8 / 30
8
第8話 眠れない夜②――子守歌と抱き枕問題
〇
街歩きの翌日、私は不思議なほど静かな疲労を感じていた。恐怖を味わったはずなのに、胸の奥に残っているのは不安ではなく、アルベルトの言葉と手の温もりだった。けれど夜が訪れると、再び眠りは浅く、天蓋の下で目を閉じても意識だけが冴えてしまう。
寝返りを繰り返しても眠気は訪れず、外の月光が床を淡く照らしている。呼び鈴を手に取るか迷いながら、私は布団の中で膝を抱えた。昨夜は鳴らさずに済んだけれど、今夜は胸の奥がざわついて落ち着かない。
控えめなノックの音がした。
「……起きているな」
声の主はやはり彼だった。私は慌てて布団から身を起こし、扉を開ける。
「すみません。うるさかったでしょうか」
「足音でわかる。落ち着かないのだろう」
彼はそう言うと、静かに部屋へ入ってきた。
窓辺に座った彼は、卓上のランプを調整して光を弱めた。蝋燭の炎が柔らかく揺れ、部屋は穏やかな色合いに包まれる。
「眠れぬ夜は珍しくない。だが、君は休息を取らねばならない」
「……わかっています。でも、身体が言うことを聞かなくて」
「ならば、別の手を試そう」
そう言って彼が差し出したのは、大きなクッションだった。
「抱き枕にしろ。腕が空であるよりも、安心できる」
「……宰相閣下がそんなことを?」
「理にかなっている」
その即答に思わず笑みが零れ、少しだけ胸の緊張がほどけた。
△
布団の中で大きなクッションを抱きしめると、確かに腕の空虚が満たされ、呼吸が落ち着いていく気がした。私は小さく息を吐き、横になったまま彼を見上げた。椅子に腰かける彼は詩集を開き、低い声で朗読を始める。
声は深い湖に波紋を描くようで、言葉の一つひとつが耳から胸へ沈んでいく。文字の意味はすぐに遠ざかり、残るのは穏やかな響きだけ。私は瞼を閉じ、耳を澄ませた。
「眠くなってきただろう」
「……ええ。でも、まだ少し」
「ならば、もう一編」
彼は本を閉じ、今度は声を落として口ずさむように歌った。知らない旋律なのに、不思議と懐かしさを覚える。静かな子守歌が夜の空気を満たし、胸のざわめきは波にさらわれるように薄れていった。
私は無意識に手を伸ばし、彼の袖を掴んでいた。驚いて顔を上げると、彼は表情を変えずに視線を落とす。
「……離した方がいいですか」
「いい。君が落ち着くなら」
その許しの一言に、心がほどける。私は袖を握ったまま、瞼を閉じた。
◇
どれほど眠っただろう。夢の縁で目を覚ますと、窓の外は淡い朝の光を帯び始めていた。椅子に座るアルベルトの姿が視界に映る。外套を膝にかけ、浅い呼吸を保ったまま、彼は眠っているようにも見えるし、ただ静かに目を閉じているだけのようにも見えた。
私は布団から身を起こし、握っていた袖をそっと離す。けれど胸の奥では、昨夜の子守歌がまだ響いている。まるで心臓の鼓動と一緒に溶け込んだように。
その時、扉を叩く音がした。執事の声が静かに告げる。
「閣下、緊急の知らせです」
アルベルトの瞼がすぐに開き、灰色の瞳が鋭さを取り戻した。彼は立ち上がり、外套を羽織って扉へ向かう。私を振り返り、一言だけ残す。
「休め。――大丈夫だ」
扉が閉まると、部屋には静けさだけが残った。私はクッションを抱きしめ、まだ残る温もりを胸に刻む。昨日の恐怖も、夜の不安も、彼の声と子守歌に包まれて遠ざかっていく。朝の光が広がる中、私はもう一度目を閉じ、深く息を吐いた。
〇
街歩きの翌日、私は不思議なほど静かな疲労を感じていた。恐怖を味わったはずなのに、胸の奥に残っているのは不安ではなく、アルベルトの言葉と手の温もりだった。けれど夜が訪れると、再び眠りは浅く、天蓋の下で目を閉じても意識だけが冴えてしまう。
寝返りを繰り返しても眠気は訪れず、外の月光が床を淡く照らしている。呼び鈴を手に取るか迷いながら、私は布団の中で膝を抱えた。昨夜は鳴らさずに済んだけれど、今夜は胸の奥がざわついて落ち着かない。
控えめなノックの音がした。
「……起きているな」
声の主はやはり彼だった。私は慌てて布団から身を起こし、扉を開ける。
「すみません。うるさかったでしょうか」
「足音でわかる。落ち着かないのだろう」
彼はそう言うと、静かに部屋へ入ってきた。
窓辺に座った彼は、卓上のランプを調整して光を弱めた。蝋燭の炎が柔らかく揺れ、部屋は穏やかな色合いに包まれる。
「眠れぬ夜は珍しくない。だが、君は休息を取らねばならない」
「……わかっています。でも、身体が言うことを聞かなくて」
「ならば、別の手を試そう」
そう言って彼が差し出したのは、大きなクッションだった。
「抱き枕にしろ。腕が空であるよりも、安心できる」
「……宰相閣下がそんなことを?」
「理にかなっている」
その即答に思わず笑みが零れ、少しだけ胸の緊張がほどけた。
△
布団の中で大きなクッションを抱きしめると、確かに腕の空虚が満たされ、呼吸が落ち着いていく気がした。私は小さく息を吐き、横になったまま彼を見上げた。椅子に腰かける彼は詩集を開き、低い声で朗読を始める。
声は深い湖に波紋を描くようで、言葉の一つひとつが耳から胸へ沈んでいく。文字の意味はすぐに遠ざかり、残るのは穏やかな響きだけ。私は瞼を閉じ、耳を澄ませた。
「眠くなってきただろう」
「……ええ。でも、まだ少し」
「ならば、もう一編」
彼は本を閉じ、今度は声を落として口ずさむように歌った。知らない旋律なのに、不思議と懐かしさを覚える。静かな子守歌が夜の空気を満たし、胸のざわめきは波にさらわれるように薄れていった。
私は無意識に手を伸ばし、彼の袖を掴んでいた。驚いて顔を上げると、彼は表情を変えずに視線を落とす。
「……離した方がいいですか」
「いい。君が落ち着くなら」
その許しの一言に、心がほどける。私は袖を握ったまま、瞼を閉じた。
◇
どれほど眠っただろう。夢の縁で目を覚ますと、窓の外は淡い朝の光を帯び始めていた。椅子に座るアルベルトの姿が視界に映る。外套を膝にかけ、浅い呼吸を保ったまま、彼は眠っているようにも見えるし、ただ静かに目を閉じているだけのようにも見えた。
私は布団から身を起こし、握っていた袖をそっと離す。けれど胸の奥では、昨夜の子守歌がまだ響いている。まるで心臓の鼓動と一緒に溶け込んだように。
その時、扉を叩く音がした。執事の声が静かに告げる。
「閣下、緊急の知らせです」
アルベルトの瞼がすぐに開き、灰色の瞳が鋭さを取り戻した。彼は立ち上がり、外套を羽織って扉へ向かう。私を振り返り、一言だけ残す。
「休め。――大丈夫だ」
扉が閉まると、部屋には静けさだけが残った。私はクッションを抱きしめ、まだ残る温もりを胸に刻む。昨日の恐怖も、夜の不安も、彼の声と子守歌に包まれて遠ざかっていく。朝の光が広がる中、私はもう一度目を閉じ、深く息を吐いた。
あなたにおすすめの小説
誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』
富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間――
目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。
そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。
一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。
選ばれる側から、選ぶ側へ。
これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。
婚約者を譲れと姉に「お願い」されました。代わりに軍人侯爵との結婚を押し付けられましたが、私は形だけの妻のようです。
ナナカ
恋愛
メリオス伯爵の次女エレナは、幼い頃から姉アルチーナに振り回されてきた。そんな姉に婚約者ロエルを譲れと言われる。さらに自分の代わりに結婚しろとまで言い出した。結婚相手は貴族たちが成り上がりと侮蔑する軍人侯爵。伯爵家との縁組が目的だからか、エレナに入れ替わった結婚も承諾する。
こうして、ほとんど顔を合わせることない別居生活が始まった。冷め切った関係になるかと思われたが、年の離れた侯爵はエレナに丁寧に接してくれるし、意外に優しい人。エレナも数少ない会話の機会が楽しみになっていく。
(本編、番外編、完結しました)
突然決められた婚約者は人気者だそうです。押し付けられたに違いないので断ってもらおうと思います。
橘ハルシ
恋愛
ごくごく普通の伯爵令嬢リーディアに、突然、降って湧いた婚約話。相手は、騎士団長の叔父の部下。侍女に聞くと、どうやら社交界で超人気の男性らしい。こんな釣り合わない相手、絶対に叔父が権力を使って、無理強いしたに違いない!
リーディアは相手に遠慮なく断ってくれるよう頼みに騎士団へ乗り込むが、両親も叔父も相手のことを教えてくれなかったため、全く知らない相手を一人で探す羽目になる。
怪しい変装をして、騎士団内をうろついていたリーディアは一人の青年と出会い、そのまま一緒に婚約者候補を探すことに。
しかしその青年といるうちに、リーディアは彼に好意を抱いてしまう。
全21話(本編20話+番外編1話)です。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
還俗令嬢のセカンドスローライフ
石田空
恋愛
「神殿にいたんだから大丈夫だろう。頑張れ」
「神殿育ちは万能調味料じゃありませんけど??」
幼い頃から、流行病が原因で顔に斑点があり、「嫁のもらい手はいないだろう」とシルヴィはそのまんま神殿に放り込まれていた。
そんな中、突然実家に呼び戻され、訳あり伯爵の元に嫁ぐように言われる。
呪われている土地だからとおそれられているため、姉は流行病(仮病)で別荘に籠城してしまい、神殿育ちなら大丈夫だろうと、そこに送られてしまうこととなった。
しかしそこの伯爵様のジルは、農民たちに混じって元気に田畑を耕している人だった。
「神殿出身だったら、なにやら特産品はつくれないかい?」
「ええっと……待っててくださいね……」
呪われている土地と呼ばれる謎と、町おこしで、彼女のセカンドライフはせわしない。
サイトより転載になります。
結婚相手が見つからないので家を出ます~気づけばなぜか麗しき公爵様の婚約者(仮)になっていました~
Na20
恋愛
私、レイラ・ハーストンは結婚適齢期である十八歳になっても婚約者がいない。積極的に婿探しをするも全戦全敗の日々。
これはもう仕方がない。
結婚相手が見つからないので家は弟に任せて、私は家を出ることにしよう。
私はある日見つけた求人を手に、遠く離れたキルシュタイン公爵領へと向かうことしたのだった。
※ご都合主義ですので軽い気持ちでさら~っとお読みください
※小説家になろう様でも掲載しています
婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される
さら
恋愛
婚約破棄された元伯爵令嬢クラリス。
慰謝料代わりに受け取った金で田舎の小さな土地を買い、農業を始めることに。泥にまみれて種を撒き、水をやり、必死に生きる日々。貴族の煌びやかな日々は失ったけれど、土と共に過ごす穏やかな時間が、彼女に新しい幸せをくれる――はずだった。
だがある日、畑に現れたのは野菜好きで有名な第三王子レオニール。
「この野菜は……他とは違う。僕は、あなたが欲しい」
そう言って真剣な瞳で求婚してきて!?
王妃も兄王子たちも立ちはだかる。
「身分違いの恋」なんて笑われても、二人の気持ちは揺るがない。荒れ地を畑に変えるように、愛もまた努力で実を結ぶのか――。
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中