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第3章 接近
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——別れてもいい。元々好きじゃなかった。
その言葉に触れた瞬間、僕の中に一つの記憶がよみがえった。あの日、彼女が言っていた——好きな相手なら、奪っちゃえばいいんだよ。という台詞を。
人の流れが止まったタイミングで、僕は勇気を出してもう一歩だけ踏み込んだ。
「じゃあどうして、付き合い始めたの?」
一段上にいる彼女は思っていたより近くて、うっかりふらつこうものなら、顔が胸元に触れそうな距離だった。視線を彼女の顔に合わせるため、反るように体を傾け、手すりをつかんでバランスを取る。
「気になる?」
「……うん」
素直に頷くと、彼女はふっと笑った。相変わらず可愛いその笑みには、でも、どこか寂しげな影が差していた。
「去年の夏、彼が部活引退したあとに告白されてね。そのときは断ったの。確かに仲は良かったし、優しい先輩だなとは思ってたけど、恋とは違うかなって。でもその後も何度かアプローチされて……それで、雪乃に相談したんだ。そしたら『せっかくだし、一度付き合ってみれば?』って。『中学生の恋愛なんてそんなもの』『その後ほんとに好きな人ができた時のために、経験はあったほうがいい』って」
「なるほど……」
雪乃とは、三角さんのことだ。同じクラスで手紙を送り合うような仲だし、同じ水泳部に所属しているのだから、相談するのも無理はない。けれど、彼女がもし「やめとけ」と言ってくれていれば、去年あれほどショックを受けずに済んだのかもしれない。そんなもしもを考えると、胸がじんわり痛んだ。
『なるほど』以上の言葉が出せない僕に、彼女はふと遠くの景色へと目を向け、静かに語り始めた。
「でも、今『異性として好きか』って聞かれたら……正直、分かんない。高校に入ってから、彼、いろいろ変わっちゃってさ。『週末会える?』って聞いても『部活』って一言だけの返事だったり、逆に突然『今日会えない?』って電話してきて、私が『ごめん、用事ある』って断るとすごく機嫌悪くなったり」
彼女は少しだけ笑ったが、その表情に明るさはなかった。
「そんな人じゃなかったんだよ?前はもっと、優しくて、落ち着いてて。……お互い中学生の頃とは、やっぱり違うんだなって思う」
確かに、高校に進学すれば立場も環境もがらっと変わる。僕自身、中学生になったとき、小学生がずいぶん幼く見えたものだ。あの先輩には、今僕らがそう見えているのかもしれない。
「でも……意外と、そうやって急に誘ってきたりもするんだね」
「うん。都合のいいときだけね」
その返事は、まるで自嘲のようだった。彼女の清楚な印象に引きずられて、僕はその裏にある感情を見逃しかけていた。
もし本当に忙しい中で誘っているなら、それはまだ想ってくれている証かもしれない。だけど——その一言は、僕に向けた返答というより、無意識に漏れ出た本心のように聞こえた。
どこか乾いた声色。
遠くを見るその瞳も、微かに冷めていた。
そのとき、ようやく僕は『都合が良い』という言葉の意味を理解した。
会いたい時だけ誘う。それでいて、会えないと不機嫌になる。
次第に、腹の底から、じわじわと怒りが込み上げてきた。
——こんなに可愛くて優しい子を、あの先輩はただ都合のいい存在として扱っていたのか?
想像するだけで、胸の奥が軋む。
一瞬でも「健気かも」と感じた自分が、今はもう恥ずかしい。
あの先輩に……いや、あの男に、この子と付き合う資格なんてあるものか。
不意に、彼女の黒髪が鼻先を掠めた。空気に溶けるようなやわらかい香りが、遅れて鼻腔をくすぐる。——列が動いたことに、彼女が気づいたらしい。
怒りに囚われ、視野がすっかり狭くなっていた僕は、次の言葉を発するタイミングを逃した。
運悪く、階段を上りきったところで、そのまま最後尾の席へと案内される。もしここで立ち止まっていれば——きっと、まだ続きを話せたはずなのに。案の定、乗車口にたどり着いた彼女は「ドキドキしてきた」と笑って、気持ちはすでにアトラクションへ向いていた。こうなると、今さら掘り返すこともできず、僕は観念してその笑顔と同じ方向に意識を向けるしかなかった。
目の前の車両は、ピンクのレールとは印象の違う鮮やかな赤で、安全バーは肩から腰に下ろすタイプだった。回転こそしないが、立ち乗り型と見た目を揃えるためか、やや大袈裟な固定方式になっている。
「あっ」
安全バーを下そうとした瞬間、彼女が小さく声を漏らした。
「どうかした?」
「ヘアゴム落としちゃった」
足元には、あのご当地キャラクターがモチーフのゴムが転がっていた。いつの間に買ったんだ?そう思いながらも、身動きの取れない彼女に代わって拾い上げる。
「買い物、してたっけ?」
「ふふっ、可愛いでしょ。ついでに付けてくれる?」
「……え?」
動揺する僕を他所に、彼女は後ろ髪をこちらに向けた。
——前列の準備は、もう終わりかけている。
もたつく余裕はない。僕は彼女に寄り、一度さっと髪を流し、親指で耳元をなぞるようにして髪を集めた。右手でゴムを通して、一束にまとめる。……ぎこちないながらも、なんとか形にはなった。
安堵したのも束の間。指の隙間からすり抜ける細くやわらかな髪の感触が、遅れて意識に届いた。首筋に一瞬触れたときのぬくもりまでもが、じわじわと染み込んでくる。
「ありがと。明希くん、意外と手慣れてるね?」
「いや……初めてだよ」
「うそだー。それは信じられないなあ」
からかいながら笑みを浮かべる彼女には、流石に本当のことは言えない。後ろの席でよく見ていたからだ、なんて。
その言葉に触れた瞬間、僕の中に一つの記憶がよみがえった。あの日、彼女が言っていた——好きな相手なら、奪っちゃえばいいんだよ。という台詞を。
人の流れが止まったタイミングで、僕は勇気を出してもう一歩だけ踏み込んだ。
「じゃあどうして、付き合い始めたの?」
一段上にいる彼女は思っていたより近くて、うっかりふらつこうものなら、顔が胸元に触れそうな距離だった。視線を彼女の顔に合わせるため、反るように体を傾け、手すりをつかんでバランスを取る。
「気になる?」
「……うん」
素直に頷くと、彼女はふっと笑った。相変わらず可愛いその笑みには、でも、どこか寂しげな影が差していた。
「去年の夏、彼が部活引退したあとに告白されてね。そのときは断ったの。確かに仲は良かったし、優しい先輩だなとは思ってたけど、恋とは違うかなって。でもその後も何度かアプローチされて……それで、雪乃に相談したんだ。そしたら『せっかくだし、一度付き合ってみれば?』って。『中学生の恋愛なんてそんなもの』『その後ほんとに好きな人ができた時のために、経験はあったほうがいい』って」
「なるほど……」
雪乃とは、三角さんのことだ。同じクラスで手紙を送り合うような仲だし、同じ水泳部に所属しているのだから、相談するのも無理はない。けれど、彼女がもし「やめとけ」と言ってくれていれば、去年あれほどショックを受けずに済んだのかもしれない。そんなもしもを考えると、胸がじんわり痛んだ。
『なるほど』以上の言葉が出せない僕に、彼女はふと遠くの景色へと目を向け、静かに語り始めた。
「でも、今『異性として好きか』って聞かれたら……正直、分かんない。高校に入ってから、彼、いろいろ変わっちゃってさ。『週末会える?』って聞いても『部活』って一言だけの返事だったり、逆に突然『今日会えない?』って電話してきて、私が『ごめん、用事ある』って断るとすごく機嫌悪くなったり」
彼女は少しだけ笑ったが、その表情に明るさはなかった。
「そんな人じゃなかったんだよ?前はもっと、優しくて、落ち着いてて。……お互い中学生の頃とは、やっぱり違うんだなって思う」
確かに、高校に進学すれば立場も環境もがらっと変わる。僕自身、中学生になったとき、小学生がずいぶん幼く見えたものだ。あの先輩には、今僕らがそう見えているのかもしれない。
「でも……意外と、そうやって急に誘ってきたりもするんだね」
「うん。都合のいいときだけね」
その返事は、まるで自嘲のようだった。彼女の清楚な印象に引きずられて、僕はその裏にある感情を見逃しかけていた。
もし本当に忙しい中で誘っているなら、それはまだ想ってくれている証かもしれない。だけど——その一言は、僕に向けた返答というより、無意識に漏れ出た本心のように聞こえた。
どこか乾いた声色。
遠くを見るその瞳も、微かに冷めていた。
そのとき、ようやく僕は『都合が良い』という言葉の意味を理解した。
会いたい時だけ誘う。それでいて、会えないと不機嫌になる。
次第に、腹の底から、じわじわと怒りが込み上げてきた。
——こんなに可愛くて優しい子を、あの先輩はただ都合のいい存在として扱っていたのか?
想像するだけで、胸の奥が軋む。
一瞬でも「健気かも」と感じた自分が、今はもう恥ずかしい。
あの先輩に……いや、あの男に、この子と付き合う資格なんてあるものか。
不意に、彼女の黒髪が鼻先を掠めた。空気に溶けるようなやわらかい香りが、遅れて鼻腔をくすぐる。——列が動いたことに、彼女が気づいたらしい。
怒りに囚われ、視野がすっかり狭くなっていた僕は、次の言葉を発するタイミングを逃した。
運悪く、階段を上りきったところで、そのまま最後尾の席へと案内される。もしここで立ち止まっていれば——きっと、まだ続きを話せたはずなのに。案の定、乗車口にたどり着いた彼女は「ドキドキしてきた」と笑って、気持ちはすでにアトラクションへ向いていた。こうなると、今さら掘り返すこともできず、僕は観念してその笑顔と同じ方向に意識を向けるしかなかった。
目の前の車両は、ピンクのレールとは印象の違う鮮やかな赤で、安全バーは肩から腰に下ろすタイプだった。回転こそしないが、立ち乗り型と見た目を揃えるためか、やや大袈裟な固定方式になっている。
「あっ」
安全バーを下そうとした瞬間、彼女が小さく声を漏らした。
「どうかした?」
「ヘアゴム落としちゃった」
足元には、あのご当地キャラクターがモチーフのゴムが転がっていた。いつの間に買ったんだ?そう思いながらも、身動きの取れない彼女に代わって拾い上げる。
「買い物、してたっけ?」
「ふふっ、可愛いでしょ。ついでに付けてくれる?」
「……え?」
動揺する僕を他所に、彼女は後ろ髪をこちらに向けた。
——前列の準備は、もう終わりかけている。
もたつく余裕はない。僕は彼女に寄り、一度さっと髪を流し、親指で耳元をなぞるようにして髪を集めた。右手でゴムを通して、一束にまとめる。……ぎこちないながらも、なんとか形にはなった。
安堵したのも束の間。指の隙間からすり抜ける細くやわらかな髪の感触が、遅れて意識に届いた。首筋に一瞬触れたときのぬくもりまでもが、じわじわと染み込んでくる。
「ありがと。明希くん、意外と手慣れてるね?」
「いや……初めてだよ」
「うそだー。それは信じられないなあ」
からかいながら笑みを浮かべる彼女には、流石に本当のことは言えない。後ろの席でよく見ていたからだ、なんて。
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