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第2話 冷徹宰相、契約の提案
〇
夜が薄まり、雨の跡が石畳に冷たい艶を残していた。客間のカーテン越しに差す朝の光は柔らかく、暖炉の灰は白く沈んでいる。目を覚ました私は、指先に金属の微かな冷たさを感じた。いつの間にか握ったままだった銀の呼び鈴を掌で包み、深く息を吐く。あの静かな声と、ランプの薄明かり、低く朗読する気配が胸の奥で静かに揺れていた。
ドアが二度、控えめに叩かれる。私は姿勢を整えて返事をした。執事が朝食の用意を告げると、続いて現れたメイド頭が衣裳を選ぶ手助けを申し出る。押し付けがましさはなく、必要なものを必要なだけ差し出す距離感が心地よい。私は髪をまとめ、薄いクリーム色のワンピースに袖を通した。鏡に映る自分は、昨夜よりわずかに血色が良い。
食堂には、窓辺に朝の光が溜まっていた。白いテーブルクロスに銀器が整然と置かれ、湯気の立つポットの横にはバターと蜂蜜、薄切りの林檎。アルベルトは既に席にいて、書簡を一通読み終えると封を戻し、私に穏やかに頷いた。
「おはよう」
「おはようございます」
声を交わすだけで、空気が落ち着くのがわかる。彼はパンを取り分け、蜂蜜を薄く流し、湯気の立つ紅茶をちょうどよい温度まで待ってからカップを差し出した。
「昨夜は眠れたか」
「はい……おかげさまで」
「それならよかった」
食事の手際は迷いがなく、使うナイフの角度すら美しい。けれど見せつける気配はなく、必要な動きが必要な分だけ重なっていく。私はカップを口に運びながら、胸の奥で固まった部分が少しずつほどけるのを感じていた。
「本題に入ろう」
アルベルトはナプキンを畳み、視線で私に問うた。昨夜の封筒――婚姻契約。私はうなずき、腹の底に沈む不安の輪郭を確かめる。
「……読ませてください。もう一度」
「書庫へ行こう。静かだ」
食後、私たちは書庫に移った。壁一面の背の高い書棚、梯子に積もる微かな埃の香り。窓からの光は紙の上で柔らかく広がる。机には封筒と、すでに用意された公証の定型文、そして空白の署名欄。
「条項を確認してほしい。気になる点は、ここで全て直す」
「……“外出の自由は妻が自らの判断に基づいて行使できる。宰相府の都合で干渉しない。但し危険が予見される場合、双方協議の上で護衛をつけること”」
「文言が硬いが、趣旨はその通りだ。君の自由を守るための取り決めだ」
「“家政に関しては妻の裁量に委ねる。夫は必要とあれば助力を惜しまない”」
「惜しまない」
彼は同じ言葉を繰り返し、インクの乗りを確かめるようにペンを指で転がした。私は唇の内側を噛み、もう一枚の紙に目を落とす。
「“期間は一年。双方の合意により延長可。――ただし、期間満了前であっても、妻が希望すれば契約の解消を妨げない”」
「囚われでは困る。休息に期限は要るが、出口もなくてはならない」
言葉は冷静なのに、その芯に触れると温度がある。私はペン先で余白を指し、小さく口を開いた。
「……一つ、追補の希望があります」
「言ってくれ」
「“妻が学びを希望する場合、費用を惜しまない”とありますが、条件の主語を“妻”ではなく“双方”に……。私にも、あなたの仕事を学ばせてください。あなたの世界を少しでも理解したい」
アルベルトの灰色の瞳が、わずかに笑ったように見えた。机上のベルを鳴らし、執務用の紙束が運ばれてくる。
「追補を作ろう。――“双方が互いの業務と生活を理解するための学びを支援する”」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。必要なことを必要な形にするだけだ」
インク壺にペン先を沈め、私は震えないように注意しながら署名欄に名を書いた。レイナ――今もまだ私の名前だ。最後の文字を引くと、胸の奥で何かが音を立ててほどけた。アルベルトも静かに署名し、印章を押す。蜜蝋が香り、赤い封蝋が光を含む。
「次は公証だ。王都の記録院へ向かう。形式は簡素にする」
「はい」
ペンを置いた指先はまだインクの匂いを纏っている。私は吸い取り紙で軽く押さえ、浅く息を吐いた。窓の外では雨上がりの空がうっすらと青みを取り戻し、庭木の葉に残る水滴が朝の光を細かな粒に変えている。
執事が上着を差し出す。アルベルトは私の肩に軽く外套を掛け、出入口で一瞬だけ動きを止めた。
「緊張しているか」
「少しだけ」
「ならば、わたしが隣にいる。――それで足りなければ、呼び鈴を」
私は小さく笑い、頷いて足を踏み出した。邸の扉が静かに開き、朝の空気が頬を撫でる。濡れた石畳はもう冷たくない。私たちは並んで玄関階段を降り、門へと歩いた。馬車の扉が開き、私が乗り込むと、窓の外の庭がゆっくりと流れていった。
△
馬車は王都の石畳をゆるやかに進み、窓の外には朝の市場が広がっていた。濡れた路地から立ちのぼる蒸気の匂い、行き交う人々の声が遠くに響く。私は緊張で掌に汗をにじませ、膝の上で指を組む。隣に座るアルベルトは一冊の書簡を読み、赤い紐で束ねると静かに私へ視線を向けた。
「怯えることはない。これは形式だ。君を縛るものではない」
声は低く穏やかで、馬車の揺れに合わせるように一定のリズムを刻む。私はこくりと頷き、胸の奥のざわめきを必死に抑え込んだ。
記録院の建物は、白い大理石と高い円柱で出来ていた。玄関の扉が重々しく開き、内部は紙とインクの匂いで満ちている。並ぶ机の上で書記官たちが羽ペンを走らせ、蝋燭の炎が揺れていた。私の心臓は早鐘を打ち、息を整えようとしても浅くなるばかりだった。
「こちらへ」
案内された小部屋には木製の机と椅子、そして公証官が控えていた。灰色の髭を蓄えた老紳士で、分厚い眼鏡越しに書面を読み上げる。
「契約婚、期間一年。生活保障、自由の尊重、双方の学びの支援――追補確認済み。双方に異存は?」
「ありません」
アルベルトが先に答え、次に私へ視線を向けた。私は唇を湿らせ、小さく首を振る。
「異存は……ありません」
声が震えたが、公証官は眉を動かさず、印章を赤い蝋の上に押した。刻まれた紋章が固まる瞬間、部屋の空気がひときわ重く響いた。
外に出ると、強い日差しが石畳を白く照らしていた。雨雲はすっかり去り、青空が広がっている。私は目を細め、呼吸を深く吸い込んだ。胸に残る重さと同時に、解き放たれたような感覚が広がっていく。
「終わった」
アルベルトが私の横に立ち、短く告げる。その言葉に重みはあるが、不思議と安堵を与える響きだった。
「これで……私はあなたの妻に?」
「形式上は。だが形式は、人の目と法を変える。君はもう、誰からも“邪魔者”と呼ばせない」
歩き出した足元、濡れた石畳が乾き始め、光を返している。私は裾をつまみながら並んで歩き、横顔を盗み見る。灰色の瞳は前を向き、揺らぐことなく進んでいた。その背中に寄り添うように、私も一歩を重ねる。
「……ありがとうございます」
ようやく出た声は、風にかき消されそうに小さかった。だがアルベルトは微かに口元を緩め、低く答えた。
「礼は不要だ。これからは“当然”になる」
馬車に戻ると、執事がすぐにドアを閉め、車輪が静かに動き出した。外のざわめきが遠ざかり、車内に穏やかな沈黙が落ちる。私の手の上には、まだ署名のときに感じたインクの匂いが残っていた。胸の奥に芽生えた不安と安堵が交じり合い、次に訪れる日々の重みを予感させる。私は目を伏せ、指先を組み直した。
◇
馬車が石畳を離れ、再び高台の邸宅へ向かう道を辿る。窓の外では市場の喧騒が遠のき、やがて緑に囲まれた静けさが戻ってきた。私は座席に沈みながら、胸の奥で小さく息を吐く。署名を終えたときの蝋の匂い、赤い印章の色、それが今も瞼の裏に焼き付いている。
「緊張はまだ抜けないか」
アルベルトが視線を向けてくる。私は戸惑い、少しだけ笑った。
「はい。でも……妙に、肩が軽くなった気もします」
「当然だ。背負うものを整理したのだから」
邸に戻ると、玄関ホールで執事とメイドたちが迎えた。彼らは自然に私を「奥様」と呼び、その響きに心臓が跳ねる。私は返事に迷いながらも、唇に小さな笑みを浮かべて頷いた。アルベルトは外套を脱ぎ、私の肩に軽く手を添えて歩みを導く。視線が周囲の全てを把握しつつも、私を中心に据えているのがわかる。
昼食の卓には彩り豊かな料理が並び、私は思わず目を瞬かせた。スープから立ちのぼる湯気、柔らかいパンの香り、どれも私の知る食卓より温かい。フォークを取ろうとしたとき、アルベルトがさりげなく皿をこちらへ寄せる。
「食べやすい位置に。細かいことだが、これからはこういう調整を忘れない」
「……気遣いに慣れていなくて」
「慣れるまででいい。慣れれば、“当たり前”になる」
その声音は穏やかで、強制ではなく確信だった。私は頬に熱を覚え、視線を皿へ落とした。
午後は書庫で静かに時を過ごす。アルベルトは政務の文書を広げ、私は棚から選んだ歴史書を膝に置く。紙の擦れる音と羽ペンの走る音が、同じ部屋で混じり合う。互いに言葉を交わさなくても、不思議と孤独ではなかった。ふと顔を上げれば、彼は眼鏡越しに視線を滑らせ、静かに頷いてくれる。その小さな仕草が胸を温める。
やがて夕刻、窓辺の空が茜色に染まった頃、アルベルトはペンを置き、私の方へ身体を向けた。
「これで、形式上も実際も、君はわたしの妻だ。――契約婚という名目でも、わたしにとってはそれ以上だ」
「それ以上……?」
「言葉の意味は、これから共に過ごす日々で伝わる」
彼の灰色の瞳が、燃える夕陽を受けて淡く光る。その眼差しを正面から受け止め、胸が強く鳴った。
夜。窓の外に星々が瞬き始め、昼の緊張が少しずつ溶けていく。私は客間に戻り、机の上に置いた銀の呼び鈴を指先で撫でた。もう震えではなく、確かめるように。隣の部屋で低く書類を閉じる音がした。それだけで安心できる。
布団に身を沈めながら、私は思った。契約という形で始まったはずの婚姻が、私の未来を大きく変えようとしている――と。
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夜が薄まり、雨の跡が石畳に冷たい艶を残していた。客間のカーテン越しに差す朝の光は柔らかく、暖炉の灰は白く沈んでいる。目を覚ました私は、指先に金属の微かな冷たさを感じた。いつの間にか握ったままだった銀の呼び鈴を掌で包み、深く息を吐く。あの静かな声と、ランプの薄明かり、低く朗読する気配が胸の奥で静かに揺れていた。
ドアが二度、控えめに叩かれる。私は姿勢を整えて返事をした。執事が朝食の用意を告げると、続いて現れたメイド頭が衣裳を選ぶ手助けを申し出る。押し付けがましさはなく、必要なものを必要なだけ差し出す距離感が心地よい。私は髪をまとめ、薄いクリーム色のワンピースに袖を通した。鏡に映る自分は、昨夜よりわずかに血色が良い。
食堂には、窓辺に朝の光が溜まっていた。白いテーブルクロスに銀器が整然と置かれ、湯気の立つポットの横にはバターと蜂蜜、薄切りの林檎。アルベルトは既に席にいて、書簡を一通読み終えると封を戻し、私に穏やかに頷いた。
「おはよう」
「おはようございます」
声を交わすだけで、空気が落ち着くのがわかる。彼はパンを取り分け、蜂蜜を薄く流し、湯気の立つ紅茶をちょうどよい温度まで待ってからカップを差し出した。
「昨夜は眠れたか」
「はい……おかげさまで」
「それならよかった」
食事の手際は迷いがなく、使うナイフの角度すら美しい。けれど見せつける気配はなく、必要な動きが必要な分だけ重なっていく。私はカップを口に運びながら、胸の奥で固まった部分が少しずつほどけるのを感じていた。
「本題に入ろう」
アルベルトはナプキンを畳み、視線で私に問うた。昨夜の封筒――婚姻契約。私はうなずき、腹の底に沈む不安の輪郭を確かめる。
「……読ませてください。もう一度」
「書庫へ行こう。静かだ」
食後、私たちは書庫に移った。壁一面の背の高い書棚、梯子に積もる微かな埃の香り。窓からの光は紙の上で柔らかく広がる。机には封筒と、すでに用意された公証の定型文、そして空白の署名欄。
「条項を確認してほしい。気になる点は、ここで全て直す」
「……“外出の自由は妻が自らの判断に基づいて行使できる。宰相府の都合で干渉しない。但し危険が予見される場合、双方協議の上で護衛をつけること”」
「文言が硬いが、趣旨はその通りだ。君の自由を守るための取り決めだ」
「“家政に関しては妻の裁量に委ねる。夫は必要とあれば助力を惜しまない”」
「惜しまない」
彼は同じ言葉を繰り返し、インクの乗りを確かめるようにペンを指で転がした。私は唇の内側を噛み、もう一枚の紙に目を落とす。
「“期間は一年。双方の合意により延長可。――ただし、期間満了前であっても、妻が希望すれば契約の解消を妨げない”」
「囚われでは困る。休息に期限は要るが、出口もなくてはならない」
言葉は冷静なのに、その芯に触れると温度がある。私はペン先で余白を指し、小さく口を開いた。
「……一つ、追補の希望があります」
「言ってくれ」
「“妻が学びを希望する場合、費用を惜しまない”とありますが、条件の主語を“妻”ではなく“双方”に……。私にも、あなたの仕事を学ばせてください。あなたの世界を少しでも理解したい」
アルベルトの灰色の瞳が、わずかに笑ったように見えた。机上のベルを鳴らし、執務用の紙束が運ばれてくる。
「追補を作ろう。――“双方が互いの業務と生活を理解するための学びを支援する”」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。必要なことを必要な形にするだけだ」
インク壺にペン先を沈め、私は震えないように注意しながら署名欄に名を書いた。レイナ――今もまだ私の名前だ。最後の文字を引くと、胸の奥で何かが音を立ててほどけた。アルベルトも静かに署名し、印章を押す。蜜蝋が香り、赤い封蝋が光を含む。
「次は公証だ。王都の記録院へ向かう。形式は簡素にする」
「はい」
ペンを置いた指先はまだインクの匂いを纏っている。私は吸い取り紙で軽く押さえ、浅く息を吐いた。窓の外では雨上がりの空がうっすらと青みを取り戻し、庭木の葉に残る水滴が朝の光を細かな粒に変えている。
執事が上着を差し出す。アルベルトは私の肩に軽く外套を掛け、出入口で一瞬だけ動きを止めた。
「緊張しているか」
「少しだけ」
「ならば、わたしが隣にいる。――それで足りなければ、呼び鈴を」
私は小さく笑い、頷いて足を踏み出した。邸の扉が静かに開き、朝の空気が頬を撫でる。濡れた石畳はもう冷たくない。私たちは並んで玄関階段を降り、門へと歩いた。馬車の扉が開き、私が乗り込むと、窓の外の庭がゆっくりと流れていった。
△
馬車は王都の石畳をゆるやかに進み、窓の外には朝の市場が広がっていた。濡れた路地から立ちのぼる蒸気の匂い、行き交う人々の声が遠くに響く。私は緊張で掌に汗をにじませ、膝の上で指を組む。隣に座るアルベルトは一冊の書簡を読み、赤い紐で束ねると静かに私へ視線を向けた。
「怯えることはない。これは形式だ。君を縛るものではない」
声は低く穏やかで、馬車の揺れに合わせるように一定のリズムを刻む。私はこくりと頷き、胸の奥のざわめきを必死に抑え込んだ。
記録院の建物は、白い大理石と高い円柱で出来ていた。玄関の扉が重々しく開き、内部は紙とインクの匂いで満ちている。並ぶ机の上で書記官たちが羽ペンを走らせ、蝋燭の炎が揺れていた。私の心臓は早鐘を打ち、息を整えようとしても浅くなるばかりだった。
「こちらへ」
案内された小部屋には木製の机と椅子、そして公証官が控えていた。灰色の髭を蓄えた老紳士で、分厚い眼鏡越しに書面を読み上げる。
「契約婚、期間一年。生活保障、自由の尊重、双方の学びの支援――追補確認済み。双方に異存は?」
「ありません」
アルベルトが先に答え、次に私へ視線を向けた。私は唇を湿らせ、小さく首を振る。
「異存は……ありません」
声が震えたが、公証官は眉を動かさず、印章を赤い蝋の上に押した。刻まれた紋章が固まる瞬間、部屋の空気がひときわ重く響いた。
外に出ると、強い日差しが石畳を白く照らしていた。雨雲はすっかり去り、青空が広がっている。私は目を細め、呼吸を深く吸い込んだ。胸に残る重さと同時に、解き放たれたような感覚が広がっていく。
「終わった」
アルベルトが私の横に立ち、短く告げる。その言葉に重みはあるが、不思議と安堵を与える響きだった。
「これで……私はあなたの妻に?」
「形式上は。だが形式は、人の目と法を変える。君はもう、誰からも“邪魔者”と呼ばせない」
歩き出した足元、濡れた石畳が乾き始め、光を返している。私は裾をつまみながら並んで歩き、横顔を盗み見る。灰色の瞳は前を向き、揺らぐことなく進んでいた。その背中に寄り添うように、私も一歩を重ねる。
「……ありがとうございます」
ようやく出た声は、風にかき消されそうに小さかった。だがアルベルトは微かに口元を緩め、低く答えた。
「礼は不要だ。これからは“当然”になる」
馬車に戻ると、執事がすぐにドアを閉め、車輪が静かに動き出した。外のざわめきが遠ざかり、車内に穏やかな沈黙が落ちる。私の手の上には、まだ署名のときに感じたインクの匂いが残っていた。胸の奥に芽生えた不安と安堵が交じり合い、次に訪れる日々の重みを予感させる。私は目を伏せ、指先を組み直した。
◇
馬車が石畳を離れ、再び高台の邸宅へ向かう道を辿る。窓の外では市場の喧騒が遠のき、やがて緑に囲まれた静けさが戻ってきた。私は座席に沈みながら、胸の奥で小さく息を吐く。署名を終えたときの蝋の匂い、赤い印章の色、それが今も瞼の裏に焼き付いている。
「緊張はまだ抜けないか」
アルベルトが視線を向けてくる。私は戸惑い、少しだけ笑った。
「はい。でも……妙に、肩が軽くなった気もします」
「当然だ。背負うものを整理したのだから」
邸に戻ると、玄関ホールで執事とメイドたちが迎えた。彼らは自然に私を「奥様」と呼び、その響きに心臓が跳ねる。私は返事に迷いながらも、唇に小さな笑みを浮かべて頷いた。アルベルトは外套を脱ぎ、私の肩に軽く手を添えて歩みを導く。視線が周囲の全てを把握しつつも、私を中心に据えているのがわかる。
昼食の卓には彩り豊かな料理が並び、私は思わず目を瞬かせた。スープから立ちのぼる湯気、柔らかいパンの香り、どれも私の知る食卓より温かい。フォークを取ろうとしたとき、アルベルトがさりげなく皿をこちらへ寄せる。
「食べやすい位置に。細かいことだが、これからはこういう調整を忘れない」
「……気遣いに慣れていなくて」
「慣れるまででいい。慣れれば、“当たり前”になる」
その声音は穏やかで、強制ではなく確信だった。私は頬に熱を覚え、視線を皿へ落とした。
午後は書庫で静かに時を過ごす。アルベルトは政務の文書を広げ、私は棚から選んだ歴史書を膝に置く。紙の擦れる音と羽ペンの走る音が、同じ部屋で混じり合う。互いに言葉を交わさなくても、不思議と孤独ではなかった。ふと顔を上げれば、彼は眼鏡越しに視線を滑らせ、静かに頷いてくれる。その小さな仕草が胸を温める。
やがて夕刻、窓辺の空が茜色に染まった頃、アルベルトはペンを置き、私の方へ身体を向けた。
「これで、形式上も実際も、君はわたしの妻だ。――契約婚という名目でも、わたしにとってはそれ以上だ」
「それ以上……?」
「言葉の意味は、これから共に過ごす日々で伝わる」
彼の灰色の瞳が、燃える夕陽を受けて淡く光る。その眼差しを正面から受け止め、胸が強く鳴った。
夜。窓の外に星々が瞬き始め、昼の緊張が少しずつ溶けていく。私は客間に戻り、机の上に置いた銀の呼び鈴を指先で撫でた。もう震えではなく、確かめるように。隣の部屋で低く書類を閉じる音がした。それだけで安心できる。
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