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最終話 触穢
2①
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ピンポンピンポンピンポン――。
秋うららな土曜日の朝八時半。イスルギは陰鬱かつ厳しい表情で呼び鈴を鳴らし続けていた。
五分あまりも連打したのち、ようやく間宮はインターホンに出た。
「何ですか。いい歳して朝っぱらからピンポンダッシュですか。近所迷惑ですよイスルギさん」
「君が出るのが遅いからだ」
スピーカーの声は一瞬絶句した。
「それにダッシュはしていない。入れてくれるね? 話があるんだ」
「嫌です」
「——叔父さんの記憶データを見たよ」
間宮は沈黙する。
「叔父さんに圧しかかっている三つの黒い影——あれは夢の中で君を追い回していたものと同じものだろう」
「……こんな往来で妙なことを口走るのやめてください」
今開けますから――いかにも渋々といった口調で通話が切られた。しばしの間の後、玄関ドアが開く。
この上なく不機嫌な顔が覗いた瞬間、イスルギはドアの隙間にがんと革靴を踏み込んだ。
「――あの黒い影はなんだ?」
間宮は睨むように見上げてきた。
イスルギは返答を待たず、ドアの縁を掴んでぐいっと引き開けた。玄関にあがり込み、叔父の居室へと向かう。
「ちょっと——」
咎める声が背後から追ってきたが、イスルギは構わず無垢材の廊下を進んでいった。
間宮家の間取りは彼の夢で何度も見ており、我が家のごとく頭に入っていた。
居室のドアを開けるなり、ぶつぶつと怖気立つような呟き耳に入ってきた。イスルギは面食らったように足をとめた。
「……叔父さんは失声症だとあの主治医は言っていたが、喋るじゃないか」
「え?」
後ろから追いついた間宮が声を上げた。
「しかしこんなものを聞き続けて、頭がおかしくならないかね」
顔を顰めたイスルギを、間宮はきょとんと見返した。だがすぐにその表情は険しくなる。
「もちろん慣れませんよ。……いつまでたってもね」
イスルギはふんと間宮を見下ろした。
「介助の最中だったのだろう。続けながらでいいから」
間宮は、はっと自分の手に目を馳せた。爪切りを持ったままのことに今気づいたようだった。
気を利かして言ってやったのに、間宮の眉間の皴はさらに深くなる。イスルギは間宮のこの顔が嫌いではないのだが、この時ばかりは余裕がなく、その顔を睨み返した。
「もう一度聞くが、あの黒い影は一体何だ? 君は知っているんだろう」
「何だも何も、僕の家族ですよ。僕の夢で、あれが家族の体から出てきたのをあなたも見たんでしょう?」
間宮はイスルギの前を通り過ぎ、叔父の介護ベッドの脇に立った。薄掛けの上にティッシュペーパーを一枚置き、痩せて骨ばった叔父の手を取る。
「やはりあれは君の家族なんだな?」
イスルギは間宮の真横に立つと、念を押すように問うた。
「そうですよ。叔父は自分が殺した人間に祟られているんです。別に珍しい話じゃないでしょう、あなたのまわりでは」
そんなお仕事をされてるんだから——間宮はそれほど伸びていない爪に爪切りの刃を噛ませながら言った。
「叔父さんが君の家族に祟られるのはわかる。因果関係があるからな。だが――うちの顧客にまで累が及んでいるのはどうゆうわけだ⁉︎」
イスルギは間宮を見据え、珍しく声を荒げた。
「君の記憶を体験した人間に次々と障りが起きている。苦情がすでに何件も入っているんだ。原因不明の頭痛に蕁麻疹、耳鳴り、不眠、鬱症状——それが進むと三体の黒い影が現れる。気が狂いそうだとな。君の叔父さんの記憶で見た状況と同じだ。君のご家族の障りとしか考えられん」
こっちは修祓にてんやわんやだ、とイスルギは疲労に荒んだ面持ちで奥歯を食いしばる。この頭痛の原因も間宮の家族の障りだったのだ。どおりで一々こまめに祓っても清めても治まらないわけである。記憶データをチェックするたびに、新たに障りを受けていたのだから。
「だが理解できないのは——君に障りがないことだ」
イスルギは充血した目を間宮に向けた。
「神道には『触穢』という考え方がある。不浄とされる穢れに接触すると汚染されるというものだ。つまり、悪いものは近づいたり触れたりすると移る。同居することで君の家族の障りが叔父から間宮くんに移り、間宮くんの記憶を経由して顧客に移ったとしか考えられない。——だが、君を介したというのなら、君にも障りがあるはずなんだ。なのに君は霊障をなんら受けている様子はない。君の記憶データにも黒い影は映っていない。それに合点がいかないんだ」
イスルギは眉間にぐっと皴を寄せ、額に手を当てた。
「——それはですね。家族が憑いているのは叔父でなく、僕だからです」
「……何?」
ぱちんぱちんと小気味よい音を立てて爪を切りながら、間宮は続けた。
「ですから、僕が感染源なんですよ」
「いや——だから君の記憶データにあの黒い影は映っていないじゃないか」
「それは僕が宿主だからです。僕の中にいるから、一見その姿は見えない」
「中に……だと?」
間宮は一度手をとめ——ええ、と顔を上げた。
「なぜかね、家族は死後、僕の元に来たんですよ。自分たちに手をかけた叔父でなく。そして僕の中に棲み付いた。僕はあの蜘蛛の化け物の根城である廃別荘みたいなものなんです。家族は僕の中から出て行って、叔父を苛んでいる」
イスルギは思わず叔父に目を馳せたが、そこには影ひとつ見えなかった。身動ぎひとつせず虚空を見つめたままである。
秋うららな土曜日の朝八時半。イスルギは陰鬱かつ厳しい表情で呼び鈴を鳴らし続けていた。
五分あまりも連打したのち、ようやく間宮はインターホンに出た。
「何ですか。いい歳して朝っぱらからピンポンダッシュですか。近所迷惑ですよイスルギさん」
「君が出るのが遅いからだ」
スピーカーの声は一瞬絶句した。
「それにダッシュはしていない。入れてくれるね? 話があるんだ」
「嫌です」
「——叔父さんの記憶データを見たよ」
間宮は沈黙する。
「叔父さんに圧しかかっている三つの黒い影——あれは夢の中で君を追い回していたものと同じものだろう」
「……こんな往来で妙なことを口走るのやめてください」
今開けますから――いかにも渋々といった口調で通話が切られた。しばしの間の後、玄関ドアが開く。
この上なく不機嫌な顔が覗いた瞬間、イスルギはドアの隙間にがんと革靴を踏み込んだ。
「――あの黒い影はなんだ?」
間宮は睨むように見上げてきた。
イスルギは返答を待たず、ドアの縁を掴んでぐいっと引き開けた。玄関にあがり込み、叔父の居室へと向かう。
「ちょっと——」
咎める声が背後から追ってきたが、イスルギは構わず無垢材の廊下を進んでいった。
間宮家の間取りは彼の夢で何度も見ており、我が家のごとく頭に入っていた。
居室のドアを開けるなり、ぶつぶつと怖気立つような呟き耳に入ってきた。イスルギは面食らったように足をとめた。
「……叔父さんは失声症だとあの主治医は言っていたが、喋るじゃないか」
「え?」
後ろから追いついた間宮が声を上げた。
「しかしこんなものを聞き続けて、頭がおかしくならないかね」
顔を顰めたイスルギを、間宮はきょとんと見返した。だがすぐにその表情は険しくなる。
「もちろん慣れませんよ。……いつまでたってもね」
イスルギはふんと間宮を見下ろした。
「介助の最中だったのだろう。続けながらでいいから」
間宮は、はっと自分の手に目を馳せた。爪切りを持ったままのことに今気づいたようだった。
気を利かして言ってやったのに、間宮の眉間の皴はさらに深くなる。イスルギは間宮のこの顔が嫌いではないのだが、この時ばかりは余裕がなく、その顔を睨み返した。
「もう一度聞くが、あの黒い影は一体何だ? 君は知っているんだろう」
「何だも何も、僕の家族ですよ。僕の夢で、あれが家族の体から出てきたのをあなたも見たんでしょう?」
間宮はイスルギの前を通り過ぎ、叔父の介護ベッドの脇に立った。薄掛けの上にティッシュペーパーを一枚置き、痩せて骨ばった叔父の手を取る。
「やはりあれは君の家族なんだな?」
イスルギは間宮の真横に立つと、念を押すように問うた。
「そうですよ。叔父は自分が殺した人間に祟られているんです。別に珍しい話じゃないでしょう、あなたのまわりでは」
そんなお仕事をされてるんだから——間宮はそれほど伸びていない爪に爪切りの刃を噛ませながら言った。
「叔父さんが君の家族に祟られるのはわかる。因果関係があるからな。だが――うちの顧客にまで累が及んでいるのはどうゆうわけだ⁉︎」
イスルギは間宮を見据え、珍しく声を荒げた。
「君の記憶を体験した人間に次々と障りが起きている。苦情がすでに何件も入っているんだ。原因不明の頭痛に蕁麻疹、耳鳴り、不眠、鬱症状——それが進むと三体の黒い影が現れる。気が狂いそうだとな。君の叔父さんの記憶で見た状況と同じだ。君のご家族の障りとしか考えられん」
こっちは修祓にてんやわんやだ、とイスルギは疲労に荒んだ面持ちで奥歯を食いしばる。この頭痛の原因も間宮の家族の障りだったのだ。どおりで一々こまめに祓っても清めても治まらないわけである。記憶データをチェックするたびに、新たに障りを受けていたのだから。
「だが理解できないのは——君に障りがないことだ」
イスルギは充血した目を間宮に向けた。
「神道には『触穢』という考え方がある。不浄とされる穢れに接触すると汚染されるというものだ。つまり、悪いものは近づいたり触れたりすると移る。同居することで君の家族の障りが叔父から間宮くんに移り、間宮くんの記憶を経由して顧客に移ったとしか考えられない。——だが、君を介したというのなら、君にも障りがあるはずなんだ。なのに君は霊障をなんら受けている様子はない。君の記憶データにも黒い影は映っていない。それに合点がいかないんだ」
イスルギは眉間にぐっと皴を寄せ、額に手を当てた。
「——それはですね。家族が憑いているのは叔父でなく、僕だからです」
「……何?」
ぱちんぱちんと小気味よい音を立てて爪を切りながら、間宮は続けた。
「ですから、僕が感染源なんですよ」
「いや——だから君の記憶データにあの黒い影は映っていないじゃないか」
「それは僕が宿主だからです。僕の中にいるから、一見その姿は見えない」
「中に……だと?」
間宮は一度手をとめ——ええ、と顔を上げた。
「なぜかね、家族は死後、僕の元に来たんですよ。自分たちに手をかけた叔父でなく。そして僕の中に棲み付いた。僕はあの蜘蛛の化け物の根城である廃別荘みたいなものなんです。家族は僕の中から出て行って、叔父を苛んでいる」
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