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1 君だけのスーツ
しおりを挟むオーダースーツ専門店「ブルーモーメント」。間接照明は控えめで全体的に落ち着いた隠れ家のような雰囲気。壁には外国製の美しい生地が並んでいる。
時間は午後2時。店内の鏡の前には二人の男がいる。
「ただの学生にオーダースーツなんてもったいないですよ」
鏡越しに佐倉蘭は後方に立つ加瀬和也に言った。加瀬は先ほどから満足げに微笑んで蘭を見つめている。
「もったいなくないよ。蘭くんの誕生日なんだから。それにこのスーツ、とっても似合ってるよ」
加瀬の蘭を見つめる目は優しい。
加瀬の着るスーツが店内の間接照明を受けて光っている。光沢を帯びたウール生地は一目で上質なものだとわかる。それが高身長な加瀬にとても似合う。
―― あー。今日もかっこいい。カッコ良すぎる。世界中の人に言ってまわりたい。この人、俺の彼氏ですよって!ー
「蘭くん?」
「え?」
「どうしたの?ぼーとして」
「あー、いや、今日も加瀬さんがかっこよくてこの人が俺の彼氏だなんて夢みたいで」
加瀬がふっと微笑む。いつもは切れ長の目がクールなイメージを生み出しているが、笑うと目尻に皺が寄って一気に優しい雰囲気になる。そこも蘭は好きだ。
「かっこいいのは蘭くんだよ。ほら、見て。このスーツやっぱり蘭くんに似合ってる。よかった、いいのができて」
「加瀬さんが作ってくれたスーツですもん。加瀬さんのおかげです。やっぱり加瀬さんの作るスーツって好きだな」
「ありがとう」
加瀬はテーラーだ。今業界大注目のテーラー。加瀬の作るスーツは美しい。素材、色、その人だけの特別なスーツを加瀬は思いを込めて一つ一つ丁寧に仕上げる。
オーダースーツの注文は殺到しており、五年先の予約まである。
「加瀬さん、忙しいのに俺なんかのためにスーツを作ってくれて…」
「僕が作りたかったんだ。蘭くんのスーツ。蘭くんが特別だから、特別なスーツを作りたくて。僕も蘭くんのスーツが作れて幸せだよ」
加瀬の声はとても甘い。普段加瀬は柔和だが恋人に対する時は特別に甘くなる。蘭は密かにうっとりして加瀬を見つめた。
「それにしても。ただの学生って君、聞き捨てならないな。今をときめきトップモデルさんが。今月の雑誌も見たよ。蘭くんが表紙の。ほら、あそこに置いてある」
加瀬の指先を辿ると、店内の雑誌コーナーには蘭の表紙の雑誌が3冊ほど置かれていた。
「え!?見てくれたんですね。それにお店にまで。嬉しい」
蘭は確かにただの学生ではない。トップモデルなんてとんでもないが大学に通いながらモデルの仕事をしている。
高校生の頃にスカウトされたのがきっかけだった。最初の頃は業界の勝手が分からず、戸惑ったがこの仕事が好きになっていった。色んな服を着てカメラの前で自分を見せる。自分を表現する。それがとても楽しい。色んな業界の人と会えるのもこの仕事の魅力だ。
この仕事をしていたから加瀬とも出会えた。
「でも、スーツを着る機会って少ないんですよね。せっかく加瀬さんが作ってくれたスーツたくさん着たいんですけど」
もっと着たい。加瀬のスーツ。どうすれば…
「いっそ、モデルやめて普通に就職すればこのスーツたくさん着れ…」
「蘭くん」 加瀬が遮る。見ると困ったように笑う加瀬と目があった。
「君にモデルをやめて欲しくてスーツを作ったわけじゃないんだよ。それに、スーツは僕と特別な時だけ着るっていうのはどうかな?そしたらスーツも特別感があっていいでしょ」
それに、と加瀬は蘭の耳に唇を寄せる。
「普段たくさんの人に蘭くんを見せてるんだからスーツ姿の蘭くんは僕だけに見せてよ。僕のスーツで僕だけの蘭くんだって実感させて」
「!?」
一気に顔や耳に熱が集中する。
ー あー、不意打ちやばい。ずるい。ズルすぎる。あー好き。加瀬さん!今すぐ抱きしめたい。ー
「ごほん」
その時、低い咳払いが後方から聞こえた。後ろを見ると原が不機嫌な顔で腕組みをしてこちらを睨んでいた。
「二人だけの世界に浸るのはいいですが、ここは店です。少し慎んでいただけますか。それに店長」
原は加瀬を睨む。
「その顔はなんですか。若い彼氏の前で鼻の下を伸ばして。デレデレするのはいいですが、プライベートだけにしてください。ここはあなたの店です。自覚を持って…」
「悪かった、原。いや、蘭くんと会うのは久しぶりでどうにも上がってしまったんだ」
原は加瀬と「ブルーモーメント」を共同経営している。服飾学校からの同期で経営の方はほぼ原に任せている。
だから加瀬は原には頭が上がらない。
「すみません、原さん」
蘭が原に頭を下げる。濃い眉と筋肉質な体。強面の原だが、人一倍思いやりがあって優しいのは知っている。
蘭を見てやれやれと首をふる。
「ほどほどにしてくださいよ。久しぶりに会ってお互い嬉しいのは分かりますが」
加瀬と蘭はお互い顔を見合わせる。そう、今日は久しぶりに会うのだ。お互い時間が合わない。蘭は学生とモデルの二足の草鞋を履く。加瀬は人気のテーラー。
恋人としては時間がなさすぎる。だから今日は特別だ。自分の誕生日に加瀬の作ってくれたスーツを着て一緒にいる。
「加瀬さん、ありがとうございます。このスーツ大切にします」
「うん。こちらこそ、気に入ってもらえて嬉しいよ」
お互い顔を見合わせてふふっと笑い合う。甘い雰囲気が店を満たす。
「ごほん」
原の二度目の咳払いが出た。原はため息をつく。
「もう。店長。今日は店はいいので帰ってください」
「え?でも原、…」
「あいにく、今日はそんなに予約がないですし、こんなデレデレしていては仕事に支障が出ますから」
原は冷たく言い放つ。その裏に今日ぐらいはゆっくり二人で過ごしてという優しい気持ちがあることを二人はわかっていた。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
お互い原に礼を言った。
今日はまだ加瀬と一緒にいられる。何をしよう。恋人らしいことをしたいな。隣を見ると優しい表情をした加瀬と目が合う。大好きな恋人とその恋人が作ったスーツを着て一緒にいられる。なんて幸せだろう。
蘭は今日とびきりの笑みを加瀬に向けた。
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