家族から邪魔者扱いされた私が契約婚した宰相閣下、実は完璧すぎるスパダリでした。仕事も家事も甘やかしも全部こなしてきます

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第8話 眠れない夜②――子守歌と抱き枕問題

 街歩きの翌日、私は不思議なほど静かな疲労を感じていた。恐怖を味わったはずなのに、胸の奥に残っているのは不安ではなく、アルベルトの言葉と手の温もりだった。けれど夜が訪れると、再び眠りは浅く、天蓋の下で目を閉じても意識だけが冴えてしまう。

 寝返りを繰り返しても眠気は訪れず、外の月光が床を淡く照らしている。呼び鈴を手に取るか迷いながら、私は布団の中で膝を抱えた。昨夜は鳴らさずに済んだけれど、今夜は胸の奥がざわついて落ち着かない。

 控えめなノックの音がした。
「……起きているな」
 声の主はやはり彼だった。私は慌てて布団から身を起こし、扉を開ける。
「すみません。うるさかったでしょうか」
「足音でわかる。落ち着かないのだろう」
 彼はそう言うと、静かに部屋へ入ってきた。

 窓辺に座った彼は、卓上のランプを調整して光を弱めた。蝋燭の炎が柔らかく揺れ、部屋は穏やかな色合いに包まれる。
「眠れぬ夜は珍しくない。だが、君は休息を取らねばならない」
「……わかっています。でも、身体が言うことを聞かなくて」
「ならば、別の手を試そう」

 そう言って彼が差し出したのは、大きなクッションだった。
「抱き枕にしろ。腕が空であるよりも、安心できる」
「……宰相閣下がそんなことを?」
「理にかなっている」
 その即答に思わず笑みが零れ、少しだけ胸の緊張がほどけた。


 布団の中で大きなクッションを抱きしめると、確かに腕の空虚が満たされ、呼吸が落ち着いていく気がした。私は小さく息を吐き、横になったまま彼を見上げた。椅子に腰かける彼は詩集を開き、低い声で朗読を始める。

 声は深い湖に波紋を描くようで、言葉の一つひとつが耳から胸へ沈んでいく。文字の意味はすぐに遠ざかり、残るのは穏やかな響きだけ。私は瞼を閉じ、耳を澄ませた。

「眠くなってきただろう」
「……ええ。でも、まだ少し」
「ならば、もう一編」
 彼は本を閉じ、今度は声を落として口ずさむように歌った。知らない旋律なのに、不思議と懐かしさを覚える。静かな子守歌が夜の空気を満たし、胸のざわめきは波にさらわれるように薄れていった。

 私は無意識に手を伸ばし、彼の袖を掴んでいた。驚いて顔を上げると、彼は表情を変えずに視線を落とす。
「……離した方がいいですか」
「いい。君が落ち着くなら」
 その許しの一言に、心がほどける。私は袖を握ったまま、瞼を閉じた。


 どれほど眠っただろう。夢の縁で目を覚ますと、窓の外は淡い朝の光を帯び始めていた。椅子に座るアルベルトの姿が視界に映る。外套を膝にかけ、浅い呼吸を保ったまま、彼は眠っているようにも見えるし、ただ静かに目を閉じているだけのようにも見えた。

 私は布団から身を起こし、握っていた袖をそっと離す。けれど胸の奥では、昨夜の子守歌がまだ響いている。まるで心臓の鼓動と一緒に溶け込んだように。

 その時、扉を叩く音がした。執事の声が静かに告げる。
「閣下、緊急の知らせです」
 アルベルトの瞼がすぐに開き、灰色の瞳が鋭さを取り戻した。彼は立ち上がり、外套を羽織って扉へ向かう。私を振り返り、一言だけ残す。
「休め。――大丈夫だ」

 扉が閉まると、部屋には静けさだけが残った。私はクッションを抱きしめ、まだ残る温もりを胸に刻む。昨日の恐怖も、夜の不安も、彼の声と子守歌に包まれて遠ざかっていく。朝の光が広がる中、私はもう一度目を閉じ、深く息を吐いた。
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