婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される

さくら

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第11話 王都からの風と、孤独の畑

 レオニールが王都へ戻ってから、村には再び静かな日常が訪れた。だが、クラリスの心はどこか空虚だった。畑に立ち、鍬を振るっていても、耳の奥にあの言葉――「必ず迎えに来ます」が繰り返し響く。

 朝霧が畝に落ち、雫が光る。クラリスは汗を拭いながら、思わず独り言を漏らした。
「……本当に、戻ってきてくださるのかしら」
 その呟きを、土しか聞いていない。けれど答えがない静けさは、彼女の胸に重く沈む。

 市場に出れば、村人たちが心配そうに声をかけてくれる。
「クラリス、顔色が悪いぞ」
「殿下がいないと寂しいんだろう?」
「はは、やっぱり恋人じゃないか」
 笑い混じりの言葉に、クラリスは赤面して首を振る。だが心の奥で否定できない想いがじんわりと広がっていた。


 その頃、王都から届く知らせは芳しくなかった。噂では、第三王子の政略結婚の話が具体的に進められているという。村人たちもそれを耳にし、クラリスに遠慮がちに伝える。
「どうやら、本当に決まってしまうらしいぞ」
「相手は公爵家の娘だと……」
 聞けば聞くほど、胸が締め付けられる。

 夜、小屋のランプの灯りの下で、クラリスは裁縫道具を広げていた。農作業で破れた袖を繕いながら、針先が震える。布に落ちる影が滲み、涙で視界が曇った。
「私なんかじゃ、やっぱり……」

 けれど、その翌朝。畑に立つと、土の匂いが強く胸を満たす。種を撒き、芽を支え、水を与える。その一連の作業が、心を少しずつ落ち着かせてくれる。
「待つしかない。……でも、畑は裏切らない」
 芽吹いた緑は小さくとも、確かにそこに息づいている。クラリスは掌で苗を撫で、涙を乾かした。


 数日後。村に豪華な馬車が再び現れた。だが乗っていたのは王都の使者ではなく、若い文官だった。彼は汗をかきながら駆け寄り、封蝋のついた書状を差し出す。

「クラリス様、これは殿下から……」
 手に取った書状は温もりを宿すように重い。封を切ると、丁寧な筆跡が並んでいた。

――政略結婚を断固として拒否した。王宮は揺れているが、僕は決して譲らない。君を迎えるために戦っている。どうか待っていてほしい。

 読み終えた瞬間、クラリスの視界が滲んだ。手紙を胸に抱き締め、彼女は土の上に膝をつく。涙が頬を伝うが、それは希望に満ちたものだった。

「……待っています、殿下」
 風が畑を渡り、苗の葉を優しく揺らした。それはまるで、遠く離れた彼の声が届いたように思えた。



第12話 村の支えと、揺るがぬ種子

 王都から届いた手紙を胸に抱いた日から、クラリスの顔には再び光が差していた。夜明けの畑に立つと、芽吹いた苗が一斉に朝日を受け、葉を広げている。クラリスは掌でその柔らかさを確かめ、微笑んだ。

「……殿下が戦っているのなら、私も戦わないと」
 鍬を握る腕に力を込める。土は重くても、心は不思議と軽かった。

 村人たちもそんな彼女の変化に気づく。市場に立てば、マリーがにっこり笑って野菜を手に取り、エミルが「今日も手伝おうか」と肩を叩いてくれる。
「クラリスは一人じゃないよ」
 その言葉に胸が温かくなり、自然と笑みが零れた。


 昼過ぎ、畑の端でクラリスは子どもたちに野菜の種まきを教えていた。小さな手がぎこちなく種を土に落とすと、クラリスは優しく声をかける。
「深すぎないようにね。ほら、指先で軽く土をかけて……」
「こう?」
「そう、とても上手よ」
 子どもたちが笑い声を上げる。クラリスも笑い、心が穏やかに満たされていく。

 そんな姿を見ていたオズワルド老人が、煙草の煙をくゆらせながら呟いた。
「王子が惚れるのも無理はねえな。あんたは土と人を同じように育てちまう」
「……からかわないでください」
 頬を染めながらも、胸の奥は誇らしかった。


 その夜、小屋の前で星を見上げていると、また文官が駆けてきた。息を切らしながら差し出した書状には、前回よりも力強い筆跡が刻まれている。

――父王に直談判した。激しく叱責されたが、決して譲らなかった。兄たちも少しずつ理解を示してくれている。道は険しいが、必ず君のもとへ辿り着く。

 クラリスは手紙を胸に押し当て、静かに目を閉じた。涙が溢れるが、今度は不安ではなく希望の涙だった。

「殿下……いいえ、レオニールさん。私はここで待ち続けます。畑がそうであるように、季節を越えて芽吹きを信じて」

 夜風が畑を渡り、芽吹いた葉をさらさらと揺らした。その音はまるで遠い王都から届く彼の声のようで、クラリスの心を揺るがぬ決意で満たした。



第13話 父王の叱責と、揺るぎなき誓い

 王都の玉座の間は、磨き上げられた大理石の床に炎のような赤い絨毯が伸び、重厚な柱が高々と並んでいた。広間の中央に立つレオニールの背は真っ直ぐで、灰色の瞳は決意に燃えている。その前に座すのは国王。王冠の下の瞳は鋭く、静かに怒りを秘めていた。

「レオニール。お前は王子である前に、この王国の民の子だ。民のために己を捧げるのが務めだ」
「はい。しかし……だからこそ、偽りではなく真実を選ぶべきです」
「真実?」
「私はクラリスを選びます。身分などではなく、人として尊敬できる彼女と共に生きたい」
 玉座の間がざわめく。重臣たちが声を潜め、互いに顔を見合わせた。国王の眉間に皺が寄る。

「……我が命に逆らうか」
「はい。たとえ叱責を受けようとも、私は譲りません」
 その言葉に重臣の一人が叫んだ。
「殿下! 軽率すぎますぞ!」
 だがレオニールは微動だにしなかった。


 その日の王都は騒然としていた。第三王子が父王に逆らったという噂が瞬く間に広まり、街の広場では市民たちがひそひそと語り合う。
「殿下が本気で農家の娘を……?」
「政略結婚を拒むなど前代未聞だ」
 だが、同時に小さな期待の声も上がる。
「もし殿下が本当に愛を貫くなら……」
「民のための王になるかもしれん」

 一方、クラリスの村にもその噂は届いた。市場で耳にしたとき、クラリスの胸は大きく揺れた。
「……殿下、本当に戦っておられるのですね」
 涙が溢れそうになるのを堪え、籠を握り締める。村人たちは彼女を囲み、励ますように頷いた。
「クラリス、お前は誇っていい。殿下はお前のために立ち向かっている」
 その言葉が心に染み渡り、クラリスは決意を新たにした。


 夜、レオニールは兄たちの前に座していた。ユリウスは冷静な眼差しを崩さず、エドガーはいつもの軽口を封じて真剣な表情を見せている。

「お前の覚悟は分かった。だが、父上を説得するのは容易ではない」
「分かっています」
「本当にクラリス嬢を妃に迎える覚悟があるのか?」
「あります」
 レオニールの答えは即座で揺るぎなかった。

 ユリウスはしばし沈黙し、やがて溜息を吐いた。
「ならば、我ら兄弟も手を貸そう。ただし――クラリス嬢が王妃に相応しいと証明できるなら、だ」
「証明……」
「民の前で彼女が認められる姿を示すのだ。それが父上を動かす鍵になる」

 その言葉を胸に刻み、レオニールは拳を握り締めた。
「必ずや、証明してみせます」

 夜風が城壁を渡り、王都の灯火が揺れる。遠く離れた村の畑でも、クラリスが同じ星空を見上げていた。二人の想いは離れていても、一つの未来を目指して確かに結ばれていた。



第14話 村の誇りと、視察団の影

 夏の陽射しが畑をじりじりと焦がす。クラリスは汗に濡れた髪を後ろで結び直し、黙々と草を抜いていた。土の匂い、緑の香り、風に混じる麦の粉っぽさ――どれもが彼女を現実に繋ぎとめる。だが胸の奥には、王都の噂が渦巻いていた。

「民の前で証明を……」
 レオニールが王都で兄たちに告げられた課題は、文官の手を介してクラリスにも伝えられていた。彼女は畝を見つめ、唇を噛む。
「私にできることなんて、畑を守ることだけ。でも、それで殿下を証明できるのなら……」

 その日、市場に王都からの使者が現れた。威厳ある老臣を中心に、従者や兵士がぞろぞろと並ぶ。村人たちは戸惑いの視線を交わし、やがてクラリスの屋台の前に集まった。

「これが……クラリス殿か」
 老臣の声は冷ややかだった。並べられた野菜をじっと見つめ、顎に手を当てる。
「ふむ、形は不揃い。だが、匂いは悪くない」
 彼がラディッシュをかじると、周囲が息を呑んだ。


 老臣はしばらく噛みしめた後、わずかに目を細めた。
「……味は確かだな。しかし、これだけで王子妃に相応しいと認めるわけにはいかん」
 クラリスは背筋を伸ばし、真っ直ぐに答えた。
「私は貴族でも令嬢でもなく、ただの農家です。けれど、この土と共に生き、人々と分け合うことならできます」

 周囲の村人たちがざわめき、次々と声を上げた。
「クラリスの野菜のおかげで、子どもたちが元気になった!」
「市場が賑わうようになったのも、あの子のおかげだ」
「私らにとって、もう立派な仲間さ」
 その声に老臣の眉がわずかに動く。

「……民からの信頼、か」
 彼は立ち去り際に、クラリスへ一瞥を投げた。
「近々、王都に招かれることになるだろう。その時までに己を磨いておくのだな」
 馬車が去ると、広場に安堵の空気が流れた。クラリスは深呼吸をし、胸の奥で決意を固めた。


 夜、星空の下でクラリスは一人、畑に立っていた。苗の葉が風に揺れ、虫の声が静かに響く。彼女は手を胸に当て、空に向かって囁く。

「レオニール様……私は逃げません。私ができるのは、この畑を守ること。この土を通して、あなたと同じ未来を見つめること」

 遠く離れた王都でも、同じ夜空を彼が見上げているだろう。クラリスはそう信じながら、強く瞳を閉じた。

 夜風はやさしく、畑の上を渡っていった。それはまるで、彼の温もりが遠くから届いたかのようだった。



第15話 王都への召喚と、旅立ちの朝

 秋風が畑を吹き抜け、色づき始めた木々がさらさらと揺れた。畝の間に広がる緑は力強く、クラリスの手で育てられた作物たちが収穫の時を迎えている。だが、その胸にはいつもと違う緊張があった。

 王都からの正式な召喚状が届いたのだ。
――「クラリス・フォン・エルドールを、王都の広場にて行われる収穫祭に招待する」
 収穫祭は民と王族が一堂に会する大きな式典。その場で彼女がどう振る舞うかが、レオニールの未来をも左右する。

「……とうとう来てしまった」
 クラリスは封書を握り締め、深く息を吐いた。緊張に震える手を見下ろしながらも、心は揺るがなかった。


 出立の前夜、村の広場には灯りが並び、村人たちが集まった。彼らは籠に入れた野菜や果物をクラリスに手渡し、口々に励ましの言葉をかける。

「お前は私たちの誇りだ」
「王都の連中に見せてやれ、土の強さを」
「どんなに偉い人が相手でも、胸を張って」
 その声に、クラリスの瞳が潤む。村人たちは彼女を押し上げるように支えてくれる。

「……ありがとうございます。必ず、胸を張って行ってきます」
 その夜、クラリスは眠れなかった。だが、畑に出て苗の葉を撫でると、不思議と心が落ち着いた。土の匂いが背を押し、彼女に勇気を与える。


 旅立ちの朝。空は清らかに澄み、朝露が畑を銀色に染めていた。クラリスはシンプルな藍色のドレスに身を包み、村人たちの見送りを受けながら馬車へ乗り込む。

 車輪がきしみ、村を離れていく。振り返れば、畑が広がり、そこに育つ命が朝日に輝いていた。クラリスは胸に手を当て、小さく囁く。

「レオニール様……私も、あなたの隣に立てるように」

 王都への道は長い。だが心には確かな決意が芽吹いていた。クラリスの瞳は、遠くにそびえる王都の城を見据えていた。



第16話 王都の喧騒と、初めての視線

 馬車が王都の石畳に入ったとき、クラリスは窓から外を覗き込み、思わず息を呑んだ。高い建物が連なり、行き交う人々の声と馬蹄の音が絶え間なく響いている。市場のざわめきとは比べ物にならない活気。甘い菓子の香りや香辛料の匂いが混じり合い、目も耳も追いつかない。

「ここが……王都」
 胸が高鳴り、不安も同じように膨らむ。馬車は宮殿へと進み、やがて巨大な門が開いた。白亜の城壁と青い屋根。見上げるだけで圧倒される壮麗さに、クラリスは膝が震えそうになる。

 出迎えに現れたのは、王妃だった。鋭い眼差しでクラリスを見つめ、低い声で告げる。
「民の前に立つということが、どういう意味か理解しているのでしょうね」
「……はい」
 短い返事。だが心の奥では土に触れた日の感覚を思い出していた。揺らがない、と自分に言い聞かせる。


 翌日、収穫祭の日。王都の大広場は人で溢れ、色とりどりの旗や花で飾られていた。クラリスは招かれた来賓席の端に立ち、緊張で喉が乾くのを感じる。

 やがてレオニールが姿を現した。鮮やかな青の礼服に身を包み、堂々と歩む姿に群衆が歓声を上げる。彼の灰色の瞳が人々を見渡し、そしてクラリスを見つけた瞬間、優しく微笑んだ。胸が熱くなる。

 壇上で国王が挨拶を終えると、視線がクラリスに集まった。司会役の大臣が告げる。
「この度、第三王子が愛する女性をここに招きました。クラリス・フォン・エルドール嬢です」

 広場がどよめく。クラリスは深呼吸をし、ゆっくりと前に出た。視線が突き刺さる。畏れ、好奇、軽蔑、興味――さまざまな感情が混じった波が押し寄せてくる。


 壇上に並べられたのは、クラリスが村から持参した野菜と保存食だった。人々が驚きの声を上げる。彼女は震える指を必死に抑え、説明を始めた。

「これは私が畑で育てたものです。不格好ですが、土と向き合い、毎日世話をしてきました」
 籠からラディッシュを取り出し、半分に割る。赤と白の断面が太陽に照らされ、輝くように鮮やかだった。
「この土がある限り、私たちは生きていけます。私はその土を守り、育て続けたい。……それが殿下と共に歩む私の覚悟です」

 一瞬、広場に静寂が落ちる。やがて人々の中から拍手が広がり、次第に大きな波となった。レオニールの瞳が誇らしげに光り、彼は壇上でクラリスの手を取った。

「これが、僕の選んだ女性です。どうか皆も、彼女を認めてください」
 歓声が広場を満たす。クラリスは涙をこらえながら微笑み、群衆の温かな視線を感じていた。

 王妃が遠くからじっと見守っていた。その眼差しには、否定だけではなく、わずかな驚きと認めざるを得ない色が宿っていた。



第17話 王城の試練と、揺れる廊下

 収穫祭での一幕が終わったあと、王都の空気は大きく変わっていた。広場でクラリスの言葉を聞いた人々は、王子の選択を歓迎する者、戸惑う者、疑念を抱く者とさまざまに揺れていた。王城に戻る道すがら、群衆からは「殿下を応援するぞ!」という声と「身分をわきまえろ!」という声が入り混じり、クラリスの胸は強く締め付けられた。

 城門をくぐると、磨き上げられた石の床に自分の足音が反響する。高い天井に吊るされた燭台の明かりは明るいのに、背筋を冷たく撫でるような空気が漂っていた。王妃が待ち受けており、冷ややかな微笑みを浮かべる。
「広場での振る舞い……悪くなかったわ」
「ありがとうございます」
「けれど、妃としてはまだ不十分。次は宮廷での試しを受けてもらうことになるでしょう」
 告げられた言葉は刃のように鋭い。クラリスは拳を握り締め、静かに頷いた。


 その夜、レオニールと城の一角で再会した。高い窓から月明かりが差し込み、白い石壁に二人の影を映す。彼の瞳には心配が滲んでいた。
「母上は、君を簡単には認めない。きっと次は、宮廷の人々の前で礼儀や知識を試されるだろう」
「……私にできるでしょうか」
「できる。君は土に向き合い、人と真心で繋がってきた。作法の形を知らなくとも、その芯は誰にも負けない」
 レオニールの言葉は温かく、クラリスの不安を少し和らげた。だが心の奥には、再び人々の視線に晒される恐怖が渦巻いている。

「クラリス」
「はい」
「どんな場であっても、僕は必ず君の隣に立つ」
 そう告げられた瞬間、涙がこぼれそうになった。けれどクラリスは必死に堪え、微笑み返した。


 翌朝、王妃の命により、クラリスは大広間へと連れて行かれた。そこには王城の高官や貴族たちがずらりと並び、冷たい視線を注いでいる。赤い絨毯の上を歩くたび、心臓が耳元で鳴るようだった。

 王妃が扇を持ち上げ、宣言する。
「ここにいるクラリスが、本当に王子妃に相応しいかどうか。皆の目で確かめなさい」

 試練が始まる。礼儀作法の問い、歴史や国政に関する質問、そして人前での受け答え。貴族たちはわざと難しい言葉を投げかけ、クラリスを試す。彼女は額に汗を浮かべながらも、必死に正直な思いで答えていった。

「知識はまだ乏しいかもしれません。でも、民と共に生きる心を忘れたくありません」
「王子妃の務めとは、飾ることではなく、人を思い、国を思うことだと信じています」

 ざわめきが広間を満たす。嘲笑もあれば、感嘆の声もある。クラリスの胸は張り裂けそうに高鳴っていた。

 そのとき、壇上にいたレオニールが一歩進み出た。
「これこそが僕の選んだ女性です。どうか皆も、その心を見てほしい」

 静まり返る広間。王妃の瞳が細められる。まだ道は険しい。だが確かに、クラリスの言葉は人々の心に波紋を広げていた。



第18話 広間の余波と、王妃の揺らぎ

 宮廷での試練を終えたあと、広間は不思議な空気に包まれていた。貴族たちはざわざわと声を交わし、半数は「田舎娘にすぎない」と冷笑し、半数は「誠実な言葉だ」と頷いていた。扇子の音、靴の軋み、ひそやかな囁きが波のように押し寄せる。クラリスは背筋を伸ばしたまま、深呼吸を繰り返すしかなかった。

 壇上の王妃は沈黙を守り、ただ鋭い眼差しでクラリスを見据えていた。やがて扇を閉じ、冷ややかに言葉を落とす。
「……今日のところはこれでよしとしましょう」
 その声に緊張が解け、クラリスの膝が小さく震える。だが隣のレオニールがそっと支えてくれ、倒れずに済んだ。

「母上」
「何か」
「彼女を認めてくださるのですか」
「認めるかどうかは、まだ早い。だが……この場で完全に否とは言わなかった。それが答えです」
 王妃の言葉は厳しくも、どこかに揺らぎを含んでいた。


 夜、王城の庭園にて。白い月が噴水を照らし、静かな水音が響く。クラリスは一日の疲れを抱えながらも、花壇の傍に座り込んでいた。そこへレオニールが現れ、彼女の隣に腰を下ろす。

「よく頑張りましたね」
「……私、うまくできたか分かりません」
「大丈夫です。君の言葉は、誰よりも真実でした」
 その声に胸が熱くなり、クラリスは目を伏せた。

「でも……やっぱり不安です。私が殿下を苦しめているのではないかと」
「苦しみではありません。試練はあっても、君と共にいることが僕の力になります」
 レオニールの手が、そっと彼女の手に重なる。冷たい夜風の中、その温もりだけが確かな灯火だった。

「クラリス、僕は何度でも言います。あなたを諦めることは決してない」
「……ありがとうございます」
 クラリスは涙を浮かべながら微笑んだ。


 翌日、王妃は密やかに兄王子たちを呼び寄せていた。ユリウスは厳しい面持ちで立ち、エドガーは腕を組んで口元に笑みを浮かべている。

「どう思った?」
「……彼女は脆い部分も多い。しかし、偽りのない言葉を口にできる娘です」
 ユリウスの声は低く、だが否定だけではなかった。

「俺は悪くないと思うな。弟が惚れ込むのも当然さ。何より、あの子には村の人々の声がある。王都の貴族よりよほど頼もしい」
 エドガーの軽やかな言葉に、王妃は扇を閉じ、長く息を吐いた。

「……まだ試す必要はあるでしょう。けれど、あの娘を侮ってはいけない。愚かと思ったのは、どうやら私のほうだったのかもしれないわ」

 月光が差す広間に、静かな余韻が広がる。王妃の胸に芽生えた小さな揺らぎは、やがて大きな変化へとつながる兆しであった。



第19話 父王の試みと、畑を守る誓い

 王妃の揺らぎが見え始めた数日後、クラリスは再び王城に呼ばれた。広間の扉が重々しく開くと、そこには国王が玉座に座し、重臣たちがずらりと並んでいる。空気は鋭い刃のように張り詰め、クラリスの足取りは自然と重くなった。

「クラリス・フォン・エルドール」
 国王の低い声が響く。
「お前を妃として認めるつもりは、未だない。しかし――お前がどれほどの覚悟を持つか、この目で確かめたい」
 玉座の前に立たされたクラリスは深呼吸をして、真っ直ぐに答えた。
「はい。私にできることは多くありません。でも、この国の土と民と共に歩むことなら、必ず果たせます」

 国王の目が細められる。
「ならば、証を立てよ。王都近郊の荒れ地がある。耕す者もなく、放置されて久しい。そこを立て直し、実りを示せ。できれば……お前を妃に迎えることも考えよう」
 重臣たちがざわめく。国王の声には試すような響きがあった。


 クラリスは荒れ地へ向かった。広がるのは石ころだらけの硬い土。乾いた風が吹き抜け、草すら根付かない。村での畑とはまるで違い、胸に重苦しい不安が広がる。

「ここを……耕せと?」
 唇を噛みしめ、膝をつく。手で土を掬えば、指の間からざらざらと砂がこぼれる。しかし、その瞬間に胸の奥から声が湧き上がった。

「土は死んでいない。眠っているだけ」
 自分に言い聞かせるように呟き、鍬を振るう。硬い地面に衝撃が走り、腕が痺れる。それでも何度も鍬を下ろした。額から汗が流れ、膝は泥に染まる。

 日が暮れるころ、レオニールが現れた。鎧を纏った騎士を従えながらも、彼の瞳はクラリスだけを映していた。
「クラリス!」
「殿下……」
「父上がそんな無茶を命じるとは……。だが、僕も手伝う。二人でやろう」
 その言葉に、クラリスの胸は熱く満たされた。


 それからの日々、二人は荒れ地に通い続けた。村からも人々が協力に訪れ、マリーやエミル、老人たちも手を貸した。汗と泥にまみれながら、土を耕し、石を取り除き、肥やしを混ぜる。

 ある夜、焚き火の明かりの下でクラリスは呟いた。
「私……もしこの畑を実らせられなければ、殿下の未来を奪ってしまう」
「違います」
 レオニールは彼女の手を握り、真剣に見つめた。
「君はもう、僕の未来そのものだ。畑がどうなろうと、僕の決意は変わらない」
 その言葉にクラリスの目から涙が溢れた。

 焚き火の火花が夜空に舞い、星々と重なる。荒れ地にはまだ緑はない。だが、確かな希望の芽が、二人の胸に根を下ろしていた。



第20話 荒れ地に芽吹く奇跡

 朝霧が立ち込める荒れ地に、鍬を振るう音が響いた。クラリスは泥だらけの手で額の汗を拭い、呼吸を整える。土はまだ硬く、指に触れると冷たさよりも乾きが勝っていた。それでも毎日、腐葉土を混ぜ、水を運び、村から持ち込んだ肥やしを加えた。

 レオニールも鎧を脱ぎ捨て、村人たちと肩を並べて働いていた。王子とは思えぬ姿に、最初は騎士たちも驚いていたが、次第に無言で彼を手伝うようになった。

「……少し、柔らかくなってきた」
 クラリスが掬い上げた土を見せると、マリーが目を丸くした。
「本当だ。あの石ころだらけだった地面が……」
 皆の顔に笑みが広がる。小さな変化だったが、その喜びは確かだった。


 数週間が過ぎた。荒れ地にようやく緑の芽が顔を出す。朝日を浴びて小さく震えるその姿を見た瞬間、クラリスの胸に熱いものが込み上げた。

「芽が……出た……!」
 涙声で呟いた彼女の肩を、レオニールが強く抱きしめた。
「君の努力の証だ。君が信じたから、この土は目を覚ましたんだ」

 村人たちが歓声を上げ、子どもたちは芽を囲んで跳ね回る。老人オズワルドも目を細め、しわだらけの頬を震わせていた。
「嬢ちゃん……いや、クラリス。あんたは大したもんだ」

 その夜、焚き火を囲んで皆で簡素な祝いをした。クラリスは笑顔を浮かべながらも、心の奥で思う。
(これは始まりにすぎない。まだ父王を動かすには足りない。けれど、私は諦めない)


 翌日、荒れ地を視察するために王都から使者が訪れた。彼らは芽吹いた畑を見て驚き、書簡に記録を残す。だが老臣の一人が冷たく言い放った。
「芽が出ただけでは、収穫には程遠い」

 その言葉にクラリスは俯きかけたが、すぐに顔を上げた。
「はい、まだ小さな芽です。でも、この芽は希望です。必ず実らせてみせます」

 使者たちは目を細め、無言で立ち去った。残された静寂の中、レオニールがそっと彼女の手を握る。
「君は十分に強い。父上に何を言われても、僕が支える」
「私も、殿下を信じて支えます」

 二人の誓いは、芽吹いた小さな緑と同じように、これからさらに大きく育っていくのだと信じられた。荒れ地に吹く風は、もう冷たくはなかった。
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