婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

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第7話 宰相様と二人きりの食卓



 翌日の夕刻。昼間は執務室で膝の上に座り、数字を写したり報告書を読む手伝いをしていたが、今日は珍しく宰相様が早めに仕事を切り上げた。

「今日は特別に、二人だけで夕食を取ろう」
「えっ……ふ、二人だけで……ですか?」
「ああ。いつもは侍従や補佐官が控えているが、今夜は誰にも邪魔されぬ場を用意した」

 その言葉に心臓が跳ね、頬が熱を帯びる。二人きりの食卓――想像するだけで胸が苦しいほどだった。

 案内されたのは、普段よりもこぢんまりとした食堂。暖炉の火が静かに燃え、卓上には花と蝋燭が飾られている。長いテーブルではなく、丸い小さなテーブルの中央に料理が並べられ、親密な雰囲気を漂わせていた。

「……まるで、舞踏会の夜会場みたいです」
「舞踏会よりも落ち着くだろう」
 宰相様は椅子を引き、当然のように私を膝の上へ迎え入れた。驚きで声が出なかったが、彼に背を支えられると抵抗できない。

「さあ、食べよう」
 目の前には肉の香ばしいローストや、季節の野菜のスープ、果実を使った彩り豊かなサラダが並んでいる。

「……あ、あの……宰相様。やっぱり私は自分の椅子に……」
「必要ない。君はここでいい」
「で、でも……」
「君と食卓を共にするのは初めてではない。昨日も膝の上で菓子を食べただろう」
「そ、それは休憩の時で……」
「違いはない」

 淡々とした口調なのに、抗う気持ちを一瞬で封じる力があった。結局私は宰相様の膝の上でナイフとフォークを持つ羽目になった。

 だが、宰相様は私に無理をさせず、時折自ら肉を切り分けて口元に運んでくれる。
「ほら」
「……んっ」
 口に含むと、香ばしい肉汁とハーブの香りが広がり、思わず表情が緩む。

「美味しいです……」
「なら、もっと食べろ。君は少食すぎる」
 そう言って次々と料理を差し出す。私は羞恥で俯きながらも、結局すべて受け取ってしまった。

 蝋燭の灯りに照らされた宰相様の横顔は、昼間よりも柔らかく見えた。普段は冷徹で誰も寄せつけない威厳を漂わせているのに、今はただ穏やかに私を見つめている。その瞳に包まれるたび、胸が甘く痺れるようだった。

「君は、笑うと本当に可愛らしいな」
「っ……!」
 不意に囁かれ、思わず声が詰まった。心臓が耳まで響くほどに高鳴り、顔を真っ赤にして俯く。
「……殿下からは、そんなこと一度も言われませんでした」
 小さな声で零すと、宰相様は一瞬だけ目を細めた。
「愚か者だ。宝を見抜けぬ男に、王冠を戴く資格はない」

 その断言に、胸が熱く震えた。宰相様の声は冷静なのに、私にとっては甘い告白のように響いた。

 ――宰相様と二人きりの食卓。
 それは恥ずかしく、けれど心が満たされる特別なひとときだった。



 丸い卓上に並べられた料理は次々と宰相様の手によって私の口元へ運ばれていく。肉の香ばしさ、野菜の甘み、果実の瑞々しさ。どれも舌を楽しませるはずなのに、私の胸を満たしていたのは味そのものよりも「宰相様に食べさせてもらっている」という事実だった。

「……あの、宰相様。本当に、こんなふうにされてばかりでいいのでしょうか」
 小声で尋ねると、宰相様は淡々と肉を切り分けながら答えた。
「いいに決まっている。私はそうしたいのだから」
「で、でも……」
「君は今まで十分に我慢してきた。だからこそ、今は甘やかされればいい」

 真っ直ぐな言葉に頬が熱くなる。否定しようとする気持ちも浮かんだが、宰相様の腕に包まれていると、不思議と安心して受け入れてしまう。

 葡萄酒の代わりに甘い果汁が注がれたグラスを宰相様が差し出す。
「口をつけろ。喉が渇いているだろう」
「……はい」
 唇に触れる冷たいガラス。香り高い果実の甘みが広がり、思わず吐息が漏れる。その様子を見て、宰相様が低く笑った。
「やはり君は素直だな」
「そ、そんなこと……」
「素直でなければ、こうして私の膝に収まってはおるまい」

 囁く声に心臓が大きく跳ねる。羞恥に俯きながらも、胸の奥に芽生える喜びを否定できない。

 やがて食事が進み、テーブルに並んだ皿が片付けられると、デザートの菓子が運ばれてきた。焼きたての林檎パイに香ばしいナッツが散りばめられ、甘い香りが広がる。
「熱いから、気をつけろ」
 宰相様はパイを小さく切り分け、ふうっと息を吹きかけてから私の口元へ差し出した。
「……っ」
 頬を真っ赤にしながら口を開けると、温かな甘みが舌に広がり、胸までとろけそうになる。

「美味しいです……」
「そうか。なら、もう一口」

 何度も口元へ運ばれるたびに、羞恥と幸福がないまぜになって涙が滲みそうになった。けれど、それを見透かしたように宰相様は私の頬を指先でそっと拭う。
「泣くほどのことではない。だが……君が泣きたいなら、私の胸で泣け」

 あまりに優しい声に、堪えていたものが溢れそうになる。私は唇を噛みしめて首を振ったが、代わりに宰相様の胸へ顔を押し当てた。鼓動が力強く響き、心が甘く痺れていく。

「……宰相様。私は、どうしてこんなに大切にしていただけるのでしょう」
 震える問いかけに、宰相様は一瞬黙し、それから静かに答えた。
「理由は単純だ。――君が愛おしいからだ」

 その言葉に、世界が止まったように感じた。胸の奥が熱で満ち、視界が滲む。自分を見下し、切り捨てた人がいた。けれど今、私を抱き締め、大切にすると告げる人がいる。

 涙が零れそうになった瞬間、宰相様はさらに抱き寄せ、背を優しく撫でてくれた。




 宰相様の低い告白のような言葉が、胸の奥でいつまでも反響していた。耳まで熱くなり、まともに顔を上げられない。私は彼の胸元に額を押し当て、ただ鼓動を聞くことで自分を落ち着けようとした。

 しばらく沈黙が流れる。けれど、その沈黙は決して気まずいものではなく、心地よい安らぎに満ちていた。宰相様は大きな掌で私の髪を梳き、背を撫で、包み込むように抱いてくれている。その温もりが、言葉よりも雄弁に「ここにいていい」と告げていた。

「……殿下との婚約のことを思い出すと、まだ胸が痛みます」
 ようやく声を絞り出すと、宰相様は私の頭に唇を落とすように囁いた。
「痛んで当然だ。あれは理不尽で、君の名誉を踏みにじる行為だった」
「でも……宰相様に抱きしめられていると、不思議と恐くなくなります」
「それでいい。私の膝も、胸も、君を守るためにある」

 また胸の奥が熱で満ち、涙がにじんだ。頬を伝う前に宰相様の指がそれを拭い取る。
「君の涙は、私だけが受け止めればいい」

 その言葉に、胸が甘く震えた。

 やがて、食後の片付けを終えた侍女たちが下がると、部屋には本当に私と宰相様だけが残った。蝋燭の炎が揺れ、暖炉の火がぱちぱちと弾ける。親密すぎる沈黙の中で、私はそっと顔を上げた。

「宰相様……私、本当にここにいてもいいのですか?」
「何度でも言おう。君の居場所はここだ。膝の上であれ、食卓であれ」
 静かな眼差しがまっすぐに私を捉える。揺るぎないその視線に、胸の奥の不安が次々と消えていく。

 宰相様は立ち上がり、私を抱き上げた。長い外套が揺れ、廊下へと歩み出る。夕食を終えて眠る時間だと分かっていても、彼の腕の中にいるとまだ別れたくない気持ちがこみ上げた。

「……明日も」
 思わず声が漏れる。
「ん?」
「明日も……膝の上に座ってもいいですか」
 宰相様は小さく笑い、頷いた。
「もちろんだ。むしろ、私が待っている」

 胸が熱く震え、涙が零れそうになるのを必死に堪える。寝室に着き、ベッドに下ろされても、その余韻は消えなかった。

 宰相様は扉の前で振り返り、短く告げる。
「おやすみ。いい夢を」
「……おやすみなさい、宰相様」

 扉が閉じたあとも、胸の奥に残るのは彼の温もりと声。ベッドに横たわり、瞼を閉じると、心臓の鼓動が甘い響きを立て続けていた。

――こうして私は、宰相様と二人きりの食卓で交わした言葉を胸に、ますます「膝の上」という定位置に心を預けていくのだった。
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