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優斗の不安
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夜。
山本家の浴室には、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。
“山本渚”の姿をした優斗は、湯船に肩までつかり、ぼんやりと天井を見上げていた。
昼間からの疲れが一気に押し寄せ、体の芯まで温まるのが分かる。けれど、心の中はどうにも落ち着かない。
目を閉じれば、今日一日の出来事が蘇る。
――朝、目を覚ますと入れ替わっていた。
――ノートを探しても見つからなかった。
――渚と一緒にカラオケまで行ったのに、何の手がかりもなし。
その全てが現実味を帯びて、まるで逃げ場のない夢の中に閉じ込められているようだった。
(……もし、このまま戻れなかったら、俺、どうなるんだ?)
お湯の中で指を握りしめる。細くて、白い指。自分の手じゃない。
けれど今日一日、それを自分のように動かしていた。
人の目も声も、全て“渚”として見られ、聞かれ、話される。
(俺のこと、みんな忘れていくのかな……)
ふとそんな考えがよぎる。
“優斗”という存在が、だんだん薄れていく気がする。
誰も自分を“俺”として見てくれない世界。渚として生き続けるしかない世界。
(……渚の家族にも、友達にも、もう「優斗」はいないって思われるんだろうな)
胸が締めつけられるように痛んだ。
湯の中で体を小さく丸める。
「俺……このまま“渚”になって生きるのか?」
思わず口に出した言葉が、湯気の中に溶けて消えていく。
その声は自分のものではなく、柔らかくて、少し高い――まぎれもなく渚の声だった。
鏡に映るその顔を想像しただけで、奇妙な気分になる。
湯面に映る輪郭は、笑えば優しげで、目を伏せれば儚げだ。
誰がどう見ても“女の子”の顔。そこに優斗の面影はどこにもない。
(こんな顔で、どうやって“俺”を証明すんだよ……)
お湯の中でため息をつくと、小さな泡が浮かび上がった。
けれど――頭の片隅で、もう一つの声がした。
(でも……渚は、俺を信じてくれてる)
昼間、カラオケからの帰り道。
「大丈夫、私たちなら戻れるよ」
そう言って笑ってくれた渚の姿が思い浮かぶ。
(渚がいなかったら、俺、たぶんとっくにパニックになってたな)
あいつの体の中で過ごすうちに、優斗は少しずつ“渚”という人間を近くに感じるようになっていた。
声の出し方、歩き方、笑うタイミング――全部、彼女の生き方そのものだ。
その繊細なリズムに合わせて一日を過ごすうちに、優斗の中にも少しずつ変化が生まれていた。
(渚って、こんなに頑張って笑ってたんだな)
学校での彼女は明るくて元気。でも、ほんの一瞬、寂しそうに目を伏せることがある。
今なら、その理由が少しだけわかる気がした。
女の子であることの大変さ。人に見られることの気疲れ。
それを全部、笑顔で包み隠していた。
(俺がこのまま渚として生きるなら……)
小さく息を吸う。
湯気の中で、自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動がゆっくりと響く。
(……ちゃんと、渚を大切にしてやらなきゃいけない)
自分の体じゃない。
でも、渚の人生を背負って生きるなら、無責任にはできない。
そう思うと、少しだけ胸のざわめきが静まった。
「……でもやっぱ、戻りたいよな」
ぽつりとつぶやく。
湯の表面が波紋を描き、柔らかく反射する光が頬を照らした。
風呂のドアの向こうでは、渚の母親の声がした。
「渚ー? 長風呂しすぎないでよー!」
「……はーい」
無意識に答えて、自分でも苦笑する。
その声は自然すぎて、まるで本当に“渚”になりきっているようだった。
(やっぱり、早く戻らないと)
湯船から立ち上がると、湯気の中にぼやけた自分の姿が映る。
その中に“優斗”の影は、もうどこにもなかった。
まるで、自分という存在が、少しずつこの湯の中に溶けていくような気がして――
優斗は、静かに目を閉じた。
山本家の浴室には、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。
“山本渚”の姿をした優斗は、湯船に肩までつかり、ぼんやりと天井を見上げていた。
昼間からの疲れが一気に押し寄せ、体の芯まで温まるのが分かる。けれど、心の中はどうにも落ち着かない。
目を閉じれば、今日一日の出来事が蘇る。
――朝、目を覚ますと入れ替わっていた。
――ノートを探しても見つからなかった。
――渚と一緒にカラオケまで行ったのに、何の手がかりもなし。
その全てが現実味を帯びて、まるで逃げ場のない夢の中に閉じ込められているようだった。
(……もし、このまま戻れなかったら、俺、どうなるんだ?)
お湯の中で指を握りしめる。細くて、白い指。自分の手じゃない。
けれど今日一日、それを自分のように動かしていた。
人の目も声も、全て“渚”として見られ、聞かれ、話される。
(俺のこと、みんな忘れていくのかな……)
ふとそんな考えがよぎる。
“優斗”という存在が、だんだん薄れていく気がする。
誰も自分を“俺”として見てくれない世界。渚として生き続けるしかない世界。
(……渚の家族にも、友達にも、もう「優斗」はいないって思われるんだろうな)
胸が締めつけられるように痛んだ。
湯の中で体を小さく丸める。
「俺……このまま“渚”になって生きるのか?」
思わず口に出した言葉が、湯気の中に溶けて消えていく。
その声は自分のものではなく、柔らかくて、少し高い――まぎれもなく渚の声だった。
鏡に映るその顔を想像しただけで、奇妙な気分になる。
湯面に映る輪郭は、笑えば優しげで、目を伏せれば儚げだ。
誰がどう見ても“女の子”の顔。そこに優斗の面影はどこにもない。
(こんな顔で、どうやって“俺”を証明すんだよ……)
お湯の中でため息をつくと、小さな泡が浮かび上がった。
けれど――頭の片隅で、もう一つの声がした。
(でも……渚は、俺を信じてくれてる)
昼間、カラオケからの帰り道。
「大丈夫、私たちなら戻れるよ」
そう言って笑ってくれた渚の姿が思い浮かぶ。
(渚がいなかったら、俺、たぶんとっくにパニックになってたな)
あいつの体の中で過ごすうちに、優斗は少しずつ“渚”という人間を近くに感じるようになっていた。
声の出し方、歩き方、笑うタイミング――全部、彼女の生き方そのものだ。
その繊細なリズムに合わせて一日を過ごすうちに、優斗の中にも少しずつ変化が生まれていた。
(渚って、こんなに頑張って笑ってたんだな)
学校での彼女は明るくて元気。でも、ほんの一瞬、寂しそうに目を伏せることがある。
今なら、その理由が少しだけわかる気がした。
女の子であることの大変さ。人に見られることの気疲れ。
それを全部、笑顔で包み隠していた。
(俺がこのまま渚として生きるなら……)
小さく息を吸う。
湯気の中で、自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動がゆっくりと響く。
(……ちゃんと、渚を大切にしてやらなきゃいけない)
自分の体じゃない。
でも、渚の人生を背負って生きるなら、無責任にはできない。
そう思うと、少しだけ胸のざわめきが静まった。
「……でもやっぱ、戻りたいよな」
ぽつりとつぶやく。
湯の表面が波紋を描き、柔らかく反射する光が頬を照らした。
風呂のドアの向こうでは、渚の母親の声がした。
「渚ー? 長風呂しすぎないでよー!」
「……はーい」
無意識に答えて、自分でも苦笑する。
その声は自然すぎて、まるで本当に“渚”になりきっているようだった。
(やっぱり、早く戻らないと)
湯船から立ち上がると、湯気の中にぼやけた自分の姿が映る。
その中に“優斗”の影は、もうどこにもなかった。
まるで、自分という存在が、少しずつこの湯の中に溶けていくような気がして――
優斗は、静かに目を閉じた。
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