実家を追い出され、薬草売りをして糊口をしのいでいた私は、薬草摘みが趣味の公爵様に見初められ、毎日二人でハーブティーを楽しんでいます

さくら

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第6話 月下の薬草園

 その夜、森はふしぎな静けさに包まれていた。昼間の雨がすべてを洗い流したせいか、空気は澄みきっており、月明かりが葉の一枚一枚にやわらかく降り注いでいる。私は眠れずに小屋を出て、外の空気を吸い込んだ。冷たさの中に、どこか甘やかな香りが漂っている。乾いた草と湿った土の匂いが混じり合い、心の奥をくすぐった。

 小屋の裏手にある小さな畑には、私が世話をしている薬草が並んでいた。雨で潤ったせいか、葉は一段と鮮やかで、茎は力強く天を仰いでいる。私はしゃがみ込み、タイムの葉をそっと撫でた。夜露が指先を濡らし、その冷たさに目が冴える。胸の奥に、ひとつの想いがふくらんでいった。──ここをもっと大きな薬草園にしたい。いつか、アルディスと一緒に。

「眠れないのか?」
 背後から声がして、私は振り返った。月明かりの中に立つアルディスは、外套を羽織り、静かな目でこちらを見ていた。驚きと同時に、胸がどきりと跳ねた。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「いや。私も同じだ。月がきれいで、つい外へ出てきた」
 彼はゆっくりと歩み寄り、畑を眺めた。

「これは君が世話しているのか」
「はい。ほんの小さな畑ですけど」
「いや、小さいからこそ草の一株一株に目をかけられる。見事だ」
 彼はしゃがみ込み、ローズマリーの枝をそっと指先でつまんだ。香りが立ちのぼり、夜風に溶ける。灰色の瞳が細められ、その光景を映した。私は胸が熱くなり、言葉をなくした。

 しばらく沈黙ののち、彼が静かに口を開いた。
「リオナ。君はこれから、この畑をどうしたい?」
「……もっと、広げたいです。いろんな草を育てて、茶や薬にして……みんなの役に立てたら」
「いい夢だ。君の夢なら、私も手を貸したい」
「え……?」
「ひとりで背負う必要はない。私がいる。忘れないでほしい」
 その言葉に胸が震え、目の奥が熱く潤んだ。

 私は必死に涙をこらえながら、ローズマリーの香りに顔を埋めた。夜露に濡れた葉の清らかさが心に沁み、彼の言葉と重なって胸いっぱいに広がっていった。



 アルディスの言葉は夜の静けさの中でいっそう深く響き、胸の奥に沈んでいった。私は頬に冷たい夜風を受けながら、彼の横顔を見つめた。月明かりが灰色の瞳に差し込み、まるで銀色の湖のように揺れている。言葉を返すより先に、心臓が早鐘のように打ち、呼吸が苦しくなる。

「リオナ」
 名前を呼ばれ、はっと我に返る。
「君の夢を、私に分けてくれないか。草を育て、茶を淹れ、人を癒すその日々を、共に見たい」
 真っ直ぐな声に胸が震え、私は慌ててうつむいた。これまで孤独に生きるしかないと思っていた。けれど、彼の言葉はその孤独を少しずつ溶かしていく。

 私は畑の隅に咲く小さなカモミールを摘み取り、掌にのせた。花弁は白く、夜露を受けてきらきらと光っている。
「この花のように……弱くても、小さくても、誰かの眠りを助けられる。私もそういう存在でいたいんです」
 震える声で告げると、アルディスは優しく笑った。
「君はすでにそうだ。私の心は、もう十分に癒されている」
 その言葉に、涙が溢れそうになった。

 彼はそっと私の手に触れ、摘んだ花を包み込むように指を重ねた。大きな手の温かさが伝わり、指先が震える。
「リオナ。月が証人だ。今日の約束を忘れない」
 その瞬間、夜の冷たさが消え、胸の奥に柔らかな光が灯った。私は頷き、涙を拭った。

 遠くで梟の声が響き、森が静かに呼吸するようにざわめいた。二人で並んで畑に立つと、夜露に濡れた草たちが光を放ち、まるで祝福の歌を奏でているかのようだった。



 ふたりで畑の中を歩きながら、夜露に濡れた草を指で確かめていった。葉の一枚ごとに息づく香りが、月明かりの下で鮮やかに広がる。私は指先に残る冷たさを感じながら、胸の奥では温かい鼓動が響いていた。アルディスの手がそばにあるだけで、孤独に縛られていた心がほどけていく。

「ここをもっと広げたいと言ったね」
 彼の声は夜風に乗って柔らかく響いた。
「はい。もっといろんな草を育てたい。子どもから年寄りまで、誰でも気軽に飲めるようなお茶を作って……安心して眠れる場所を作れたら」
「すばらしい。ならば、君の夢のために土地を整えよう。私の屋敷の庭を、君の薬草園にしてみないか?」
「……え?」
 思いもよらぬ提案に、息を呑んだ。

 公爵家の庭──その言葉はあまりに遠い響きを持っていた。粗末な小屋で暮らす自分に、そんな場所が与えられていいのだろうか。私は戸惑いに揺れ、言葉を失った。
「私なんかに、そんなこと……」
「“私なんか”と言うな。君の手だからこそ、草は応えている。私が保証する」
 真剣な瞳に見つめられ、胸の奥で何かがほどけていった。

 私は両手で顔を覆い、涙をこらえながら小さく笑った。
「……アルディスと一緒なら、できるかもしれません」
「一緒にやろう。君の夢は、私の夢でもある」
 彼はそう言って、そっと肩に手を置いた。その温かさに支えられ、私はうなずいた。

 月光が畑を照らし、葉先の雫がひとつ、またひとつと落ちていった。その音はまるで約束のしるしのように、静かに響いた。私は胸の中で誓った。──この人と共に、薬草と生きていこう。

 夜が更けても、畑は静かに輝き続けていた。草の香りと月の光に包まれて、私たちはしばし言葉もなく並んで立ち、これからの未来を思い描いた。
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