家族から邪魔者扱いされた私が契約婚した宰相閣下、実は完璧すぎるスパダリでした。仕事も家事も甘やかしも全部こなしてきます

さら

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第9話 初めての口づけ未遂

 緊急の知らせがあった翌日、邸の中は普段よりも慌ただしかった。文官や使者が入れ替わり立ち替わり訪れ、書簡の束が机の上に積み重なる。私は廊下の隅からその様子を見つめ、彼の背中が疲れを見せぬまま筆を走らせる姿に圧倒されていた。

 午後、ようやく執務が一段落すると、アルベルトは私を庭へと誘った。高台から見下ろす街並みは、茜色に染まってゆく。涼しい風が吹き抜け、緑の葉を揺らすたびに日中のざわめきが洗い流されるようだった。
「緊張が解けただろう」
「はい。……こうして外に出ると、ようやく呼吸が深くなります」
 私は柵に手を置き、広がる景色に目を細めた。

 風に揺れる髪が頬にかかり、それを整えようとした瞬間、アルベルトの指が先に伸びた。
「動くな」
 低い声に従い、私は瞬きを止める。指先が頬をかすめ、乱れた髪を耳に掛ける。その仕草の一つ一つが、私の鼓動をかき立てた。
「……美しい」
 小さな囁きが、胸の奥に熱を走らせる。

 目が合った瞬間、時間が止まったように思えた。距離は近く、風に運ばれる彼の息遣いまで感じられる。心臓の音が耳の奥でうるさいほどに響き、逃げ場を失った私はただ見上げることしかできなかった。

 その瞬間、足音が廊下から響き、執事が声をかけた。
「閣下、急ぎの文が――」
 アルベルトは一瞬だけ瞳を細め、私から距離を取った。冷徹な仮面が瞬時に戻り、私は頬に残る熱を抱えたまま立ち尽くす。


 執事が去った後、庭に残された静寂は、先ほどまでの緊張を余計に濃くしていた。私は視線を逸らし、胸を押さえた。
「……危うく」
「契約を逸脱するところだった」
 アルベルトは柵に肘を置き、夕陽を背にして低く言った。声は冷静だが、わずかに滲む熱が耳に残る。

「嫌では……ありませんでした」
 勇気を振り絞って告げると、彼の灰色の瞳が一瞬揺らいだ。だがすぐに冷徹さを取り戻し、短く答える。
「そうであっても、今はまだ契約だ」
 その割り切りの強さに、私は胸を掴まれるような感覚を覚えた。

 沈黙の中、風が二人の間を通り抜ける。私は布の裾を握りしめ、視線を下ろした。契約婚――そう、これは形式。けれど、心はもう形式を超え始めているのではないか。

「……私たちは、どこまでを契約と呼べばいいのでしょう」
 問いかけは自分自身へのものでもあった。アルベルトは答えず、ただ私の横顔を見つめた。視線の重さに耐えられず、私は歩き出す。彼は何も言わず、ただ静かに後をついてきた。


 夜、寝室の窓から見える星はどれも瞬き、冷たい空に散らばっていた。私はベッドに腰を下ろし、今日の出来事を反芻していた。頬に触れた指先の感触、唇に近づいた気配――。心臓はまだ落ち着かず、呼び鈴を握る手が汗ばんでいる。

 扉の向こうから気配がした。ノックの音はなく、ただ足音が立ち止まる。しばしの静寂の後、低い声が響いた。
「休め。……君の眠りを妨げるつもりはない」
 去っていく足音に、私は布団を強く握りしめた。

 唇に触れそうで触れなかった距離。それが余計に胸を熱くさせる。契約――その言葉が私を縛りながらも、心は自由に彼を求めていた。

 蝋燭を吹き消すと、闇の中で鼓動だけがやけに大きく響く。眠りに落ちるまで、あの未遂の瞬間が何度も脳裏に蘇り、私の胸を揺らし続けた。
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