トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

文字の大きさ
81 / 237
7章

7

しおりを挟む
 ぶるりと身を震わせたのは、刺すような寒さのせいだ。思わず両腕を掴んだ志貴に、暖めるように肩を抱いて一洋は帰路へと促した。

「コーヒーでも飲んでから帰るか」

 旧市街の中心に位置する、美しく風格のあるマヨール広場の喫茶店で暖を取り、市場に寄って買った物を受け取ると、二人は来た道を歩いて志貴の自宅へ戻った。
 一休みする間もなく、自前の前掛け姿で客間から現れた一洋は、早速買ってきた物の調理に取り掛かる。手持ち無沙汰に横から覗き込む志貴に苦笑しながら、一洋は台の上に置かれていた包みを開いてみせた。
 包みの中から現れたのは、大量の干し塩鱈バカラオだった。

マドリードここだと、どうしても肉料理が多くなるだろう。バカラオはガルシア夫人に頼んで、今日食べる分を朝から戻しておいてもらった。この休みは、なるべく魚介を食べたいと思ってな」
「魚介」
「できるだけ和食で」
「和食」

 マドリードは内陸の高地にあり、新鮮な魚介を手に入れるのは難しい土地柄、名物と言われる料理はすべて肉料理だ。ガルシア夫人の手料理も、志貴の好みを反映してなるべくあっさりした味付けとなってはいるが、肉と豆や野菜の煮込みが多い。海外暮らしが長く、米や魚を食べられなくても特に問題なく過ごせる志貴だったが、恋しくないわけではない。
 涎を垂らしていたわけではないが、顔に出たのだろう。一洋はおかしそうに口の端を引き上げると、くしゃっと志貴の頭を撫でた。

「……そんなに期待した顔をされると、腕が鳴るな。うまいもんを食わせてやるから、楽しみにしていろ」

 昼食は、買ってきたばかりの牡蠣を丁寧に洗い、殻に戻して蒸した物と、海老の塩焼きが、発泡酒とともに出された。檸檬を絞り、一洋が持ち込んだ貴重な醤油を数滴垂らして食べる牡蠣はぷりぷりとしており、さっぱりしていながらも濃厚な味わいで、いくつでも食べられそうだ。焼きたての海老は香ばしく、噛み締めるほどに甘さが口に広がる。

「マドリードは海が遠いから鮮度が心配だったんだが、食べられないことはないな」
「美味しいよ、すごく」
「牡蠣も海老もまだあるから、どんどん食えよ」

 昼間から飲む発泡酒は、罪悪感という妙味も加わって、心地好く体内を巡っていく。寒天の下、長い散歩を楽しんだ軽い疲労もあり、また久しぶりの素朴な――それゆえに素材の味が引き立つ海の幸で満腹となり、まったりとした倦怠感に包まれる。
 食後は、台所に入ることも仕事の資料を読むことも禁じられ、ゆっくり休むように命じられた。一人だけ働かせるわけにはいかないと手伝いを申し出たが、微笑みながらもきっぱりと断られ、すごすごと引き下がる。
 居間のソファで手持ち無沙汰に一洋を待ちながら、志貴はいつしかクッション越しに腕置きへ身を預け、吸い込まれるようにうたた寝していた。満腹と軽い酔い、そしてこのところの睡眠不足が、強力な睡魔に姿を変えたのだ。
 居間から物音がしないことに気づいた一洋が台所から顔を覗かせ、その様に目を細める。そっと掛けられた毛布に、眠りの中の志貴が気づくことはなかった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

あなたと過ごせた日々は幸せでした

蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦

雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、 隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。 しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです… オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が なかたのでした。 本当の花嫁じゃない。 だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、 だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という お話です。よろしくお願いします<(_ _)>

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

あなたの隣で初めての恋を知る

彩矢
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。 その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。 そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。 一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。 初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。 表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

処理中です...