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第8話 街へのお出かけ
〇
それは数日後の朝だった。いつものように宰相様の執務室へ向かおうとした私を、侍女が慌てて引き留めた。
「エリナ様、本日は閣下からのご命令で、お召し物を特別にご用意しております」
「お召し物……?」
用意されたのは、淡い青のドレスに白いケープを添えた装い。シンプルでありながら上品で、普段の私には少し眩しすぎる。驚きと戸惑いで鏡を見つめていると、背後から低い声がした。
「似合っているな」
振り返れば、すでに執務を終えた宰相様が立っていた。黒の外套に銀糸を織り込んだ衣装。普段の冷徹な印象よりも、街に出る紳士そのものの雰囲気だった。
「きょ、今日は執務ではないのですか?」
「午前の分はすでに終えた。午後は視察を兼ねて街へ出る」
「視察……」
「もちろん、君も一緒だ」
心臓が跳ねる。王都の街へ、宰相様と――。想像すらしていなかった展開に、言葉が喉で絡まった。
準備を整え、玄関口へ向かうと、黒塗りの馬車が待っていた。御者が深く頭を下げ、扉を開ける。宰相様は何のためらいもなく私を抱き上げ、ふわりと車内に下ろした。
「っ、あの……歩けます!」
「知っている。だが、私が抱きたいのだ」
「……っ」
相変わらずの断言に、頬が熱くなる。
馬車が走り出すと、窓の外には賑やかな街並みが広がっていった。露店が並び、子どもたちが笑い、商人たちの声が響く。久しく外出などしていなかった私は、その光景だけで胸が弾んだ。
「楽しそうだな」
宰相様の声音が穏やかで、思わず微笑んでしまう。
「はい……まるで夢みたいです」
「夢ではない。これから君が歩む日常だ」
その言葉に胸が震え、瞳が潤む。
馬車を降りると、人々の視線が一斉にこちらに集まった。宰相様が私を抱いたまま降り立ったからだ。ざわめきが広がり、道行く人々が息を呑む。
「……み、皆さんが見ています……!」
「見せておけばいい。君が私の庇護下にあることを」
堂々とした歩みで街を進む宰相様。その腕に抱かれているだけで、羞恥と同時に得も言われぬ安心感が胸を満たしていく。
――こうして私は、初めて「宰相様と共に街へ出る」という特別な時間を迎えたのだった。
△
王都の大通りは、想像していた以上に活気に満ちていた。石畳の道には商人の呼び声が飛び交い、果物や布地を並べた露店がずらりと軒を連ねている。香ばしいパンの香り、焼き栗の匂い、花屋の甘やかな香り――すべてが混ざり合って、まるでお祭りのようだった。
宰相様はそんな雑踏の中でも一歩も乱れず、私を抱いたまま堂々と歩いていく。彼の背筋は伸び、周囲を圧する威厳がある。それなのに、不思議と人々は畏れだけではなく、安心の色を瞳に宿していた。
「……皆、宰相様のことを信頼しているのですね」
思わず漏らした言葉に、宰相様は私を見下ろし、短く答えた。
「当然だ。私は彼らの生活を守るために在る」
「……素敵です」
「ふむ。君にそう言われると、不思議と悪くない気分だ」
その声音に胸が温かくなる。
やがて宰相様は立ち止まり、露店のひとつを見やった。年老いた女性が焼き菓子を並べている店だ。
「これを二つ」
銀貨を渡し、焼きたての菓子を受け取ると、彼は当然のように一つを私の口元へ運んできた。
「ここでも……!?」
「口を開けろ」
小さく口を開けば、香ばしい甘さが舌に広がる。周囲の人々が驚きの視線を向けているのを感じ、頬が熱を帯びた。けれど宰相様は一切気に留めず、淡々ともう一つを自ら口にする。
「どうだ」
「……美味しいです」
「そうか。君が喜ぶなら、この店を贔屓にしよう」
ただそれだけのやり取りが、心を甘く満たす。
その後も、宰相様は花屋に立ち寄り、白い小さな花束を買ってくれた。
「君の髪に似合う」
そう言って髪に差し込まれた瞬間、羞恥と幸福で胸がいっぱいになる。
道行く人々は皆、ざわめきながらも微笑ましげにこちらを見ていた。かつては「婚約破棄された哀れな娘」として好奇の視線を浴びた私。だが今、注がれる視線はまったく違う。――「宰相様に大切にされている令嬢」として見られているのだ。
胸の奥が熱で震え、自然と笑みがこぼれた。宰相様はその様子を横目で見て、わずかに口元を和らげる。
「やっと君らしい顔になったな」
「……私らしい、顔?」
「そうだ。安心しきった顔だ」
その一言が、涙が出そうなほど嬉しかった。
◇
夕刻が近づくにつれ、街の喧騒はさらに賑わいを増していった。子どもたちの笑い声、楽器を奏でる音、広場に集う人々のざわめき――すべてが混じり合い、王都全体が大きな祝祭のように思えた。
宰相様は私を抱いたまま、ふと足を止める。そこは噴水のある広場で、夕日を反射して水面が金色に輝いていた。周囲には市井の人々が集まり、恋人同士や家族連れが楽しげに語らっている。
「降ろそうか」
宰相様が問いかける。
「……はい」
そっと地面に足が触れる。けれど、数歩歩いただけで視線の多さに足がすくみそうになった。
「やはり……皆が見ています」
心細げに呟くと、宰相様は私の手をとり、しっかりと握った。
「見せておけばいい」
「……」
「君は私の庇護下にある。それを誰もが理解するほど、君は安全だ」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。彼と繋がれた手の強さが、不安をすべて打ち消してくれる。
しばらく広場を歩くと、大道芸人が観客を集めていた。子どもたちの笑い声が響き、拍手が湧き起こる。その光景に自然と頬が緩む。宰相様も横目でそれを眺め、わずかに口元を和らげていた。
「楽しそうだな」
「はい……とても」
「そうか。君が笑っているのなら、それで十分だ」
不意に囁かれ、胸が熱く震える。かつては「殿下に捨てられた娘」として嘲笑を浴びた私が、今は「宰相様に大切にされる令嬢」として見られている。その事実が、甘く誇らしい。
やがて陽が沈み、空に星が瞬き始めた。馬車に戻る途中、宰相様は再び私を抱き上げた。周囲の人々がざわめくが、彼は意に介さない。むしろ堂々と歩き、人々の視線を正面から受け止めている。
「……宰相様。やっぱり恥ずかしいです」
「誇れ」
「誇れ……?」
「そうだ。君は私が選んだ。恥じる理由はない」
短い断言に、胸がじんわりと痺れる。
馬車に戻り、座席に下ろされると、宰相様は私の髪に挿した小さな花を指先で直してくれた。
「似合っている。街の誰よりも美しかった」
「っ……!」
頬が熱くなり、視線を逸らす。だが胸の奥は甘い幸福でいっぱいだった。
やがて馬車が走り出し、夜の街並みが遠ざかっていく。私は宰相様の肩にもたれ、囁くように言葉を洩らした。
「……今日は本当に、幸せでした」
「ならばよかった」
宰相様は短く答え、私の手をしっかりと握った。
――こうして、初めての街へのお出かけは終わった。
けれど私の胸に残ったのは、賑わいの光景以上に、「宰相様に堂々と守られている」という揺るぎない実感だった。
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それは数日後の朝だった。いつものように宰相様の執務室へ向かおうとした私を、侍女が慌てて引き留めた。
「エリナ様、本日は閣下からのご命令で、お召し物を特別にご用意しております」
「お召し物……?」
用意されたのは、淡い青のドレスに白いケープを添えた装い。シンプルでありながら上品で、普段の私には少し眩しすぎる。驚きと戸惑いで鏡を見つめていると、背後から低い声がした。
「似合っているな」
振り返れば、すでに執務を終えた宰相様が立っていた。黒の外套に銀糸を織り込んだ衣装。普段の冷徹な印象よりも、街に出る紳士そのものの雰囲気だった。
「きょ、今日は執務ではないのですか?」
「午前の分はすでに終えた。午後は視察を兼ねて街へ出る」
「視察……」
「もちろん、君も一緒だ」
心臓が跳ねる。王都の街へ、宰相様と――。想像すらしていなかった展開に、言葉が喉で絡まった。
準備を整え、玄関口へ向かうと、黒塗りの馬車が待っていた。御者が深く頭を下げ、扉を開ける。宰相様は何のためらいもなく私を抱き上げ、ふわりと車内に下ろした。
「っ、あの……歩けます!」
「知っている。だが、私が抱きたいのだ」
「……っ」
相変わらずの断言に、頬が熱くなる。
馬車が走り出すと、窓の外には賑やかな街並みが広がっていった。露店が並び、子どもたちが笑い、商人たちの声が響く。久しく外出などしていなかった私は、その光景だけで胸が弾んだ。
「楽しそうだな」
宰相様の声音が穏やかで、思わず微笑んでしまう。
「はい……まるで夢みたいです」
「夢ではない。これから君が歩む日常だ」
その言葉に胸が震え、瞳が潤む。
馬車を降りると、人々の視線が一斉にこちらに集まった。宰相様が私を抱いたまま降り立ったからだ。ざわめきが広がり、道行く人々が息を呑む。
「……み、皆さんが見ています……!」
「見せておけばいい。君が私の庇護下にあることを」
堂々とした歩みで街を進む宰相様。その腕に抱かれているだけで、羞恥と同時に得も言われぬ安心感が胸を満たしていく。
――こうして私は、初めて「宰相様と共に街へ出る」という特別な時間を迎えたのだった。
△
王都の大通りは、想像していた以上に活気に満ちていた。石畳の道には商人の呼び声が飛び交い、果物や布地を並べた露店がずらりと軒を連ねている。香ばしいパンの香り、焼き栗の匂い、花屋の甘やかな香り――すべてが混ざり合って、まるでお祭りのようだった。
宰相様はそんな雑踏の中でも一歩も乱れず、私を抱いたまま堂々と歩いていく。彼の背筋は伸び、周囲を圧する威厳がある。それなのに、不思議と人々は畏れだけではなく、安心の色を瞳に宿していた。
「……皆、宰相様のことを信頼しているのですね」
思わず漏らした言葉に、宰相様は私を見下ろし、短く答えた。
「当然だ。私は彼らの生活を守るために在る」
「……素敵です」
「ふむ。君にそう言われると、不思議と悪くない気分だ」
その声音に胸が温かくなる。
やがて宰相様は立ち止まり、露店のひとつを見やった。年老いた女性が焼き菓子を並べている店だ。
「これを二つ」
銀貨を渡し、焼きたての菓子を受け取ると、彼は当然のように一つを私の口元へ運んできた。
「ここでも……!?」
「口を開けろ」
小さく口を開けば、香ばしい甘さが舌に広がる。周囲の人々が驚きの視線を向けているのを感じ、頬が熱を帯びた。けれど宰相様は一切気に留めず、淡々ともう一つを自ら口にする。
「どうだ」
「……美味しいです」
「そうか。君が喜ぶなら、この店を贔屓にしよう」
ただそれだけのやり取りが、心を甘く満たす。
その後も、宰相様は花屋に立ち寄り、白い小さな花束を買ってくれた。
「君の髪に似合う」
そう言って髪に差し込まれた瞬間、羞恥と幸福で胸がいっぱいになる。
道行く人々は皆、ざわめきながらも微笑ましげにこちらを見ていた。かつては「婚約破棄された哀れな娘」として好奇の視線を浴びた私。だが今、注がれる視線はまったく違う。――「宰相様に大切にされている令嬢」として見られているのだ。
胸の奥が熱で震え、自然と笑みがこぼれた。宰相様はその様子を横目で見て、わずかに口元を和らげる。
「やっと君らしい顔になったな」
「……私らしい、顔?」
「そうだ。安心しきった顔だ」
その一言が、涙が出そうなほど嬉しかった。
◇
夕刻が近づくにつれ、街の喧騒はさらに賑わいを増していった。子どもたちの笑い声、楽器を奏でる音、広場に集う人々のざわめき――すべてが混じり合い、王都全体が大きな祝祭のように思えた。
宰相様は私を抱いたまま、ふと足を止める。そこは噴水のある広場で、夕日を反射して水面が金色に輝いていた。周囲には市井の人々が集まり、恋人同士や家族連れが楽しげに語らっている。
「降ろそうか」
宰相様が問いかける。
「……はい」
そっと地面に足が触れる。けれど、数歩歩いただけで視線の多さに足がすくみそうになった。
「やはり……皆が見ています」
心細げに呟くと、宰相様は私の手をとり、しっかりと握った。
「見せておけばいい」
「……」
「君は私の庇護下にある。それを誰もが理解するほど、君は安全だ」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。彼と繋がれた手の強さが、不安をすべて打ち消してくれる。
しばらく広場を歩くと、大道芸人が観客を集めていた。子どもたちの笑い声が響き、拍手が湧き起こる。その光景に自然と頬が緩む。宰相様も横目でそれを眺め、わずかに口元を和らげていた。
「楽しそうだな」
「はい……とても」
「そうか。君が笑っているのなら、それで十分だ」
不意に囁かれ、胸が熱く震える。かつては「殿下に捨てられた娘」として嘲笑を浴びた私が、今は「宰相様に大切にされる令嬢」として見られている。その事実が、甘く誇らしい。
やがて陽が沈み、空に星が瞬き始めた。馬車に戻る途中、宰相様は再び私を抱き上げた。周囲の人々がざわめくが、彼は意に介さない。むしろ堂々と歩き、人々の視線を正面から受け止めている。
「……宰相様。やっぱり恥ずかしいです」
「誇れ」
「誇れ……?」
「そうだ。君は私が選んだ。恥じる理由はない」
短い断言に、胸がじんわりと痺れる。
馬車に戻り、座席に下ろされると、宰相様は私の髪に挿した小さな花を指先で直してくれた。
「似合っている。街の誰よりも美しかった」
「っ……!」
頬が熱くなり、視線を逸らす。だが胸の奥は甘い幸福でいっぱいだった。
やがて馬車が走り出し、夜の街並みが遠ざかっていく。私は宰相様の肩にもたれ、囁くように言葉を洩らした。
「……今日は本当に、幸せでした」
「ならばよかった」
宰相様は短く答え、私の手をしっかりと握った。
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