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第1話 追放の日、雨の門前で
〇
雨の匂いは、いつだって嫌な記憶を連れてくる。ぬかるんだ石畳の上で私のトランクは何度も滑り、ついに古びた留め金が外れて衣類が濡れた地面に散らばった。門の向こう、実家のアーチには家紋が光っている。私が生まれてからずっと見上げてきた紋章なのに、今はただ冷たい金属の塊にしか見えない。
「……拾っていきなさい。門番の手は借りないように」
上段のテラスから、姉の細く尖った声が降ってくる。いつもと同じ甘い香水の匂いすら雨に薄められ、嫌味だけが残った。私は答えず、泥を払って靴下を鞄にねじ込む。息を吸うたび胸の奥が痛むのは、寒さのせいだけではない。
「母上は?」
「あなたに会う顔はないそうよ。――いえ、違うわね。会う必要がない、だったかしら」
見下ろす姉は扇子の影に口元を隠し、愉快そうに目だけを笑わせた。彼女の背後で、元婚約者の男が飽いた獲物を見るみたいに私を眺める。白い手袋が雨を弾き、まるで汚れを恐れているみたいだ。
「レイナ、君はここまでだ。家のためだ。理解してくれるね?」
理解、という言葉はいつだって加害者のために使われる。私は濡れた睫毛を上げ、最期くらいは真正面から彼らを見た。
「……お幸せに」
言葉は簡単に吐き出せたのに、それが唇を離れた瞬間、喉の奧に刺が残る。私はトランクを抱えなおし、背を向けた。門が重く閉まる金属音が、雨の音よりはっきりと響いた。門前の通りは薄暗く、人通りもない。世界の色が急に減ったみたいで、私だけが取り残されたような心地がした。
立ち尽くす私の前で、一台の黒い四輪馬車が音もなく止まった。艶やかな黒塗り、雨粒が滑るたびに淡い光を返す。御者台の男が素早く跳び降り、恭しく扉を開けると、濃いグレーの外套を肩にかけた長身の男が現れた。
彼は一言も発さないまま、私の頭上に影を落とす。次の瞬間、深い群青の傘がひらき、乾いた空気がふわりと降ってきた。
「濡れる理由はない」
低い声が、雨の膜を破った。私は反射的に顔を上げ、その瞳の色に息を呑む。鋼のような灰色――けれど、冷たさだけではない、どこか温度のある眼差し。
「荷物を」
「い、いえ、自分で持てます」
「手はかじかんでいる」
彼の視線が私の指先に落ちる。確かに、雨に打たれて感覚が鈍い。私は抵抗する言葉を失い、トランクを差し出した。彼は重さを確かめるみたいに一瞬だけ手首を傾け、それを御者に預ける。
「ここで話すことではない。――乗りなさい」
命令形なのに、不思議と逆らえない響きだった。私は頷き、差し出された手に触れる。温かい。雨の冷たさが皮膚からゆっくりと退いていく。
馬車の中は、乾いた木と革の匂いがした。座席は柔らかく、背に預けると身体中の緊張が少しだけ解ける。男は私の向かいに腰を下ろし、傘を閉じると御者台に短い合図を送った。車輪が滑らかに動き出し、実家の門が後ろへ遠ざかる。
「……あなたは」
「アルベルト・フォン・グラウゼン。王国宰相だ」
宰相――この国の頭脳。噂では冷徹無比、氷の計算機。けれど今、私の前に座る男は、冷たいどころか静かな暖かさを纏っている。
「レイナ・アーデル。……でした。今日で、もう」
「名は急に消えない。とりあえず、温かいものを」
呼び鈴を押すと、壁面の小窓から蒸気の立つカップが差し出された。私は両手で受け取り、白い息と一緒に小さな声が漏れる。
「ありがとうございます」
彼は一枚の封筒を取り出し、短く言った。
「提案がある。婚姻契約だ」
私はカップを持つ手を固くした。温度が急にわからなくなる。
「……聞かせてください」
△
馬車は雨幕の中を滑るように進み、やがて石畳の音が変わる。窓の外、街並みが低い灰色から灯りの多い地区へと移り変わっていく。室内には柔らかな揺れとホイップの泡のような静けさが満ち、私は宰相の差し出した封筒に視線を落とした。
「条件は三つ」
アルベルト――宰相は指を三本立てた。
「第一に、公的な場において君をわたしの正妻として扱う。これは形式ではなく、扱いそのものだ。君の尊厳は王国法により保護される」
「……正妻」
「第二に、生活基盤。邸宅、衣食、教育、自由時間、外出の権利。監督はしない。必要があれば家庭教師や師を雇う。君が選べ」
「監督、しない……?」
「第三に、期間は一年。互いの合意で延長可。――表向きは政務の都合だが、真実を言えば、わたしは君に休息を与えたい」
最後の一文は、思いもよらない方向から胸に届く。休息、という単語を、私はいつから自分に与えていなかったのだろう。
「見返りとして私がすることは?」
「今言ったすべて。追加で、希望があれば追補する。見返りにわたしが求めるのは一つ。――今夜、雨の中で震えていた君に、屋根を許してほしい」
宰相の灰色の瞳が、私だけを見る。そこに打算の影がないのが、むしろ怖い。私は深呼吸し、封筒から書面を引き抜いた。公証文の定型に、私の名前の欄が空白で待っている。
「……どうして私なのですか」
「噂は当てにならない。門の内側の声も。わたしは自分で見る」
彼の視線が、濡れた裾から覗く擦り傷に落ちる。私は膝を寄せ、布を握りしめた。恥ずかしさではなく、誰かに見てほしかった気持ちが、身体の奥で微かに震える。
「すぐに返答できません」
「そう言うと思っていた」
宰相は呼び鈴を押し、別の小箱を受け取る。羊皮紙の上に置かれたのは、小さな銀の呼び鈴だった。
「夜、眠れない時はこれを鳴らしなさい。誰も来られないなら、わたしが行く」
馬車が緩やかに止まり、扉が開く。そこには街の中心から少し離れた高台、濃緑の庭に囲まれた邸宅が広がっていた。玄関ポーチの明かりが雨粒を白く浮かばせ、扉が開くと暖かい空気が流れ出す。
「ようこそ、お帰りなさいませ」
年配の執事が深々と頭を下げ、私に柔らかなタオルを差し出した。女子の使用人が慣れた手つきで外套を取る。驚くほど自然に、誰も私をお飾り扱いしない。
「レイナ様、足元を。暖炉の前へどうぞ」
“レイナ様”。その呼び方に、胸の内側がじんわりと温かくなる。私は促されるまま暖炉の前の椅子に腰掛け、指先を火にかざした。
しばらくして、宰相が自ら盆を持って現れた。銀の盆に載っているのは、ハーブの湯気と蜂蜜の匂いをまとったティーポットと、薄く焼かれたバターの香りのビスケット。
「使用人に任せれば――」
「君に渡すのはわたしの役目だ」
反論の余地がない声なのに、不思議と押し付けがましくない。彼はティーカップを傾け、ちょうどよい温度になるまで待ってから私に手渡した。
「熱すぎないうちに」
「……ありがとうございます」
唇が縁に触れた瞬間、私の中の緊張が少しほどける。味がどうこうではなく、丁寧に誰かが用意してくれたという事実が、身体に沁みた。
「今日は客間を使いなさい。――書庫も、庭も、台所も、君のものだ。禁止はない」
「禁止が、ない?」
「危険だけ避ければよい。危険はわたしが先に潰す」
軽く言うが、その言葉は重い。私は手の中の呼び鈴を見た。小さな銀の輪に指を通すと、まるで指に馴染むように収まる。
「一晩、考えます」
「それでいい」
宰相は短く頷き、立ち上がる。扉に向かう彼の背中は高く、広い。私が座る椅子に影がかかった一瞬、彼は振り返らず、ひと言だけ落とした。
「濡れた理由は、もうない」
◇
夜は不意に深くなる。暖炉の火は小さくなり、寝室へ移ってからも窓の外の雨音は止まなかった。天蓋の淡い布越しにゆらぐ影を眺めていると、まぶたは重いのに意識だけが冴えていく。考えたいのに、考えたくない。今日一日の出来事は多すぎて、心はまだ追いつけていない。
枕元には銀の呼び鈴。私は布団の中で膝を抱え、指先で鈴の輪を撫でた。鳴らせば来る、と言われた。誰かが来るだけの話なのに、その約束が胸の奥で灯りをともす。私は呼吸を整え、意を決して小さく振る。
ちり――ん。
控えめな音はすぐに雨音に飲み込まれたと思ったが、ほどなくして扉が二度、静かに叩かれた。
「起きているか」
扉越しの声は低く、夜の温度を壊さない。私は「どうぞ」と言う代わりに、立ち上がって扉を少し開けた。
「すみません。眠れなくて」
「謝ることではない」
彼は部屋に入ると、明かりを上げすぎないよう指でランプを調節した。眩しくない光が天蓋の布に淡い金色を流す。
「温かいものを。……それとも、静かに座っている方がいいか」
「静かに、いてください」
自分で言って、頬が熱くなる。彼は椅子をベッドの近くに寄せ、距離を取りながら腰を下ろした。その沈黙は、気まずさではなく余白だった。雨のリズムと呼吸がゆっくり合っていく。
「本を少し読もう。声を落として」
彼はポケットから薄い詩集を取り出し、ページを静かにめくった。低い声は暖炉の残り火のようで、言葉が柔らかく部屋を満たしていく。私は天蓋の向こうの影を眺め、言葉が意味を持たないほど遠くなるのを待つ。まぶたが落ち、また持ち上がる。
「眠くなってきました」
「よかった」
「……隣にいてもらえますか。少しだけ」
自分でも驚くほど素直に頼んでいた。宰相は一瞬だけ黙し、それから椅子をもう少し近づけた。ベッドの端に腰かける代わりに、私は彼の外套の裾だけを指先で摘む。布の手触りを確かめるように、そっと。
「ここにいる。鈴がなくても」
その言葉が、布団の内側の冷えを追い出していく。まぶたはもう持ち上がらなかった。
どれくらい眠ったのだろう。雨音は細くなり、窓の外の黒が少しだけ薄まっている。目を開けると、椅子に凭れた宰相が外套を畳んで膝に置き、浅い呼吸で目を閉じていた。寝てはいない、けれど眠りに最も近い静けさ。私はそっと手を離し、身を起こす。
そのとき、玄関のほうから微かな物音――金属が擦れる音が、夜の底を裂いた。私は息を止め、耳を澄ます。次の瞬間、宰相の瞼が音もなく上がる。灰色の瞳が夜の気配を捉え、椅子の脚が床を鳴らさないように立ち上がった。
「ここで待て」
囁きは刃のように鋭いが、私の肩に触れた手は優しい。彼はランプの灯りをさらに落とし、扉の前で一度だけ振り返る。
私は頷いた。胸の鼓動が雨音の残り滓に混じる。彼の背が闇に溶け、足音も残さずに消えていく。代わりに、邸の奥から低い命令の声と、布の擦れる気配が幾つも生まれた。
――濡れた理由は、もうない。
彼の言葉が、今度は別の意味で胸に灯る。私は毛布を肩に引き寄せ、銀の呼び鈴に指を掛けた。鳴らさないまま、ただ握っている。遠くで短い衝突の音がして、すぐに静寂が戻った。やがて扉がノックされ、今度は執事の落ち着いた声がした。
「レイナ様、ご安心を。宰相閣下より、『もう大丈夫だ』とのお言葉をお預かりしております」
私はそっと息を吐いた。雨がやむ。夜は、朝に向かって静かに色を変え始めていた。
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雨の匂いは、いつだって嫌な記憶を連れてくる。ぬかるんだ石畳の上で私のトランクは何度も滑り、ついに古びた留め金が外れて衣類が濡れた地面に散らばった。門の向こう、実家のアーチには家紋が光っている。私が生まれてからずっと見上げてきた紋章なのに、今はただ冷たい金属の塊にしか見えない。
「……拾っていきなさい。門番の手は借りないように」
上段のテラスから、姉の細く尖った声が降ってくる。いつもと同じ甘い香水の匂いすら雨に薄められ、嫌味だけが残った。私は答えず、泥を払って靴下を鞄にねじ込む。息を吸うたび胸の奥が痛むのは、寒さのせいだけではない。
「母上は?」
「あなたに会う顔はないそうよ。――いえ、違うわね。会う必要がない、だったかしら」
見下ろす姉は扇子の影に口元を隠し、愉快そうに目だけを笑わせた。彼女の背後で、元婚約者の男が飽いた獲物を見るみたいに私を眺める。白い手袋が雨を弾き、まるで汚れを恐れているみたいだ。
「レイナ、君はここまでだ。家のためだ。理解してくれるね?」
理解、という言葉はいつだって加害者のために使われる。私は濡れた睫毛を上げ、最期くらいは真正面から彼らを見た。
「……お幸せに」
言葉は簡単に吐き出せたのに、それが唇を離れた瞬間、喉の奧に刺が残る。私はトランクを抱えなおし、背を向けた。門が重く閉まる金属音が、雨の音よりはっきりと響いた。門前の通りは薄暗く、人通りもない。世界の色が急に減ったみたいで、私だけが取り残されたような心地がした。
立ち尽くす私の前で、一台の黒い四輪馬車が音もなく止まった。艶やかな黒塗り、雨粒が滑るたびに淡い光を返す。御者台の男が素早く跳び降り、恭しく扉を開けると、濃いグレーの外套を肩にかけた長身の男が現れた。
彼は一言も発さないまま、私の頭上に影を落とす。次の瞬間、深い群青の傘がひらき、乾いた空気がふわりと降ってきた。
「濡れる理由はない」
低い声が、雨の膜を破った。私は反射的に顔を上げ、その瞳の色に息を呑む。鋼のような灰色――けれど、冷たさだけではない、どこか温度のある眼差し。
「荷物を」
「い、いえ、自分で持てます」
「手はかじかんでいる」
彼の視線が私の指先に落ちる。確かに、雨に打たれて感覚が鈍い。私は抵抗する言葉を失い、トランクを差し出した。彼は重さを確かめるみたいに一瞬だけ手首を傾け、それを御者に預ける。
「ここで話すことではない。――乗りなさい」
命令形なのに、不思議と逆らえない響きだった。私は頷き、差し出された手に触れる。温かい。雨の冷たさが皮膚からゆっくりと退いていく。
馬車の中は、乾いた木と革の匂いがした。座席は柔らかく、背に預けると身体中の緊張が少しだけ解ける。男は私の向かいに腰を下ろし、傘を閉じると御者台に短い合図を送った。車輪が滑らかに動き出し、実家の門が後ろへ遠ざかる。
「……あなたは」
「アルベルト・フォン・グラウゼン。王国宰相だ」
宰相――この国の頭脳。噂では冷徹無比、氷の計算機。けれど今、私の前に座る男は、冷たいどころか静かな暖かさを纏っている。
「レイナ・アーデル。……でした。今日で、もう」
「名は急に消えない。とりあえず、温かいものを」
呼び鈴を押すと、壁面の小窓から蒸気の立つカップが差し出された。私は両手で受け取り、白い息と一緒に小さな声が漏れる。
「ありがとうございます」
彼は一枚の封筒を取り出し、短く言った。
「提案がある。婚姻契約だ」
私はカップを持つ手を固くした。温度が急にわからなくなる。
「……聞かせてください」
△
馬車は雨幕の中を滑るように進み、やがて石畳の音が変わる。窓の外、街並みが低い灰色から灯りの多い地区へと移り変わっていく。室内には柔らかな揺れとホイップの泡のような静けさが満ち、私は宰相の差し出した封筒に視線を落とした。
「条件は三つ」
アルベルト――宰相は指を三本立てた。
「第一に、公的な場において君をわたしの正妻として扱う。これは形式ではなく、扱いそのものだ。君の尊厳は王国法により保護される」
「……正妻」
「第二に、生活基盤。邸宅、衣食、教育、自由時間、外出の権利。監督はしない。必要があれば家庭教師や師を雇う。君が選べ」
「監督、しない……?」
「第三に、期間は一年。互いの合意で延長可。――表向きは政務の都合だが、真実を言えば、わたしは君に休息を与えたい」
最後の一文は、思いもよらない方向から胸に届く。休息、という単語を、私はいつから自分に与えていなかったのだろう。
「見返りとして私がすることは?」
「今言ったすべて。追加で、希望があれば追補する。見返りにわたしが求めるのは一つ。――今夜、雨の中で震えていた君に、屋根を許してほしい」
宰相の灰色の瞳が、私だけを見る。そこに打算の影がないのが、むしろ怖い。私は深呼吸し、封筒から書面を引き抜いた。公証文の定型に、私の名前の欄が空白で待っている。
「……どうして私なのですか」
「噂は当てにならない。門の内側の声も。わたしは自分で見る」
彼の視線が、濡れた裾から覗く擦り傷に落ちる。私は膝を寄せ、布を握りしめた。恥ずかしさではなく、誰かに見てほしかった気持ちが、身体の奥で微かに震える。
「すぐに返答できません」
「そう言うと思っていた」
宰相は呼び鈴を押し、別の小箱を受け取る。羊皮紙の上に置かれたのは、小さな銀の呼び鈴だった。
「夜、眠れない時はこれを鳴らしなさい。誰も来られないなら、わたしが行く」
馬車が緩やかに止まり、扉が開く。そこには街の中心から少し離れた高台、濃緑の庭に囲まれた邸宅が広がっていた。玄関ポーチの明かりが雨粒を白く浮かばせ、扉が開くと暖かい空気が流れ出す。
「ようこそ、お帰りなさいませ」
年配の執事が深々と頭を下げ、私に柔らかなタオルを差し出した。女子の使用人が慣れた手つきで外套を取る。驚くほど自然に、誰も私をお飾り扱いしない。
「レイナ様、足元を。暖炉の前へどうぞ」
“レイナ様”。その呼び方に、胸の内側がじんわりと温かくなる。私は促されるまま暖炉の前の椅子に腰掛け、指先を火にかざした。
しばらくして、宰相が自ら盆を持って現れた。銀の盆に載っているのは、ハーブの湯気と蜂蜜の匂いをまとったティーポットと、薄く焼かれたバターの香りのビスケット。
「使用人に任せれば――」
「君に渡すのはわたしの役目だ」
反論の余地がない声なのに、不思議と押し付けがましくない。彼はティーカップを傾け、ちょうどよい温度になるまで待ってから私に手渡した。
「熱すぎないうちに」
「……ありがとうございます」
唇が縁に触れた瞬間、私の中の緊張が少しほどける。味がどうこうではなく、丁寧に誰かが用意してくれたという事実が、身体に沁みた。
「今日は客間を使いなさい。――書庫も、庭も、台所も、君のものだ。禁止はない」
「禁止が、ない?」
「危険だけ避ければよい。危険はわたしが先に潰す」
軽く言うが、その言葉は重い。私は手の中の呼び鈴を見た。小さな銀の輪に指を通すと、まるで指に馴染むように収まる。
「一晩、考えます」
「それでいい」
宰相は短く頷き、立ち上がる。扉に向かう彼の背中は高く、広い。私が座る椅子に影がかかった一瞬、彼は振り返らず、ひと言だけ落とした。
「濡れた理由は、もうない」
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夜は不意に深くなる。暖炉の火は小さくなり、寝室へ移ってからも窓の外の雨音は止まなかった。天蓋の淡い布越しにゆらぐ影を眺めていると、まぶたは重いのに意識だけが冴えていく。考えたいのに、考えたくない。今日一日の出来事は多すぎて、心はまだ追いつけていない。
枕元には銀の呼び鈴。私は布団の中で膝を抱え、指先で鈴の輪を撫でた。鳴らせば来る、と言われた。誰かが来るだけの話なのに、その約束が胸の奥で灯りをともす。私は呼吸を整え、意を決して小さく振る。
ちり――ん。
控えめな音はすぐに雨音に飲み込まれたと思ったが、ほどなくして扉が二度、静かに叩かれた。
「起きているか」
扉越しの声は低く、夜の温度を壊さない。私は「どうぞ」と言う代わりに、立ち上がって扉を少し開けた。
「すみません。眠れなくて」
「謝ることではない」
彼は部屋に入ると、明かりを上げすぎないよう指でランプを調節した。眩しくない光が天蓋の布に淡い金色を流す。
「温かいものを。……それとも、静かに座っている方がいいか」
「静かに、いてください」
自分で言って、頬が熱くなる。彼は椅子をベッドの近くに寄せ、距離を取りながら腰を下ろした。その沈黙は、気まずさではなく余白だった。雨のリズムと呼吸がゆっくり合っていく。
「本を少し読もう。声を落として」
彼はポケットから薄い詩集を取り出し、ページを静かにめくった。低い声は暖炉の残り火のようで、言葉が柔らかく部屋を満たしていく。私は天蓋の向こうの影を眺め、言葉が意味を持たないほど遠くなるのを待つ。まぶたが落ち、また持ち上がる。
「眠くなってきました」
「よかった」
「……隣にいてもらえますか。少しだけ」
自分でも驚くほど素直に頼んでいた。宰相は一瞬だけ黙し、それから椅子をもう少し近づけた。ベッドの端に腰かける代わりに、私は彼の外套の裾だけを指先で摘む。布の手触りを確かめるように、そっと。
「ここにいる。鈴がなくても」
その言葉が、布団の内側の冷えを追い出していく。まぶたはもう持ち上がらなかった。
どれくらい眠ったのだろう。雨音は細くなり、窓の外の黒が少しだけ薄まっている。目を開けると、椅子に凭れた宰相が外套を畳んで膝に置き、浅い呼吸で目を閉じていた。寝てはいない、けれど眠りに最も近い静けさ。私はそっと手を離し、身を起こす。
そのとき、玄関のほうから微かな物音――金属が擦れる音が、夜の底を裂いた。私は息を止め、耳を澄ます。次の瞬間、宰相の瞼が音もなく上がる。灰色の瞳が夜の気配を捉え、椅子の脚が床を鳴らさないように立ち上がった。
「ここで待て」
囁きは刃のように鋭いが、私の肩に触れた手は優しい。彼はランプの灯りをさらに落とし、扉の前で一度だけ振り返る。
私は頷いた。胸の鼓動が雨音の残り滓に混じる。彼の背が闇に溶け、足音も残さずに消えていく。代わりに、邸の奥から低い命令の声と、布の擦れる気配が幾つも生まれた。
――濡れた理由は、もうない。
彼の言葉が、今度は別の意味で胸に灯る。私は毛布を肩に引き寄せ、銀の呼び鈴に指を掛けた。鳴らさないまま、ただ握っている。遠くで短い衝突の音がして、すぐに静寂が戻った。やがて扉がノックされ、今度は執事の落ち着いた声がした。
「レイナ様、ご安心を。宰相閣下より、『もう大丈夫だ』とのお言葉をお預かりしております」
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