婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

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第14話 宰相様の休日



 王都の政務は常に山積みで、宰相様が休む姿など想像すらできなかった。だが、ある朝。執務室の扉を開けた私に向けられた言葉は、耳を疑うようなものだった。

「今日は休む」
「え……?」
 思わず聞き返すと、宰相様は羽ペンを机に戻し、背もたれに深くもたれかかった。
「急を要する案件は昨夜のうちに片付けた。今日は政務に手をつけぬ」
「そ、そんなこと……できるのですか?」
「できる。私が決めたことだ」

 いつもの冷徹な響きなのに、不思議と柔らかさが混じっている。胸がじんわりと温かくなる。

「……では、その……今日は何を?」
「君と過ごす」
「っ!」
 あまりにも端的な答えに、顔が熱を帯びた。

 宰相様は立ち上がり、当然のように私を抱き上げる。
「外に出るか、庭を歩くか……いや、君は本を読むのが好きだったな」
「覚えて……」
「当然だ。君の好みを忘れるはずがない」

 胸が甘く震えた。私は殿下にすら「趣味などつまらない」と笑われた過去を思い出す。だが宰相様は違う。私の小さな好みすら大切にしてくれる。

 庭園に面した広間に連れて行かれると、そこには既に侍女たちが用意したソファと本の山、軽食の籠が置かれていた。窓の外には雨上がりの陽光を浴びた花々が咲き誇り、空気は瑞々しい。

「……宰相様、これを全部……?」
「私が指示した。今日は君のための日だからな」

 胸が熱で満たされ、涙がこぼれそうになる。膝の上に座らされると、宰相様は本を一冊取り、私の手に渡した。
「読み聞かせてみろ」
「え、ええっ……私がですか?」
「そうだ。君の声で聞きたい」

 羞恥で喉が詰まりながらも、ページをめくる。震える声で物語を読み上げると、宰相様の胸から穏やかな鼓動が伝わってきた。

「……悪くない」
「へ、下手だと思いますけど……」
「下手ではない。むしろ心地よい」

 膝の上という安心感の中で、私は初めて「誰かに声を聞かせる喜び」を知った。

――こうして、宰相様の休日は穏やかに始まった。



 本を読み進めるうちに、いつしか緊張は薄れ、声も自然と落ち着いていった。物語の登場人物たちが笑ったり泣いたりする場面を読み上げると、宰相様が時折「ふむ」と小さく相槌を打つ。その低い声が背中越しに響き、心臓が甘く震える。

 数章を読み終えたところで、宰相様がページを閉じた。
「少し休め。声が枯れる」
「……はい」

 ソファの脇には侍女が用意した軽食の籠が置かれていた。果実をふんだんに使ったパイ、ハーブを練り込んだ小さなパン、蜂蜜をかけた焼き菓子。宰相様は当然のようにそれを手に取り、私の口元へ運んできた。

「っ、また……」
「当然だ。君は私に甘やかされるためにいる」
 断言に頬が真っ赤に染まる。だが、口に含んだ瞬間、甘い味と一緒に胸に広がったのは幸福感だった。

「……美味しいです」
「もっと食べろ。遠慮するな」
 次々と差し出され、結局ほとんどを宰相様の手から受け取ってしまった。

 やがて食べ終わり、温かい茶を飲み干したところで、宰相様が私をぐっと抱き寄せた。
「エリナ」
「……はい」
「私は政務のために存在している。だが、こうして君と過ごす時間が、想像以上に私を癒やす」

 低く囁かれた言葉に胸が熱くなる。私は慌てて顔を伏せた。
「わ、私なんかが……宰相様を癒やすだなんて」
「自覚しろ。君がいるから私は強く在れる」

 その瞳は揺るぎなく、まっすぐだった。涙がにじみ、私は宰相様の胸にしがみつく。

 しばらく静寂が流れ、外の庭から鳥のさえずりが聞こえた。心地よい眠気が襲い、瞼が重くなる。
「眠いのか」
「す、すみません……」
「謝るな。休日なのだから眠ればいい」

 宰相様は私を抱き上げ、ソファの上に横たえた。そして当然のように自らも隣に腰を下ろし、私を胸に抱き寄せる。

「……宰相様まで横に」
「君が眠るなら、私も隣で過ごす」

 その言葉に抗う気持ちは消え、私は安心して瞳を閉じた。

――宰相様の休日は、私にとっても甘美な安らぎの時間となっていった。




 うとうとと夢と現実の境を漂っていると、低い声が耳元に落ちてきた。

「本当に……よく眠るな」

 宰相様の胸に抱かれたまま、私は薄く目を開いた。視界に映るのは、普段の冷徹な表情とは違う、わずかに口元を緩めた彼の横顔。柔らかな光が差し込み、威厳に包まれたその人が、今はただ穏やかに私を見つめていた。

「……起こしてしまいましたか」
「いや。君が眠る姿は、静かで心地よい」
「っ……」

 羞恥で頬が熱を帯びる。けれど胸の奥は、不思議な幸福で満たされていった。

 やがて宰相様は、私の髪をゆっくりと梳きながら囁く。
「私はこれまで、休日と呼べる日を持ったことがなかった」
「え……?」
「政務に追われ、眠ることすら惜しんできた。だが……今日初めて気づいた。君と過ごす時間こそ、私にとっての休日だと」

 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。涙がこみ上げ、思わず彼の胸に顔を埋めた。
「……そんなふうに言っていただけるなんて、夢みたいです」
「夢ではない。君がここにいるのは現実だ」

 宰相様の手が背を支え、さらに強く抱き寄せられる。鼓動が重なり合い、安心感が全身を包んだ。

 しばらく沈黙が流れ、やがて夕暮れの光が窓辺を赤く染める。宰相様は静かに立ち上がり、私を抱いたまま廊下へと歩き出した。

「今日はもう政務に戻らないのですか」
「戻らん。最後まで休日とする」
「宰相様がそんなことを……」
「君と過ごすと決めたのだ。誰にも邪魔はさせない」

 寝室に着くと、宰相様は私をベッドに下ろし、自らも腰を下ろした。蝋燭の灯りが揺れ、外は静けさに包まれている。

「エリナ」
「……はい」
「今日を忘れるな。君と共に過ごした時間は、私にとってかけがえのない休息だ」

 その瞳は揺るぎなく、真摯だった。胸が甘く痺れ、瞳が潤む。私はそっと彼の手を取り、指を絡めた。
「私にとっても……宰相様と過ごす時間が一番の幸せです」

 宰相様は目を細め、額に口づけを落とす。
「ならば、また次の休日も君に捧げよう」

 その言葉に涙が零れ、笑みが浮かんだ。

――宰相様の休日は、私にとって「愛されている」という実感を深める特別な日になった。
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