水底の幽影

秋初夏生

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第七話 決断と崩落

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 その時、儀式の声が一段と高まった。水面がぐらりと揺れ、冷たい波が膝上まで押し寄せる。
 遠くで排水口のような音が響き、さらに水位が上がっていく。

「……先生、どうする」
 岡部の声は低く、真剣だった。
 ――妨害して止めるか、証拠だけ確保して逃げるか。

 松嶋は必死に頭を巡らせた。
「……もし妨害するなら、儀式の核はあの石壺でしょう。供給源を断てば——」

 そのとき。
 カシャッ、と乾いたシャッター音が闇を裂いた。
 松嶋が驚いて振り向くと、岡部は既にカメラを構え、フラッシュを光らせているところだった。

「証拠を押さえて、できれば邪魔する……両方だ」

 白光に照らされ、半魚人たちの青白い皮膚が一斉に反射する。
 儀式の声が途切れ、十数の眼が同時にこちらを向いた。

「岡部さん、あなたって人は!」
 松嶋が珍しく怒りを露わにして叫ぶ。
「人に選択を迫っておいて、抜け駆けなんて酷すぎます」
「先生の説明が長すぎるんだよ。決断は速さが命だろ」
「あなたのは単なる無謀で……」

 松嶋がさらに何か言いかけたとき、半魚人たちがキイキイと警戒したような声を上げ始めた。それはまるで、儀式を続けるか闖入者を排除するのか相談し合っているように見えた。

「どっちでもいいから走れ!」
 岡部が叫び、カメラを胸に抱えて突っ込む。
 松嶋は舌打ちし、後方の石を掴んだ。儀式を止めるなら今しかない。
 振りかぶり、石壺に投げつける。鈍い音とともに壺の口が欠け、水が揺らぎ、流れが乱れた。

「おい、やりすぎだろ、先生!」
 岡部が振り返る。
「あなたが“両方”と言ったんでしょう!」

 壺から噴き出す水は倍以上に膨れ上がり、奔流となって水路を駆け抜ける。天井が低く唸り、煉瓦片が崩れ落ちた。

 二人は水を蹴り、暗渠を必死に遡る。腰まで達した水が足をすくい、背後からは怒り狂った半魚人の群れが水を掻いて迫る。

 分岐点に差しかかり、左右の水路が闇に分かれていた。
「右だ!」
 岡部が叫ぶ。
「待ってください、左の方が水位が浅い!」
 松嶋が反論する。

 だが、焦りながらも暗闇に目を凝らせば、淡く光る矢印が壁にうっすら浮かんでいた。岡部が来るときに残した、蛍光スプレーの印だ。

「見ろよ先生! この印のおかげで迷わずに済んだ」
「……そのせいで、あとで区役所に説明する羽目になるんですけどね!」

 直後、暗闇から巨大な影が水面を叩き割って迫った。
 岡部が転びかけた瞬間、松嶋が腕を掴んで引き上げる。
「置きざりにしたら、スプレーの説明が面倒なので」
「……正直、今のは助かった」

 崩落は、それだけでは終わらなかったら、次の曲がり角では、あやうく松嶋の頭上に煉瓦片が落ちかけた。
 今度は岡部が咄嗟に肩で押し返し、水の中へと蹴り飛ばす。

「さっきの借りを返す! 先に行け」
「……後で絶対、文句言わないでくださいよ」
 二人は互いに肩を支え合いながら、怒涛の奔流をかいくぐって進んだ。

 やがて上方に光が差す。最初に降りたマンホールの場所だ。
 岡部が梯子を駆け上がり、必死で蓋を押し上げる。夜気と街灯の光が差し込んだ。

「後ろから来てる、急げ!」
 松嶋が地上へ這い出た瞬間、冷たい水が噴き上がった。岡部も飛び出すように外へ出て、二人で蓋を閉める。

 直後、下から鈍い衝撃音が響いた。押し寄せた水が暗渠を塞ぎ、何か巨大な影が壁に叩きつけられたのかもしれない。

 二人は柵の外へ転がり出て、荒い息を吐いた。夜風が全身を冷やしていく。
 だが地下からはまだ水の轟きが響いているようだった。闇に潜むものが完全に退いたわけではない。

「……なんとか生きてますね」
 松嶋がまだ信じがたいような表情で、ぽつりと言った。
「何度か死ぬかと思いました」
「だろ? だから言ったろ、安全なんざ——」
「通用しない、ですか」
 松嶋は苦笑し、眼鏡を拭いた。

 岡部は胸のカメラを見下ろす。水滴にまみれながらも、電源ランプはまだ点いている。
「どうやら証拠は……残ったみたいだな」
「それを世間が信じるかは、また別の話ですよ」
「信じさせりゃいい。俺の仕事はそこからだ」

 二人の呼吸が、ようやく落ち着き始めていた。
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