トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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7章

6

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「この後は何を買うの?」
「買い物はもういいんだが、少し足を伸ばさないか」
「いいけど、どこへ?」
「プラド美術館」

 思い掛けない目的地に、志貴は隣を歩く一洋の顔を見上げた。

「もう何度も見に行っているんじゃないの?」
「ここへ来てもうすぐ二年になるのに、お前と観光したことがなかったと思ってな」
「イチ兄さん、忙しかったでしょう。ずっとマドリードにいなかった時もあるし」
「俺が忙しいのは任務だが、志貴は真性の仕事中毒だからなあ」

 また、ちくりと刺される。年末の仕事ぶりと、それに対する周囲の苦言を無視したことは、一洋の中で思いの外強い不満の種となっているようだ。

「名所には付き合いで何度か行ったが、仕事抜きで志貴とのんびり街を歩いてみたかったんだよ。ちゃんとお前の面倒を見ていたと言える証拠を作っておかないと、国に帰った時、お袋にどやされるしな」

 自身にも息子が三人ありながら、「先生とこの志貴ちゃん」を猫可愛がりする衛藤の小母さんを思い出し、志貴はよく似たその三男坊を軽く睨んだ。
 保護者として志貴を見守るために赴任したわけではないのに、大事な任務の一つでもあるかのような言い草が気に障る。衛藤家の一員としては、家長として夫を立てつつも実質的に階層ヒエラルキーの頂点に立つ母には、絶対に逆らえないのかもしれず、その立場はよく理解できるのだが。

「市場に戻ったら何か甘い物を買ってやるから、そんな膨れっ面をするな」
「結構です!」

 プラド美術館ではなく街歩きが真の目的なのと、午後は食材の仕込みをしたいという一洋の予定に合わせ、お上りさんのように名所をぶらぶらしつつ、美術館は軽く覗くことになった。膨大なコレクションを擁する美術館だ。一、二時間ですべての作品を鑑賞できるはずもない。
 神殿のような正面ファサードを持ち、建物自体が美術品のようなプラド美術館は、訪れる者を圧倒する荘厳さを備えている。その中の、さらに傑作に囲まれた空間という、美術館独特の雰囲気と時間の流れに身を浸し、二人は言葉もなくその静寂を楽しんだ。天気のせいか時季のせいか、館内に人は少なかった。そもそも戦時下の今、他国からの観光客は殆どいない。
 名作から発せられる圧力にも似た品格、歴史の重みを全身に浴びていると、仕事に忙殺され、気づかないうちに心に開いた隙間が埋まっていくようだ。

「……こういうの、久しぶりだ」
「こういうの?」
「圧倒的な力を持つものに、呑み込まれる感覚」

 芸術の力に支配されるのは、特別な体験だ。興奮と恍惚を呼び起こされ、頭の芯が痺れるような感覚に陥る。志貴の場合、それは劇場で得られることが多かった。
 戦時下で仕事に忙殺され、またナヴァス外相の辞任後は心理的に追い詰められ、自らを潤すものを欲するなど、考えも及ばなかった。
 随分と遠ざかっている、日常の中の非日常。最後に劇場へ足を運んだのはいつだったか、と思いを馳せたところで、二ヵ月半前、闘牛場へ行ったことを思い出した。場内の興奮と、――その後の男との口づけを。
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