溺愛のフリから2年後は。

橘しづき

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ソファの下

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(なんだかモヤモヤして、熟睡できなかった……)

 愛理ははあと大きなため息をついた。

 朝起きると、結局湊斗は出勤することにしたらしく、愛理の分の朝食を作ってすでに家を出ていた。朝食を食べ、愛理もすぐに会社へ向かった。

 仕事が始まれば集中できるので、湊斗の事を考えずにすむが、ふうと一息ついたときにすぐに頭に浮かんでしまう。熱があった時の弱ってる湊斗、昨日の間近で見た湊斗。信じられない、と自分でも愕然とする。

 三十年近くも一緒にいた家族のような湊斗を、そんな風に見ているなんて。なぜか罪悪感を覚えてしまう。それに、私たちは本当の夫婦じゃないのに……。

 一人で悩みながら仕事を終え、いざ帰ろうかと立ち上がった時に、愛理に声がかかった。

「岡部!」

「え? ……山本くん」

 昨日の今日で、彼と会話を交わすのは少し気まずいと思った。あんなに面と向かって告白をされれば、誰でも恥ずかしい気持ちになってしまう。だが、当の本人はいつも通りの様子で愛理に言った。

「ちょっと聞いてほしいんだけど、同期の松村が寿退社するって聞いた?」

「え、そうなの?」

 松村、とは愛理や山本の同期で、愛理はそこまで親しくはないものの同期会で一緒に飲んだことは何度かあった。会えば笑って話すこともするし、のほほんとしていい子というイメージだ。

 そういえば結婚が近いという話は聞いた気がする。

「らしいんだよ。んで、同期で送別会しないかって話が出てるんだ。岡部、参加できそう?」

「そうなんだ。だったらもちろん出るよ」

 仲間の送別会などは積極的に参加する方だ。飲むのも好きなので、参加したらいつもガンガン飲んでいる。こんな自分がなぜ『クール』みたいなイメージになっているのかいまだにわからない。酒を飲んでいたら飲んでいたで、『岡部さんお酒強くてかっこいい』になるから不思議だ。

「よかった。それでさ、結婚祝いをみんなで買おうって話になってて。今度、俺と井上、それから野々山で買いに行く予定なんだけど、岡部も来ない? 最近結婚したのは岡部だし、何が貰って嬉しかったとか意見があるとありがたい」

「ああ、そういうことなら……そんなにちゃんとした意見は出せないかもしれないけど、もちろん付き合うよ」

「よかった。じゃあまた詳細はラインするわ。ありがとうな」

 山本はニコッと笑ってすぐに去っていった。彼の後ろ姿を見ながら、愛理は何だか拍子抜けする。

 意識してるのは自分だけだったか……そりゃ、こっちは既婚者だから向こうは吹っ切れたんだろう。今まで通り接してくれてありがたい、と思う。ギスギスしては仕事もやりにくい。

「山本くんがいつも通りでよかったな」

 愛理はそう一人で呟いた。



 次に来た土曜日、愛理と湊斗は揃ってリビングの掃除をしていた。
 
 普段から愛理がそれなりに綺麗にしてはいたものの、今日は特に念入りにしよう、という話になった。というのも、ついに先日購入したソファが、次の日に届く予定だったのだ。

 業者の人が中まで運び入れてくれることになっている。他人が入るとなると、やはりいつもより綺麗にしておかねば、という心理は多くの人に働く。二人もそうだった。

「って言っても、愛理がいつもきれいにしてくれてるからそんなにいらないね」

 湊斗は笑いながらテレビの前の埃を払った。

「引っ越して間もないしねー。湊斗、あとはソファの下、掃除機掛けておこうよ。すぐにあたらしいのを置けるように」

「そうだね。まあそっちもそんなに汚れてないと思うけどね。俺が片方ずつずらすから、愛理は掃除機持ってきて」

 湊斗はそう言って腕まくりをした。男性らしい腕や血管が目に入り、愛理はついうっと言葉に詰まった。見慣れてるはずなのに、なんだか急に男の人って感じがして、目が行ってしまう。

(全く……本当に最近自分、おかしいぞ)

 駄目だ駄目だ、正気に戻れ。自分にそう言い聞かせながら掃除機を持ってくると、湊斗がソファの片側を持ち上げて少し位置をずらした。できたスペースに掃除機を入れようとして、愛理はふと止まる。

 何かが落ちている。何だろう、あれは……。

「愛理?」

 名前を呼ばれた愛理はハッとして、それを慌てて拾ってポケットに押し込んだ。なんとなくそうしなければならない気がした。

「ごめんごめん、掃除機掛けるね」

 愛理は笑ってすぐに掃除機をかける。やはり思っていた通り埃は少なく、掃除機をかける意味はあまりなさそうだった。それでも必死に腕を動かしながら愛理はきゅっと唇を固く結んだ。

(なんで……)

 なんで開封済みのゴムのゴミなんかが落ちてるの?

 ソファの下にひっそりとあったのは、避妊具の袋だった。頭がぐるぐると混乱して落ち着かない。当然ながら、愛理に見覚えはない。

(私たちはそういう関係じゃないんだから、使うことなんてない。湊斗が? もしかして前住んでたところで使ったのが紛れてた? ううん、さすがにありえない)

 引っ越しでこんなゴミを持ち込むなんて、しかもソファの下に落ちてるなんてありえない。そうなると、この部屋で使われたということになる。

「愛理、どうした?」

「え? う、うん。綺麗になったよ。やっぱりあんまり汚れてなかった」

「そっか。じゃあ戻すね」

 せっせとソファを戻す湊斗に背を向けて、愛理は掃除機を戻しに行く。ポケットの中にあるごみのことで頭はいっぱいだ。

(あれかな……湊斗も男だし、そういうこと一人で……でも、そういう時ってゴム使うの?)

 あんな爽やかな湊斗でさえ、性欲があるということはわかっている。そういう結果ならそれでいいのだが(リビングでするなよとは思うが)果たしてゴムは使うものなのか?

……ダメだ、ちっともわからない。異性のことだし、特に自分はそういう知識が少ない。

 頭がパンクするかもしれない。愛理はそう考え、湊斗に断りを入れてから自分の部屋に入った。あのゴミは持ったまま。

 

 夕方になった頃、愛理のスマホが鳴り響いた。画面を見てみると千紗だったので、愛理はすぐに電話に出る。

「もしもし、千紗?」

『あ、愛理? 千紗だよー!』

 明るい千紗の声を聞いて、もやもやした気持ちが少しだけ楽になった気がした。愛理は表情を緩めて答える。

「急にどうしたの?」

『大した用はないんだけどね。あ、そう言えばラインで明日ソファが届くって言ってたね? 家具が揃ったらさ、今度は他のみんなと一緒に新居にお邪魔させてよ。この前は湊斗には会えなくて残念だったし』

「う、うん、そうだね」

 愛理は今日見つけた物を思い出して複雑な気持ちになる。あれがなぜあんなところから見つかったのか、答えは未だに出ていない。

『いつもは晴れ屋で飲んでばっかだから、たまにはホームパーティーとか楽しそうだよね! あ、愛理たちが大変かな』

「ううん、楽しそう。いつかやりたいね」

『よかった! 楽しみにしてる。……あ、そういえばソファと言えばさ。同じ大学の、かおり分かる? 愛理はあんまり仲良くなかったよね』

 ぼんやりと顔は浮かぶものの、愛理はほとんど話したことがない相手だった。連絡先も知らないし、一緒に飲んだこともない。

『かおりから聞いたんだけど、あそこ今離婚危機らしいの。原因がね、旦那の不倫!』

「ええ、そうなの?」

『それもさ、かおりが仕事中に女を連れ込んで、リビングとかで事に及んでたらしいのー! 気持ち悪いよね、最悪じゃない?』

 千紗のセリフにどきりと愛理の胸が鳴る。

 仕事中に、他の女性を家に入れて……?

『どうやら家の近くで、元カノと再会して盛り上がっちゃったんだって。せめてホテル行けよって思わない? 旦那を問い詰めたらしいけど、こういうこと男は断固として認めないらしくて、最後までしらばっくれてたみたい。でも動かぬ証拠があったから、結局離婚するんだって』

 愛理の心臓がバクバクと動いて胸が苦しくなった。落ちていたゴムのごみ、湊斗の忘れられない元カノ……いろいろな物が愛理の頭の中でよみがえり、嫌な展開が思い浮かぶ。もし湊斗がかおりの夫のように忘れられない元カノと近くで再会して、そのまま盛り上がったら……?

 そもそも自分たちは本当の夫婦ではないのだから、湊斗が他の誰かと恋愛を始めても、自分に責める権利はない。

(いやでも待って。好きだった人と再会して盛り上がったにしても、私と住む家に連れ込むなんて無神経なこと、湊斗がするとは思えない。本当の夫婦ではないけど、私の家でもあるんだもん。しかも、湊斗の部屋もあるのにわざわざリビングでって……)

 そう思い直したが、ソファの下に残っていたゴミの説明はつかない。

 愛理は呆然と立ちつくし、混乱した。胸がもやもやして痛くてたまらない。まるで、本当の夫婦のように。

『……ってことがあって、もう私も一緒に怒れちゃって。愛理に愚痴を聞いてもらいたかったんだよ! 最低だよね?』

「た、確かにそれは最低だよ。うん」

『男って盛り上がると自制が効かなくなるからさ? かおりの旦那さん、私会ったことあるけど凄く紳士で素敵な人だったの! だから信じられないけど、男ってそんなもんなのかもね』

 男ってそんなもん――愛理の言葉に重くその言葉がのしかかる。同時にどこかで聞いた、友達としてはいいやつでも、恋愛が絡むとクズになる人間は男女問わずいる、という言葉も。

 ポケットにあるゴミを湊斗に見せて、『これなに?』と問い詰めれば答えは出るのかもしれない。本当の妻ではないけれど、同居人なのだから女性を連れ込むことに関して追求する権利はあると思う。

 ただ、そうした時、もし――『実は昔、凄く好きだった人と再会して……愛理と結婚したことを後悔してる』なんて言われたら? 立ち直れない、と愛理は思った。


 ああ、自分はやっぱり湊斗が好きなのか。

 ずっとそんな対象ではないと思っていたのに。家族のように思っていたのに。一度意識してしまうと、どれだけ自分が彼に支えられて来たか思い知らされる。

 小学生の遠足の時、お弁当をひっくり返してしまった愛理に分けてくれたのは湊斗だった。中学の時、クラスの女子に無視されて辛かった時も、一番に気づいてくれたのは違うクラスの湊斗だった。

 『しっかり者で強そう』なんて印象をもたれる愛理を、いつでも心配して女性扱いしてくれたし、実は内面は結構ずぼらなのに笑っていてくれるのも湊斗だった。

 こんな時にようやく、愛理は自分の気持ちを思い知った。

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