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19章 ※
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敬愛する男と、変わり果てたその遺産への考えの相違から別離を選び、今も互いを想い合う美しく孤高な女性──ピラールについて、テオバルドが語ることは二度となかった。
志貴を口説きながら今も心の中に住まわせる人がいても、それはテオバルドの自由であり、誰に詰られることでもない。志貴の心にも、亡き妻の居場所は変わらずにある。
しかし彼女はこの世を去り、ピラールは同じ街に生きている。
過去の恋を理由にするなど、稚拙で卑怯なやり方だ。暴論ですらある。どう言い繕っても、テオバルドは怒り、傷つくに違いない。
しかし、ピラールを引き合いに出すことしか思いつかないほど、志貴はもうテオバルドから離れる手立てを持たなかった。手首に巻き付いた飼い犬の手綱は複雑に絡み付き、ほどくことはできない。ならば彼が失望し、自ら距離を置くように仕向けるしかない。
テオバルドとの別離は、戦争が終わればいずれ訪れることだった。わかっていたことだ。それが早まっただけだ。
桐機関は万全に機能させなければならず、事務的にはこれまで通り、緊密な連携を保つ必要がある。毎日の『スペイン語』のレッスンは続けられ、当たり障りのない社交辞令に終始するだろう。
当たり障りのない社交辞令──まさに外交官の得意分野ではないか。
スパイと連絡員。
肩書きに相応しい関係になるだけだ。
「疲れた……」
誰もいない部屋で、志貴はつい声に出していた。
楽しかった一日の終わりは、その相手との別離の決意で締め括られようとしている。すべて我が身の招いたことと知りながらもやるせなく、しかし、したたかな計算を巡らせた結果テオバルドとの関係を清算することに、迷いはなかった。
国益を優先する──それが外交官なのだ。天秤に掛けるまでもなく職務を選ぶ、それが矢嶋周の息子の生き方だ。
誰に共感を求めるつもりはない。薄情な冷血漢だと呆れ、計算高い性悪と軽蔑してくれたらいい。
別離の真の理由──一洋との関係維持をテオバルドに告げるつもりがないことも、不誠実であり保身と言えるが、いずれけじめはつけるつもりでいた。一洋との関係も、今後どう変化しようとこの場限り──帰国すれば表向きは幼馴染として付き合い、それ以上の交わりは断つと心に決めている。
そして、どれほど再婚を勧められても、誰とも添わずに一生を終えることも。
熱いシャワーで、少しでも胸の痛みを洗い流そうと立ち上がったところで、一階の共同玄関の呼び鈴が鳴った。
時計は零時を回ろうとしている。
酔っ払いの悪戯かと放置したが、立て続けに緊迫した調子で鳴らされ、志貴は警戒しながら通話口のボタンを押した。
「──はい?」
「志貴、俺だ。中に入れてくれ、早く!」
早く、の前に咄嗟に開錠ボタンを押していた。テオバルドの声だ。
さほど待つこともなく今度は部屋の呼び鈴が鳴り、志貴は慎重にドアを開けた。
吸い込まれるように、テオバルドのしなやかな体が室内に滑り込む。三時間前に別れた時と同じ服装だが、顔つきは硬く、何かを警戒しているように見える。
志貴を口説きながら今も心の中に住まわせる人がいても、それはテオバルドの自由であり、誰に詰られることでもない。志貴の心にも、亡き妻の居場所は変わらずにある。
しかし彼女はこの世を去り、ピラールは同じ街に生きている。
過去の恋を理由にするなど、稚拙で卑怯なやり方だ。暴論ですらある。どう言い繕っても、テオバルドは怒り、傷つくに違いない。
しかし、ピラールを引き合いに出すことしか思いつかないほど、志貴はもうテオバルドから離れる手立てを持たなかった。手首に巻き付いた飼い犬の手綱は複雑に絡み付き、ほどくことはできない。ならば彼が失望し、自ら距離を置くように仕向けるしかない。
テオバルドとの別離は、戦争が終わればいずれ訪れることだった。わかっていたことだ。それが早まっただけだ。
桐機関は万全に機能させなければならず、事務的にはこれまで通り、緊密な連携を保つ必要がある。毎日の『スペイン語』のレッスンは続けられ、当たり障りのない社交辞令に終始するだろう。
当たり障りのない社交辞令──まさに外交官の得意分野ではないか。
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肩書きに相応しい関係になるだけだ。
「疲れた……」
誰もいない部屋で、志貴はつい声に出していた。
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国益を優先する──それが外交官なのだ。天秤に掛けるまでもなく職務を選ぶ、それが矢嶋周の息子の生き方だ。
誰に共感を求めるつもりはない。薄情な冷血漢だと呆れ、計算高い性悪と軽蔑してくれたらいい。
別離の真の理由──一洋との関係維持をテオバルドに告げるつもりがないことも、不誠実であり保身と言えるが、いずれけじめはつけるつもりでいた。一洋との関係も、今後どう変化しようとこの場限り──帰国すれば表向きは幼馴染として付き合い、それ以上の交わりは断つと心に決めている。
そして、どれほど再婚を勧められても、誰とも添わずに一生を終えることも。
熱いシャワーで、少しでも胸の痛みを洗い流そうと立ち上がったところで、一階の共同玄関の呼び鈴が鳴った。
時計は零時を回ろうとしている。
酔っ払いの悪戯かと放置したが、立て続けに緊迫した調子で鳴らされ、志貴は警戒しながら通話口のボタンを押した。
「──はい?」
「志貴、俺だ。中に入れてくれ、早く!」
早く、の前に咄嗟に開錠ボタンを押していた。テオバルドの声だ。
さほど待つこともなく今度は部屋の呼び鈴が鳴り、志貴は慎重にドアを開けた。
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