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第8話 世界の悲鳴
地鳴りは、確実に王都の下から響いていた。低く、重く、逃げ場のない音。広場に立つ誰もが、それを「音」ではなく「圧」として感じ取っている。祈りは止まり、歓声は消え、人々は互いの顔を見合わせた。世界が、はっきりと悲鳴を上げ始めていた。
「……なに、これ」
凛香の声が震える。光はまだ彼女を包んでいるけれど、先ほどまでの圧倒的な輝きはない。代わりに、不安定な揺らぎが走り、祭壇の石が細かく軋んでいた。
「揺り戻し」
私は短く答えた。
「無理に奪われ続けた分が、一気に戻ろうとしてる」
地面に、細い亀裂が走る。ほんのわずかだ。でも、それは始まりにすぎない。胸の奥の温もりが、強く、鋭く反応している。ここで止めなければ、王都全体が耐えきれない。
「……嘘」
凛香は首を振った。
「こんなの、聞いてない」
神官たちが慌てて呪文を唱え、騎士たちが人々を下がらせようとする。しかし、誰も確かな指示を出せていない。想定外だ。聖女の奇跡が、裏目に出ることなど、誰も考えてこなかった。
「凛香」
私は、もう一度だけ名前を呼んだ。
「力を、止めて」
「……止めたら、どうなるの」
「世界が、戻り始める」
それは、楽な道じゃない。回復の反動は、痛みを伴う。人々は、奇跡に慣れすぎている。
「……私は」
凛香の視線が揺れ、初めて、光の向こうにいる人々ではなく、自分の足元を見る。
「私は、何なの」
その問いは、力を持つ者の問いじゃない。ただの、迷子の声だった。
「聖女でしょ」
神官の一人が、必死に叫ぶ。
「選ばれた存在だ!」
その言葉に、凛香の肩がびくりと跳ねる。胸の奥の温もりが、強く、強く脈打った。今だ。
「……違う」
私は、はっきりと言った。
「あなたは、力を持った人間」
凛香が、私を見る。
「それ以上でも、それ以下でもない」
地鳴りが、三度目にして、最も大きく響いた。広場の端で、石畳が崩れ、悲鳴が上がる。
「澪!」
凛香が、叫んだ。
私は走った。考えるより先に、身体が動いていた。凛香の前に立ち、両手を広げる。胸の奥の温もりを、これまでで一番深く、世界へ流す。
個人じゃない。村でもない。
王都全体だ。
奪われ、引き延ばされ、ねじ曲げられた流れを、一気に正そうとすれば、反動で壊れる。だから、戻す。ゆっくりと、段階的に。
世界の悲鳴が、私の中を通り抜けていく。痛みはない。ただ、圧倒的な重さが、身体を満たす。膝が、自然と地面についた。
「……っ」
視界が揺れる。でも、離さない。手を伸ばし、凛香の手首を掴んだ。
「凛香、今!」
「……っ」
彼女の手が、震える。光が、暴れる。
「やめて!」
神官の声が飛ぶ。
「聖女様が危険だ!」
でも、凛香は、私の手を振り払わなかった。
「……怖い」
彼女は、初めて正直に言った。
「全部、失うのが」
「失わない」
私は、掴んだ手に、力を込めた。
「選ばれなくなるだけ」
その言葉に、凛香の目が、大きく見開かれる。
「……選ばれなくても」
彼女の声が、掠れる。
「……生きてて、いいの?」
その問いに、私は迷わなかった。
「いい」
胸の奥の温もりが、確信として広がる。
「生きてていい。何もしなくても、誰かに称えられなくても」
凛香の手から、力が抜けた。
光が、すっと弱まる。
人々の祈りが、途切れる。
地鳴りが、止まった。
完全ではない。でも、臨界は越えなかった。亀裂は広がらず、世界は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
広場に、重たい静寂が落ちる。
凛香は、その場に座り込んだ。光の消えた法衣が、ただの布に戻っている。
「……終わった?」
誰かが、恐る恐る言った。
「いいえ」
私は、息を整えながら答えた。
「始まっただけです」
奇跡に頼らない、回復の時間。
痛みと向き合う、現実の時間。
私は立ち上がり、凛香を見下ろした。
「これからは、世界が自分で戻る」
凛香は、涙をこぼしながら、何度も頷いた。
聖女の光が消えた夜。
世界は、初めて、本当の意味で静かになっていた。
△
静寂は、祈りが消えたから訪れたのではなかった。あれほど濃密に王都を満たしていた“何か”が、ようやく薄れ始めたからだ。耳鳴りのような感覚がゆっくり引いていき、人々は自分の呼吸の音を思い出したように、戸惑いながら息を吸っていた。誰も歓声を上げない。ただ、崩れていない地面と、まだ立っている城壁を、信じられないものを見る目で見つめている。
私は凛香の手を離し、その場にしゃがみ込んだ。全身に、重たい疲労がのしかかってくる。村で力を使った時とは比べものにならない。世界そのものを撫で直すような感覚は、私の内側を空にしていった。でも、不思議と怖くはなかった。空になった場所に、静かな納得が残っている。
「……聖女様」
神官の一人が、恐る恐る凛香に近づいた。声は震えているが、先ほどまでの陶酔はない。
「お怪我は……」
凛香は顔を上げた。涙で濡れた目は、はっきりと焦点を結んでいない。光に守られていた時の、あの確信に満ちた表情は消え、代わりに、戸惑いと疲労が滲んでいる。
「……分からない」
凛香は、正直に答えた。
「何が起きてるのか、全部」
その言葉に、神官は言葉を失った。聖女が“分からない”と言うこと自体が、彼らにとっては想定外なのだろう。騎士たちも、武器を構えたまま、動けずにいる。
私はゆっくりと立ち上がり、広場を見渡した。人々の中には、すでに膝をついている者がいる。奇跡が止まり、体の不調が戻り始めているのだ。でも、それは崩壊じゃない。無理に引き上げられていた分が、現実の速度に戻っているだけだ。
「……大丈夫ですか」
誰かが私に声をかけた。知らない顔。王都の住人だろう。私は頷いた。
「急に良くなった分、しばらくは辛くなります」
その言葉に、周囲がざわつく。
「じゃあ、また治してくれ!」
「聖女様、もう一度……!」
人々の声が、再び集まりかける。その瞬間、胸の奥がひくりと鳴った。私は、すぐに首を振る。
「できません」
はっきりと言った。その声は、思っていたよりも広場に響いた。
「今、同じことをすれば、次は本当に壊れます」
理解できないという顔が、いくつも向けられる。でも、さっきまでの盲信とは違う。恐怖と、迷いが混じった表情だ。
「……じゃあ、どうすればいい」
その問いに、私はすぐに答えられなかった。救いは、即効性のある答えを人に求めさせる。でも、現実はそうじゃない。
「休むこと」
私は、ゆっくりと言った。
「食べて、眠って、痛みがあれば耐えること。必要なら、薬や手当を受けること」
当たり前すぎる答えに、失望の色が走る。でも、それでも、私は続けた。
「それが、世界の回復です」
凛香が、私を見た。その目には、もう敵意はない。ただ、深い混乱がある。
「……あんたは」
凛香が、かすれた声で言う。
「最初から、これを知ってたの?」
「知ってたわけじゃない」
私は首を振った。
「感じてただけ」
胸の奥に、まだ微かに残っている温もりに、意識を向ける。それは、もう前みたいに強くない。でも、消えてもいない。役目を終えたわけじゃなく、次の段階に移っただけだ。
神官たちの間で、低い議論が始まった。聖女が奇跡を止めた今、王都の体制そのものが揺らいでいる。誰もが、次に何をすればいいのか分からない。
「……澪」
凛香が、もう一度私の名前を呼んだ。今度は、はっきりと。
「私、どうなるの」
その問いは、聖女としてではなく、一人の人間としての問いだった。
「分からない」
私は、正直に答えた。
「でも、少なくとも」
凛香の目を、真正面から見つめる。
「災厄には、ならない」
その言葉に、凛香の肩から、ふっと力が抜けた。彼女は、深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
夜風が、広場を抜けた。
光のない王都は、どこか脆く、そして現実的だった。
奇跡の時代は、終わりを告げた。
だが、混乱の時間は、まだ始まったばかりだった。
◇
混乱は、静かに、しかし確実に広がっていった。歓声も悲鳴もない。ただ、人々が自分の足で立ち、自分の身体の重さを思い出し、そして不安そうに周囲を見回している。その光景は、奇跡の熱狂よりも、ずっと現実的だった。
「聖女様を、奥へ」
神官の一人が、凛香の腕にそっと手を伸ばした。保護という名目の隔離。彼女の立場を考えれば、自然な流れだ。凛香は一瞬だけ私を見た後、抵抗せずに頷いた。
「……澪」
離れる直前、彼女は小さく私の名前を呼んだ。
「ごめん」
その一言に、胸の奥が、かすかに揺れた。学生時代にも、王城でも、聞いたことのない声だった。私は何も言わず、ただ小さく首を振った。それで十分だった。
凛香が神官に連れられて去ると、広場の中心は空白になった。そこに立つべき“象徴”が消えたことで、人々は初めて、自分たちが何にすがっていたのかを失ったのだと理解したようだった。
「……じゃあ、あんたは何者だ」
低い声がした。振り向くと、先ほどの年配の騎士が、私を見ていた。調査に来た時の、冷静な眼差しだ。
「名乗る必要はありません」
私は、静かに答えた。
「必要なことは、もう言いました」
騎士はしばらく私を見つめ、それから短く息を吐いた。
「聖女を否定し、王都を救った女……か」
「救ってはいません」
私は首を振る。
「壊れなかっただけです」
その言葉に、彼は小さく笑った。
「それを、救ったと言うんだ」
周囲で、騎士たちが動き始める。崩れかけた石畳を確認し、人々を誘導し、負傷者を運ぶ。奇跡がなくなっても、やるべきことは山ほどある。世界は、誰かが祈らなくても、回っていく。
私は広場の端へ歩き、石の縁に腰を下ろした。全身が、ひどく重い。胸の奥の温もりは、ほとんど感じられなくなっていた。使い切った、というより、静かに眠っている感覚だ。
「……終わった、のかな」
呟くと、夜風がそれをさらっていく。終わったのは、奇跡の連鎖だ。でも、物語は終わらない。むしろ、ここからが始まりだ。
しばらくして、女主人に似た雰囲気の女性が、私に水を差し出してくれた。
「飲みな」
「……ありがとうございます」
喉を潤すと、ようやく自分が生きている実感が戻ってくる。身体は疲れている。でも、心は、不思議と静かだった。
「さっきの話、聞いたよ」
女性は、広場を見渡しながら言った。
「奇跡は止まった。でも、あたしたちは、まだここにいる」
私は頷いた。
「それで、十分です」
女性は、ふっと笑った。
「欲張らないね」
「……欲張ると、壊れますから」
その言葉に、彼女は何も返さなかった。ただ、静かに水袋を持って立ち去った。
夜が深まるにつれ、王都は少しずつ、現実の速度を取り戻していった。祈りの声は減り、代わりに、生活の音が戻ってくる。誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが誰かを支える。それは、奇跡よりもずっと不格好で、ずっと人間的だった。
私は立ち上がり、王城を見上げた。凛香は、今、何を考えているだろう。選ばれなくなった自分を、どう受け止めるのか。それは、私が答えを出すことじゃない。彼女自身の問題だ。
「……私は」
胸の奥に、そっと問いかける。
「私は、これからどうするんだろう」
答えは、すぐには返ってこなかった。でも、焦りはなかった。村に戻ってもいい。王都に残ってもいい。どこにいても、私はもう、“無能”じゃない。
選ばれなくても、
名乗らなくても、
静かに世界を支えることはできる。
私は、ゆっくりと歩き出した。
光の消えた王都の夜を、
一人の人間として。
地鳴りは、確実に王都の下から響いていた。低く、重く、逃げ場のない音。広場に立つ誰もが、それを「音」ではなく「圧」として感じ取っている。祈りは止まり、歓声は消え、人々は互いの顔を見合わせた。世界が、はっきりと悲鳴を上げ始めていた。
「……なに、これ」
凛香の声が震える。光はまだ彼女を包んでいるけれど、先ほどまでの圧倒的な輝きはない。代わりに、不安定な揺らぎが走り、祭壇の石が細かく軋んでいた。
「揺り戻し」
私は短く答えた。
「無理に奪われ続けた分が、一気に戻ろうとしてる」
地面に、細い亀裂が走る。ほんのわずかだ。でも、それは始まりにすぎない。胸の奥の温もりが、強く、鋭く反応している。ここで止めなければ、王都全体が耐えきれない。
「……嘘」
凛香は首を振った。
「こんなの、聞いてない」
神官たちが慌てて呪文を唱え、騎士たちが人々を下がらせようとする。しかし、誰も確かな指示を出せていない。想定外だ。聖女の奇跡が、裏目に出ることなど、誰も考えてこなかった。
「凛香」
私は、もう一度だけ名前を呼んだ。
「力を、止めて」
「……止めたら、どうなるの」
「世界が、戻り始める」
それは、楽な道じゃない。回復の反動は、痛みを伴う。人々は、奇跡に慣れすぎている。
「……私は」
凛香の視線が揺れ、初めて、光の向こうにいる人々ではなく、自分の足元を見る。
「私は、何なの」
その問いは、力を持つ者の問いじゃない。ただの、迷子の声だった。
「聖女でしょ」
神官の一人が、必死に叫ぶ。
「選ばれた存在だ!」
その言葉に、凛香の肩がびくりと跳ねる。胸の奥の温もりが、強く、強く脈打った。今だ。
「……違う」
私は、はっきりと言った。
「あなたは、力を持った人間」
凛香が、私を見る。
「それ以上でも、それ以下でもない」
地鳴りが、三度目にして、最も大きく響いた。広場の端で、石畳が崩れ、悲鳴が上がる。
「澪!」
凛香が、叫んだ。
私は走った。考えるより先に、身体が動いていた。凛香の前に立ち、両手を広げる。胸の奥の温もりを、これまでで一番深く、世界へ流す。
個人じゃない。村でもない。
王都全体だ。
奪われ、引き延ばされ、ねじ曲げられた流れを、一気に正そうとすれば、反動で壊れる。だから、戻す。ゆっくりと、段階的に。
世界の悲鳴が、私の中を通り抜けていく。痛みはない。ただ、圧倒的な重さが、身体を満たす。膝が、自然と地面についた。
「……っ」
視界が揺れる。でも、離さない。手を伸ばし、凛香の手首を掴んだ。
「凛香、今!」
「……っ」
彼女の手が、震える。光が、暴れる。
「やめて!」
神官の声が飛ぶ。
「聖女様が危険だ!」
でも、凛香は、私の手を振り払わなかった。
「……怖い」
彼女は、初めて正直に言った。
「全部、失うのが」
「失わない」
私は、掴んだ手に、力を込めた。
「選ばれなくなるだけ」
その言葉に、凛香の目が、大きく見開かれる。
「……選ばれなくても」
彼女の声が、掠れる。
「……生きてて、いいの?」
その問いに、私は迷わなかった。
「いい」
胸の奥の温もりが、確信として広がる。
「生きてていい。何もしなくても、誰かに称えられなくても」
凛香の手から、力が抜けた。
光が、すっと弱まる。
人々の祈りが、途切れる。
地鳴りが、止まった。
完全ではない。でも、臨界は越えなかった。亀裂は広がらず、世界は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
広場に、重たい静寂が落ちる。
凛香は、その場に座り込んだ。光の消えた法衣が、ただの布に戻っている。
「……終わった?」
誰かが、恐る恐る言った。
「いいえ」
私は、息を整えながら答えた。
「始まっただけです」
奇跡に頼らない、回復の時間。
痛みと向き合う、現実の時間。
私は立ち上がり、凛香を見下ろした。
「これからは、世界が自分で戻る」
凛香は、涙をこぼしながら、何度も頷いた。
聖女の光が消えた夜。
世界は、初めて、本当の意味で静かになっていた。
△
静寂は、祈りが消えたから訪れたのではなかった。あれほど濃密に王都を満たしていた“何か”が、ようやく薄れ始めたからだ。耳鳴りのような感覚がゆっくり引いていき、人々は自分の呼吸の音を思い出したように、戸惑いながら息を吸っていた。誰も歓声を上げない。ただ、崩れていない地面と、まだ立っている城壁を、信じられないものを見る目で見つめている。
私は凛香の手を離し、その場にしゃがみ込んだ。全身に、重たい疲労がのしかかってくる。村で力を使った時とは比べものにならない。世界そのものを撫で直すような感覚は、私の内側を空にしていった。でも、不思議と怖くはなかった。空になった場所に、静かな納得が残っている。
「……聖女様」
神官の一人が、恐る恐る凛香に近づいた。声は震えているが、先ほどまでの陶酔はない。
「お怪我は……」
凛香は顔を上げた。涙で濡れた目は、はっきりと焦点を結んでいない。光に守られていた時の、あの確信に満ちた表情は消え、代わりに、戸惑いと疲労が滲んでいる。
「……分からない」
凛香は、正直に答えた。
「何が起きてるのか、全部」
その言葉に、神官は言葉を失った。聖女が“分からない”と言うこと自体が、彼らにとっては想定外なのだろう。騎士たちも、武器を構えたまま、動けずにいる。
私はゆっくりと立ち上がり、広場を見渡した。人々の中には、すでに膝をついている者がいる。奇跡が止まり、体の不調が戻り始めているのだ。でも、それは崩壊じゃない。無理に引き上げられていた分が、現実の速度に戻っているだけだ。
「……大丈夫ですか」
誰かが私に声をかけた。知らない顔。王都の住人だろう。私は頷いた。
「急に良くなった分、しばらくは辛くなります」
その言葉に、周囲がざわつく。
「じゃあ、また治してくれ!」
「聖女様、もう一度……!」
人々の声が、再び集まりかける。その瞬間、胸の奥がひくりと鳴った。私は、すぐに首を振る。
「できません」
はっきりと言った。その声は、思っていたよりも広場に響いた。
「今、同じことをすれば、次は本当に壊れます」
理解できないという顔が、いくつも向けられる。でも、さっきまでの盲信とは違う。恐怖と、迷いが混じった表情だ。
「……じゃあ、どうすればいい」
その問いに、私はすぐに答えられなかった。救いは、即効性のある答えを人に求めさせる。でも、現実はそうじゃない。
「休むこと」
私は、ゆっくりと言った。
「食べて、眠って、痛みがあれば耐えること。必要なら、薬や手当を受けること」
当たり前すぎる答えに、失望の色が走る。でも、それでも、私は続けた。
「それが、世界の回復です」
凛香が、私を見た。その目には、もう敵意はない。ただ、深い混乱がある。
「……あんたは」
凛香が、かすれた声で言う。
「最初から、これを知ってたの?」
「知ってたわけじゃない」
私は首を振った。
「感じてただけ」
胸の奥に、まだ微かに残っている温もりに、意識を向ける。それは、もう前みたいに強くない。でも、消えてもいない。役目を終えたわけじゃなく、次の段階に移っただけだ。
神官たちの間で、低い議論が始まった。聖女が奇跡を止めた今、王都の体制そのものが揺らいでいる。誰もが、次に何をすればいいのか分からない。
「……澪」
凛香が、もう一度私の名前を呼んだ。今度は、はっきりと。
「私、どうなるの」
その問いは、聖女としてではなく、一人の人間としての問いだった。
「分からない」
私は、正直に答えた。
「でも、少なくとも」
凛香の目を、真正面から見つめる。
「災厄には、ならない」
その言葉に、凛香の肩から、ふっと力が抜けた。彼女は、深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
夜風が、広場を抜けた。
光のない王都は、どこか脆く、そして現実的だった。
奇跡の時代は、終わりを告げた。
だが、混乱の時間は、まだ始まったばかりだった。
◇
混乱は、静かに、しかし確実に広がっていった。歓声も悲鳴もない。ただ、人々が自分の足で立ち、自分の身体の重さを思い出し、そして不安そうに周囲を見回している。その光景は、奇跡の熱狂よりも、ずっと現実的だった。
「聖女様を、奥へ」
神官の一人が、凛香の腕にそっと手を伸ばした。保護という名目の隔離。彼女の立場を考えれば、自然な流れだ。凛香は一瞬だけ私を見た後、抵抗せずに頷いた。
「……澪」
離れる直前、彼女は小さく私の名前を呼んだ。
「ごめん」
その一言に、胸の奥が、かすかに揺れた。学生時代にも、王城でも、聞いたことのない声だった。私は何も言わず、ただ小さく首を振った。それで十分だった。
凛香が神官に連れられて去ると、広場の中心は空白になった。そこに立つべき“象徴”が消えたことで、人々は初めて、自分たちが何にすがっていたのかを失ったのだと理解したようだった。
「……じゃあ、あんたは何者だ」
低い声がした。振り向くと、先ほどの年配の騎士が、私を見ていた。調査に来た時の、冷静な眼差しだ。
「名乗る必要はありません」
私は、静かに答えた。
「必要なことは、もう言いました」
騎士はしばらく私を見つめ、それから短く息を吐いた。
「聖女を否定し、王都を救った女……か」
「救ってはいません」
私は首を振る。
「壊れなかっただけです」
その言葉に、彼は小さく笑った。
「それを、救ったと言うんだ」
周囲で、騎士たちが動き始める。崩れかけた石畳を確認し、人々を誘導し、負傷者を運ぶ。奇跡がなくなっても、やるべきことは山ほどある。世界は、誰かが祈らなくても、回っていく。
私は広場の端へ歩き、石の縁に腰を下ろした。全身が、ひどく重い。胸の奥の温もりは、ほとんど感じられなくなっていた。使い切った、というより、静かに眠っている感覚だ。
「……終わった、のかな」
呟くと、夜風がそれをさらっていく。終わったのは、奇跡の連鎖だ。でも、物語は終わらない。むしろ、ここからが始まりだ。
しばらくして、女主人に似た雰囲気の女性が、私に水を差し出してくれた。
「飲みな」
「……ありがとうございます」
喉を潤すと、ようやく自分が生きている実感が戻ってくる。身体は疲れている。でも、心は、不思議と静かだった。
「さっきの話、聞いたよ」
女性は、広場を見渡しながら言った。
「奇跡は止まった。でも、あたしたちは、まだここにいる」
私は頷いた。
「それで、十分です」
女性は、ふっと笑った。
「欲張らないね」
「……欲張ると、壊れますから」
その言葉に、彼女は何も返さなかった。ただ、静かに水袋を持って立ち去った。
夜が深まるにつれ、王都は少しずつ、現実の速度を取り戻していった。祈りの声は減り、代わりに、生活の音が戻ってくる。誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが誰かを支える。それは、奇跡よりもずっと不格好で、ずっと人間的だった。
私は立ち上がり、王城を見上げた。凛香は、今、何を考えているだろう。選ばれなくなった自分を、どう受け止めるのか。それは、私が答えを出すことじゃない。彼女自身の問題だ。
「……私は」
胸の奥に、そっと問いかける。
「私は、これからどうするんだろう」
答えは、すぐには返ってこなかった。でも、焦りはなかった。村に戻ってもいい。王都に残ってもいい。どこにいても、私はもう、“無能”じゃない。
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