刻む感覚が妙に鮮烈に思えた。そして次に思案する。相手の名前は誰にする? 友達、家族、クラスメート……。
考えれば考えるほど、胸の内でざわめきが広がる。ふざけ半分でやるなら誰でもいい。けれど、名前を書くこと自体にすでに「選ぶ」行為の重みがあった。
そのとき、廊下から誰かの足音が近づいてきた。反射的に渚はノートを閉じ、机の下に隠した。扉が開き、司書の先生が入ってくる。
「山本さん、今日も来ていたのね。授業はもう終わった?」
「あ、はい。ちょっとだけ本を見てて……」
取り繕うように微笑みながら答える渚。先生はにこりと頷いて、奥のカウンターへ向かっていった。胸の鼓動はまだ早い。危うく覗かれそうになった秘密を抱え込んでいるような罪悪感が全身を支配していた。
再び机の下のノートを取り出し、じっと見つめる。黒い表紙はただの文房具に過ぎないはずなのに、今は何か生き物のように彼女を見返している気がした。
――名前を書けば、性別が入れ替わる。
頭の中で、その言葉が何度も繰り返される。
渚は深く息を吸った。ノートを閉じて棚に戻すのか、それとも……。
答えはまだ出ない。けれど確かに、その瞬間から彼女の日常は、静かに歪み始めていた。
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