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最終話 触穢
1③
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間宮は器用に肘でドアを押し、ダイニングに入った。キッチンの流しに盥の水をざあっと空ける。
イスルギもダイニングに入ってくると、テーブルに大皿をごとりと置いた。
「そうそう——叔父さんの主治医もヘルパーさんたちも、君のことをすごく心配していたよ。特に主治医は、叔父さんを入院させるなり入所させるなりして君から引き剥がすべきだと言っていた。叔父さんの世話を続けている限り、君は十年前の悲劇にずっと向き合うことになり、つらい過去から逃れることはできないとね」
間宮は蛇口のレバーを上げてタオルを濯ぎ、かたく絞って盥の縁にかけた。イスルギはそれをダイニングテーブルの横からじっと見ながら言った。
「賢い君だ。そんなことはわかっているはずだ。――なのに自分にとってよりつらい選択をしてしまうのは、家族の中で唯一生き残ってしまった罪悪感によるものだろう」
間宮はぴたりと動きをとめた。
「自分を罰するために不幸を受け入れ、つらい思いをすることで自分の罪は贖われる。そういった思考回路に陥っている——と、叔父さんの主治医が言っていたよ。あの女医は君にずいぶん感情移入しているようだな。叔父の主治医であるのに。私なぞ、ちゃんとアルバイト先の上司だと名乗ったのに思い切り警戒の眼差しを向けられたよ」
それはイスルギが見るからに怪しげなせいだと間宮は思う。
「まあその女医でなくとも、君は本当に同情するに余りある不憫な境遇だ。幸せに恐怖を感じ不幸に安堵する——そういった歪んだ価値観を形成してしまうのも無理はない」
「……僕はそんな殊勝な人間じゃありません」
「――そうだろうな」
イスルギはざくっと林檎を噛み千切った。
「あの女医は君のことを悲劇のヒロインのごとくに思っているようだが、私はそうじゃない。大人しげな見た目で騙されがちだが、君はもっと狡猾だ。家族の復讐のために、自分の手の中に置いたんだろう? 在宅介護を選んだのも、病院や施設に入れてしまっては手が出せなくなるからな」
イスルギは林檎の一切れを平らげると、ゆっくりと近づいてきた。
「叔父さんは精神鑑定の結果、刑事責任能力がないと認められて無罪となったんだってね。あれだけのことをやっておいてな。司法が裁いてくれないのなら自分でやるしかない。そう考えるのが人情というものだ。だが――」
イスルギはキッチンカウンターを回り込み、間宮の背後に立った。シンクの縁を掴んだ間宮の手元に影が落ちる。
「普通の人間は、復讐などできやしない。特に君のようにまっとうな家庭に産まれ、健全な倫理観と優しさを育んできた人間は、人体を傷つけ、虐待するなんてことなどできないのが当たり前だ。事故物件での仕事で、親しくもない――むしろ嫌い寄りの三ツ橋くんをあんなふうに看病してあげたことを見ても善良な内面がうかがわれる。自分でも、復讐などできやしないと気づいたのだろう? そこで叔父を施設や病院に預ければよかったんだ。――だが君はそれをしなかった。いや、できなかったんだ。君はその時すでに、叔父を手放せなくなっていたからだ」
共依存という言葉を聞いたことないかね——イスルギは背後から間宮の肩口に顔を寄せて言う。
「共依存とはな、特定の相手との関係に依存しすぎる状態のことだ」
「……僕と叔父がそれだと?」
「君は、一家惨殺というセンセーショナルな事件の生き残りだ。メディアでずいぶん話題になったせいで、宗教関係者や妙な考えを持った人間がまとわりつくのは日常茶飯事だっただろう。まだ小学生の身空で——そのために人間不信になってもおかしくはない。まともな人間関係を築くのが難しいのはその生い立ちのためだ。特定の仲の良い友人も作らず、少しでも内面に踏み入ってこようものならすぐに心に壁を作ってしまう。しかも事件前の友人知人とはすでに縁は切れているんだろう? であればこの叔父が、唯一の深い人間関係と言える。どんなに恨んでいようと、一緒に暮らし、さらに世話までしているとなれば次第に情が湧いてくるものだ。さらに今となっては唯一の肉親だ。彼が君の元から去ってしまったら、ひとりぼっちになってしまうのだからな。……可哀想に。君の人生をめちゃくちゃにした男に依存してしまうとは」
イスルギは、さも同情するように言う。
「叔父を手放せなくなった君は、叔父を自分の手の内に置き、その一生を支配することが復讐だと己に言い聞かせることにしたのだ。そうもっともらしい理由をつけて受け入れがたい感情を納得させることを、心理学用語で合理化と言う。フラストレーションや葛藤から自らの心を守ろうとする防衛機制の一種だな」
私が解放してやろう——イスルギはそう言って、間宮の肩に手を置いた。
「君の叔父さんは、私たちが引き受ける。いつまでも十年前の惨劇に囚われているのはもったいないことだ。これからは、君は君の人生を歩むべきだ」
イスルギは言い聞かせるように囁いた。
間宮は——かすかに笑った。
「……見当違いも甚だしいな」
訝しげな顔をしたイスルギを、間宮は真正面から見返す。
「全然違いますよ。あなたは何もわかっちゃいない——」
気圧されたのごとく口を閉ざしたイスルギの手から、間宮は測定装置をすっと抜き取った。
「そこまで言うなら協力しましょう。叔父を通した世界を見れば、僕がなぜあの人の世話をしているか、わかってもらえると思いますよ」
イスルギもダイニングに入ってくると、テーブルに大皿をごとりと置いた。
「そうそう——叔父さんの主治医もヘルパーさんたちも、君のことをすごく心配していたよ。特に主治医は、叔父さんを入院させるなり入所させるなりして君から引き剥がすべきだと言っていた。叔父さんの世話を続けている限り、君は十年前の悲劇にずっと向き合うことになり、つらい過去から逃れることはできないとね」
間宮は蛇口のレバーを上げてタオルを濯ぎ、かたく絞って盥の縁にかけた。イスルギはそれをダイニングテーブルの横からじっと見ながら言った。
「賢い君だ。そんなことはわかっているはずだ。――なのに自分にとってよりつらい選択をしてしまうのは、家族の中で唯一生き残ってしまった罪悪感によるものだろう」
間宮はぴたりと動きをとめた。
「自分を罰するために不幸を受け入れ、つらい思いをすることで自分の罪は贖われる。そういった思考回路に陥っている——と、叔父さんの主治医が言っていたよ。あの女医は君にずいぶん感情移入しているようだな。叔父の主治医であるのに。私なぞ、ちゃんとアルバイト先の上司だと名乗ったのに思い切り警戒の眼差しを向けられたよ」
それはイスルギが見るからに怪しげなせいだと間宮は思う。
「まあその女医でなくとも、君は本当に同情するに余りある不憫な境遇だ。幸せに恐怖を感じ不幸に安堵する——そういった歪んだ価値観を形成してしまうのも無理はない」
「……僕はそんな殊勝な人間じゃありません」
「――そうだろうな」
イスルギはざくっと林檎を噛み千切った。
「あの女医は君のことを悲劇のヒロインのごとくに思っているようだが、私はそうじゃない。大人しげな見た目で騙されがちだが、君はもっと狡猾だ。家族の復讐のために、自分の手の中に置いたんだろう? 在宅介護を選んだのも、病院や施設に入れてしまっては手が出せなくなるからな」
イスルギは林檎の一切れを平らげると、ゆっくりと近づいてきた。
「叔父さんは精神鑑定の結果、刑事責任能力がないと認められて無罪となったんだってね。あれだけのことをやっておいてな。司法が裁いてくれないのなら自分でやるしかない。そう考えるのが人情というものだ。だが――」
イスルギはキッチンカウンターを回り込み、間宮の背後に立った。シンクの縁を掴んだ間宮の手元に影が落ちる。
「普通の人間は、復讐などできやしない。特に君のようにまっとうな家庭に産まれ、健全な倫理観と優しさを育んできた人間は、人体を傷つけ、虐待するなんてことなどできないのが当たり前だ。事故物件での仕事で、親しくもない――むしろ嫌い寄りの三ツ橋くんをあんなふうに看病してあげたことを見ても善良な内面がうかがわれる。自分でも、復讐などできやしないと気づいたのだろう? そこで叔父を施設や病院に預ければよかったんだ。――だが君はそれをしなかった。いや、できなかったんだ。君はその時すでに、叔父を手放せなくなっていたからだ」
共依存という言葉を聞いたことないかね——イスルギは背後から間宮の肩口に顔を寄せて言う。
「共依存とはな、特定の相手との関係に依存しすぎる状態のことだ」
「……僕と叔父がそれだと?」
「君は、一家惨殺というセンセーショナルな事件の生き残りだ。メディアでずいぶん話題になったせいで、宗教関係者や妙な考えを持った人間がまとわりつくのは日常茶飯事だっただろう。まだ小学生の身空で——そのために人間不信になってもおかしくはない。まともな人間関係を築くのが難しいのはその生い立ちのためだ。特定の仲の良い友人も作らず、少しでも内面に踏み入ってこようものならすぐに心に壁を作ってしまう。しかも事件前の友人知人とはすでに縁は切れているんだろう? であればこの叔父が、唯一の深い人間関係と言える。どんなに恨んでいようと、一緒に暮らし、さらに世話までしているとなれば次第に情が湧いてくるものだ。さらに今となっては唯一の肉親だ。彼が君の元から去ってしまったら、ひとりぼっちになってしまうのだからな。……可哀想に。君の人生をめちゃくちゃにした男に依存してしまうとは」
イスルギは、さも同情するように言う。
「叔父を手放せなくなった君は、叔父を自分の手の内に置き、その一生を支配することが復讐だと己に言い聞かせることにしたのだ。そうもっともらしい理由をつけて受け入れがたい感情を納得させることを、心理学用語で合理化と言う。フラストレーションや葛藤から自らの心を守ろうとする防衛機制の一種だな」
私が解放してやろう——イスルギはそう言って、間宮の肩に手を置いた。
「君の叔父さんは、私たちが引き受ける。いつまでも十年前の惨劇に囚われているのはもったいないことだ。これからは、君は君の人生を歩むべきだ」
イスルギは言い聞かせるように囁いた。
間宮は——かすかに笑った。
「……見当違いも甚だしいな」
訝しげな顔をしたイスルギを、間宮は真正面から見返す。
「全然違いますよ。あなたは何もわかっちゃいない——」
気圧されたのごとく口を閉ざしたイスルギの手から、間宮は測定装置をすっと抜き取った。
「そこまで言うなら協力しましょう。叔父を通した世界を見れば、僕がなぜあの人の世話をしているか、わかってもらえると思いますよ」
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