トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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7章

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 短かった結婚生活、そして英と君子との三人の日々を、その間ずっと海外にいた一洋は見ていない。夫として、また父としての姿を実際に知らない以上、一洋にとって志貴は、いくつになっても年下の幼馴染、「先生とこの志貴ちゃん」なのかもしれなかった。

(……あ、この匂い)

 馴染みのある芳香が、ふわりと志貴を包む。父の香りとして記憶にあるそれは今、一洋の香りとして時折志貴の日常に現れる。
 身嗜みと清潔さには気を遣うが、着る物に頓着しない志貴とは異なり、一洋は身につける物にこだわりを持つタイプだ。欧州での駐在経験が豊富な海軍エリートらしく、逞しい体躯を包む外套も足元で鈍く光る革靴も、昔ロンドンで仕立てたものだという。
 軍服もよく似合うが、私服姿では洗練された伊達者の側面がより際立つ。今もこうして近くに寄ると、微かに舶来物の香水が匂った。

(イチ兄さんらしい……)

 愛用する香水が、敵国であるイギリスの老舗の物だと知る志貴は、こっそり口元をほころばせつつ、戦時下でも変わらない幼馴染の有り様にどこか安堵する。
 イギリスを――敵国を第二の母国とも思い、それと同時に日本を愛し、外交官として母国の未来を悲劇から遠ざけようと異郷で微力を尽くす日々。板挟みのような状況が悪化の一途を辿っている中、同じように苦悩を抱えているはずなのに、一洋は何も変わらないように見える。愛着を持って長年使ってきた品が、敵となった国の産物だからといって、ある日突然ヒステリックに廃却するようなことはしない。何が本当の敵なのか、わかっているのだろう。
 戦争における敵――彼我両陣の、国家としてのエゴを。そして国の中の、組織間のエゴを。
 それゆえに、個人が個人の範囲内で敵国を排斥しても、思考を停止させるだけで何の意味もないことも。

 年の瀬のマドリードは曇りの日が多く、今日も夜明けからどんよりと重い曇天だった。その上冷え込みが厳しく、いつ雪がちらついてもおかしくはない空模様だ。特に用事がなければ、敢えて外に出ようとは誰も思わないだろう空の下、二人は歩いて市街地の中心にある市場に足を運んだ。

「足が早いから、ガルシア夫人には頼めなかったんだが、……ああ、置いてるな」

 一洋がうれしそうに足を止めたのは、魚屋の店先だった。車海老に似た海老の入った箱を指差し、「ご主人、これを二十本もらえるかい」と店主に声を掛ける。

「はいよ、二十本ね」
「あと、そこの牡蠣を全部。昼まで置いといてくれるかい。この辺を少し見て回りたいから」

 釣り銭を受け取りながらの頼みに、気の好さそうな店主は快く頷いた。

「足が早いのに、そんなにどうするの?」
「勿論俺たちが食うのさ。海老は塩焼きにしておけばいいし、茹でて酢で和えればもっともつ。牡蠣も火を入れれば大丈夫だ」
「へぇ……」

 志貴は、主婦の買い物に決して口を出さなかった父を思い出し、自らもそれに倣おうと心に決めた。海老や牡蠣の足が早いことも、実は今知ったのだ。物知らずと呆れられるのはいいが、これ以上子供扱いされる隙を与える真似は、絶対に避けなければならない。
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