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――今でも、たまに夢を見ることがあります。
あの日。
エドガー様に婚約破棄されたあの日。
真っ白なドレスが涙で濡れて、冷たい石畳の上で立ち尽くしていた、あの瞬間。
「……地味で退屈なお前なんて、俺には釣り合わない」
その言葉は、あのときの私の胸に、ナイフのように突き刺さって、しばらく抜けませんでした。
でも――今の私は、もうあのときの私じゃありません。
それは、今日この場所に立ってみて、ようやく心の底からわかりました。
「セシリア、会場の準備が整ったそうです」
アルノルト殿下の優しい声が、わたしの思考を今に引き戻します。
振り返ると、陽の光を受けてまぶしく輝くその笑顔がありました。
いつも、どんなときでも、わたしをまっすぐに見てくれる人。
誰かと比べることもなく、飾らなくてもいいと微笑んでくれる人。
……わたしは、ちゃんと愛されている。
その確信が、胸いっぱいに広がって、思わずうなずきました。
「……はい。行きましょう、殿下」
今日は、王城で開かれる大舞踏会の日。
そして同時に――わたしたちの婚約を、公式に発表する日でもあります。
王国中の貴族たちが集まるこの舞踏会には、もちろん、あの人も招かれていました。
ええ、わざわざ殿下が、招待状を出してくださったのですから。
* * *
王城の大広間には、金と銀のシャンデリアがきらきらと輝き、ドレスを身にまとった貴婦人たちや、燕尾服の紳士たちが華やかに集まっていました。
「まぁ、あれがあのセシリア嬢……!」
「すてき……! 本当にあの“地味な令嬢”だったのかしら?」
「王子殿下の隣にいる姿、まるで絵本のお姫様みたい……」
ひそひそと聞こえる声に、少しだけ背筋がこそばゆくなります。
でも、今はもう、恥ずかしくなんてない。
わたしは、殿下の隣で微笑みながら、堂々と歩きました。
――すると、その先に。
「……っ、エドガー様」
彼の姿がありました。
やせ細り、粗末な礼服を着て、周りの貴族たちからも冷たい視線を浴びている姿。
見栄もプライドも、もうそこには残っていないようでした。
わたしと目が合うと、エドガー様はびくっとして、すぐに目をそらしました。
でも、逃げることはできません。
今日という日は、すべてを見届ける日なのですから。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます」
会場に、アルノルト殿下の声が響き渡ります。
「本日、この場にて、わたしアルノルト=ライヒヴァルト第二王子は、セシリア=フロレンシア侯爵令嬢との婚約を正式に発表いたします」
――その瞬間、拍手と歓声が響き、会場が華やかに揺れました。
「まぁ……!」
「なんてすてきなカップルなの……!」
「お似合いだわ……!」
……その中で、ただ一人だけ、立ち尽くす人がいました。
エドガー様です。
蒼白な顔で、唇をかみしめて。
「セ、セシリア……っ。まさか、本当に王子と……!」
彼が、しずかに、でも確かにわたしの名前をつぶやきました。
わたしは彼に歩み寄り、少しだけ微笑みながら、はっきりと言いました。
「――王子に選ばれた私と、あなたに捨てられた私。どちらが“本物”だったか、もうおわかりですわよね?」
その言葉に、エドガー様は小さく震えて、何も言い返せませんでした。
今さら遅いのです。
あのとき、わたしを見捨てたあなたに、今さらすがる資格なんて、ありません。
* * *
そのあと、わたしたちは人々に祝福されながら、踊りの輪の中へと入っていきました。
「セシリア。君は、本当に強く、美しくなったね」
アルノルト殿下が、優しくわたしの手を取ってくれます。
「いえ……私を見つけてくれたのは、あなたです。
あなたがいてくれたから、私は変われたんです」
そう言うと、殿下は微笑みました。
「じゃあ、これからはもっと、君が笑っていられるように支えるよ。ずっと、そばにいるから」
胸がいっぱいになって、わたしは涙をこらえながら、うなずきました。
――あの頃、地味で目立たなかった私が。
今は、王子に愛されて、皆に祝福されて。
エドガー様の視線は、もう気になりません。
だって、私はもう、過去じゃなく――未来を見ているのだから。
それは、あの人が、飲み込むしかない言葉。
私は、もう前だけを向いて歩いていく。
この手に、本当の幸せを握りしめて――
「……セシリア。お、おれは、そんなつもりじゃ……っ」
踊りの輪から一歩下がったわたしたちのもとへ、エドガー様が、ふらふらと寄ってきました。
その手には、かつてのきらびやかな指輪――あの日、私が返した婚約指輪が、握られていました。
「違うんだ、あれは、その……ちょっとした誤解で……あのときの僕は、君の良さに気づいてなくて……!」
あぁ、やっぱり。
こんなときまで、自分を守るための言い訳ばかり。
「誤解、ですか?」
私は、できるだけやわらかく、でも凛とした声で言いました。
「私が地味で、つまらなくて、退屈だとおっしゃったのは……“ちょっとした誤解”で片づけられるのですね?」
エドガー様は、口をパクパクと動かしながら、何も言えずに立ちすくみました。
私の隣では、アルノルト殿下がそっと私の腰に手を添え、見守ってくれています。
そのぬくもりに、私は力をもらいました。
「――セシリア、戻ってきてくれ。やっぱりお前しかいないって、やっと気づいたんだ。今の僕には、お前が必要なんだよ……っ!」
……その瞬間、私の中で、なにかがすうっと消えていくのを感じました。
涙も、怒りも、もう残っていなかった。
「あなたが“やっと”気づいたその間に……私は、前へ進んでいました」
私は、アルノルト殿下の手を握りしめました。
「今の私は、もう誰かに愛されない私じゃありません。誰かのついでや代わりじゃなくて、まっすぐに見てくれる人が、そばにいるんです」
エドガー様の目が、驚きと後悔にゆがみました。
でも、遅いんです。
あのとき、手放したのは――あなた自身なのですから。
「セシリア……本当に、もう……」
「さようなら、エドガー様。あなたの未来に、幸せがあることを祈っています」
私は、最後に心からそう言いました。
皮肉でも、嫌味でもない、真実の言葉で。
彼は崩れ落ちるように、その場に膝をつきました。
その姿は、かつて私が泣いたあの日とは、まるで逆。
胸の奥にずっと詰まっていた何かが、ようやくほどけたような気がしました。
* * *
舞踏会のあと、殿下と私は、夜のバルコニーでふたりきりになっていました。
王城の庭には、星のような光を放つ魔法のランプがいくつも灯されていて、まるで夢の中にいるみたい。
「……セシリア。つらかったね。あの人に、あんな風に言われて」
アルノルト殿下は、私の手を包みながら、優しい目で見つめてくれました。
「……でも、よく頑張った。逃げないで、立ち上がって、自分の足で歩いて……本当に、君は強い」
私は、胸がきゅっとなりました。
「そんな……わたし、最初は、なにもできなくて。泣いてばかりで……でも、あなたがいたから。見ていてくれたから……」
「セシリア」
殿下は、すっと私を抱きしめました。
「これからは、君が泣かないように、僕が守る。どんなことがあっても、君を一番に考える。だから、もう過去は見なくていい。未来を、一緒に作っていこう」
その言葉が、あたたかく胸に染み込んで――私は、涙をこらえきれなくなりました。
「……うん。ありがとう、殿下」
「……アルノルトって呼んで。もう他人じゃないんだから」
私は、くすっと笑って、少しだけためらってから、言いました。
「……アルノルト、様」
彼は、すごく嬉しそうに笑いました。
その笑顔を見て、私も心から、笑うことができたのです。
* * *
こうして私は、過去から解き放たれて――
本当の幸せを、この手に掴むことができました。
あの頃の私に、もし声をかけてあげられるのなら。
「大丈夫。未来のあなたは、ちゃんと笑えてるから」
そう伝えてあげたいと思います。
だから、もう後悔なんて、ひとつもありません。
私の幸せは、誰かに選ばれることで手に入れたんじゃない。
私自身が、前を向いて歩いた先に、あの人がいてくれたから――
「セシリア、これからも、ずっとそばにいてね」
「はい、アルノルト様。……ずっと、そばにいます」
夜空に、魔法の光がふわりと舞い上がりました。
まるで、祝福の花火みたいに。
そして私は、新しい人生の扉を、しっかりと開いたのです。
それから。
バルコニーの風はやさしくて、まるで私の背中をそっと押してくれるようでした。
「……セシリア、君がここまで頑張ってきたこと、僕はちゃんと見ていたよ」
アルノルト様の声は、まるで歌のように心に響いてきます。
「孤児院で子どもたちに微笑みかける君。自分を犠牲にしてでも人を助けようとする君。そんな君を、僕はずっと見つめてきた。――気づいたら、もう、君しか見えなくなっていたんだ」
私はびっくりして彼の顔を見つめました。
こんなにも真っ直ぐに、私のことを見てくれる人がいたなんて。
あの日、涙を流していた私に教えてあげたかった。
「……私、もう泣かないって決めたの。エドガー様に捨てられたとき、泣いて、泣いて、泣いて……でも、涙じゃ何も変わらなかった」
「うん」
「だから前に進もうって、そう決めたの」
「その決断が、君をここまで連れてきたんだね」
アルノルト様は、そっと私の手にキスをしました。
心臓が跳ねるみたいに、どきん、と音を立てました。
――だけど、彼の目はまっすぐで、何も迷っていなかった。
「そんな君だからこそ、王妃になってほしい。表向きの華やかさなんて、もう必要ないんだ。僕がそばにいてほしいのは、強くて、やさしい君だけだから」
涙が出そうになりました。
でも、もう泣かないって決めたんだ。
「……はい。わたしでよければ、ずっと、あなたのそばにいます」
その瞬間、彼が私を優しく抱きしめてくれて、世界がしあわせの光で満ちたように感じました。
遠くでは、舞踏会の終わりを告げる鐘が鳴り響いていました。
ああ、きっと、これが――本当の始まり。
* * *
その後、私とアルノルト様の婚約は、王宮中に知れわたり、国中の話題になりました。
「セシリア様のような方こそ、未来の王妃にふさわしいわ!」「孤児院の支援であれだけの成果を出したなんて……本物の心の貴族ね」
そんな声が届くたびに、昔の自分を思い出して、ちょっぴり照れてしまいました。
でも、私の毎日は変わらずに、孤児院に行ったり、子どもたちと遊んだり、町の小さなお店でお買い物をしたり。
アルノルト様は、そんな私をとても大事にしてくれて、時々手を引いて、一緒に歩いてくれます。
そして――
ある日、ふとすれ違った人影。
ボロボロの外套、痩せこけた頬、かつての気品のかけらもないその姿。
「……エドガー様?」
私は思わず声をかけてしまいました。
彼は私を見て、一瞬だけ目を見開き、すぐに俯きました。
「ああ……君か。今さら、何を言えばいいか……わからないよ」
声は、かすれていて、まるで別人のようでした。
私は、ただ静かに見つめました。
「私を捨てたこと、後悔しているんですか?」
「……ああ。毎晩、夢に見るんだ。あのとき、どうして気づけなかったんだろうって……でも、今さら、遅いよな」
その言葉に、私はふっと微笑んで言いました。
「ええ。今さら、遅いです」
もう涙は出ません。
それどころか、心の奥が晴れていくようでした。
私は踵を返し、待っていた馬車に乗り込みました。
アルノルト様が私に手を差し伸べて、私はその手を取る。
それが、私の選んだ未来。
“誰かに捨てられた私”ではなく、“誰かに選ばれた私”として。
* * *
最後に、もう一度だけ言わせてください。
あのときの私を、見下して、見捨てて、蔑んだあなたへ。
私は、もう戻りません。
だって、私はもう、“本物”だから。
あの日。
エドガー様に婚約破棄されたあの日。
真っ白なドレスが涙で濡れて、冷たい石畳の上で立ち尽くしていた、あの瞬間。
「……地味で退屈なお前なんて、俺には釣り合わない」
その言葉は、あのときの私の胸に、ナイフのように突き刺さって、しばらく抜けませんでした。
でも――今の私は、もうあのときの私じゃありません。
それは、今日この場所に立ってみて、ようやく心の底からわかりました。
「セシリア、会場の準備が整ったそうです」
アルノルト殿下の優しい声が、わたしの思考を今に引き戻します。
振り返ると、陽の光を受けてまぶしく輝くその笑顔がありました。
いつも、どんなときでも、わたしをまっすぐに見てくれる人。
誰かと比べることもなく、飾らなくてもいいと微笑んでくれる人。
……わたしは、ちゃんと愛されている。
その確信が、胸いっぱいに広がって、思わずうなずきました。
「……はい。行きましょう、殿下」
今日は、王城で開かれる大舞踏会の日。
そして同時に――わたしたちの婚約を、公式に発表する日でもあります。
王国中の貴族たちが集まるこの舞踏会には、もちろん、あの人も招かれていました。
ええ、わざわざ殿下が、招待状を出してくださったのですから。
* * *
王城の大広間には、金と銀のシャンデリアがきらきらと輝き、ドレスを身にまとった貴婦人たちや、燕尾服の紳士たちが華やかに集まっていました。
「まぁ、あれがあのセシリア嬢……!」
「すてき……! 本当にあの“地味な令嬢”だったのかしら?」
「王子殿下の隣にいる姿、まるで絵本のお姫様みたい……」
ひそひそと聞こえる声に、少しだけ背筋がこそばゆくなります。
でも、今はもう、恥ずかしくなんてない。
わたしは、殿下の隣で微笑みながら、堂々と歩きました。
――すると、その先に。
「……っ、エドガー様」
彼の姿がありました。
やせ細り、粗末な礼服を着て、周りの貴族たちからも冷たい視線を浴びている姿。
見栄もプライドも、もうそこには残っていないようでした。
わたしと目が合うと、エドガー様はびくっとして、すぐに目をそらしました。
でも、逃げることはできません。
今日という日は、すべてを見届ける日なのですから。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます」
会場に、アルノルト殿下の声が響き渡ります。
「本日、この場にて、わたしアルノルト=ライヒヴァルト第二王子は、セシリア=フロレンシア侯爵令嬢との婚約を正式に発表いたします」
――その瞬間、拍手と歓声が響き、会場が華やかに揺れました。
「まぁ……!」
「なんてすてきなカップルなの……!」
「お似合いだわ……!」
……その中で、ただ一人だけ、立ち尽くす人がいました。
エドガー様です。
蒼白な顔で、唇をかみしめて。
「セ、セシリア……っ。まさか、本当に王子と……!」
彼が、しずかに、でも確かにわたしの名前をつぶやきました。
わたしは彼に歩み寄り、少しだけ微笑みながら、はっきりと言いました。
「――王子に選ばれた私と、あなたに捨てられた私。どちらが“本物”だったか、もうおわかりですわよね?」
その言葉に、エドガー様は小さく震えて、何も言い返せませんでした。
今さら遅いのです。
あのとき、わたしを見捨てたあなたに、今さらすがる資格なんて、ありません。
* * *
そのあと、わたしたちは人々に祝福されながら、踊りの輪の中へと入っていきました。
「セシリア。君は、本当に強く、美しくなったね」
アルノルト殿下が、優しくわたしの手を取ってくれます。
「いえ……私を見つけてくれたのは、あなたです。
あなたがいてくれたから、私は変われたんです」
そう言うと、殿下は微笑みました。
「じゃあ、これからはもっと、君が笑っていられるように支えるよ。ずっと、そばにいるから」
胸がいっぱいになって、わたしは涙をこらえながら、うなずきました。
――あの頃、地味で目立たなかった私が。
今は、王子に愛されて、皆に祝福されて。
エドガー様の視線は、もう気になりません。
だって、私はもう、過去じゃなく――未来を見ているのだから。
それは、あの人が、飲み込むしかない言葉。
私は、もう前だけを向いて歩いていく。
この手に、本当の幸せを握りしめて――
「……セシリア。お、おれは、そんなつもりじゃ……っ」
踊りの輪から一歩下がったわたしたちのもとへ、エドガー様が、ふらふらと寄ってきました。
その手には、かつてのきらびやかな指輪――あの日、私が返した婚約指輪が、握られていました。
「違うんだ、あれは、その……ちょっとした誤解で……あのときの僕は、君の良さに気づいてなくて……!」
あぁ、やっぱり。
こんなときまで、自分を守るための言い訳ばかり。
「誤解、ですか?」
私は、できるだけやわらかく、でも凛とした声で言いました。
「私が地味で、つまらなくて、退屈だとおっしゃったのは……“ちょっとした誤解”で片づけられるのですね?」
エドガー様は、口をパクパクと動かしながら、何も言えずに立ちすくみました。
私の隣では、アルノルト殿下がそっと私の腰に手を添え、見守ってくれています。
そのぬくもりに、私は力をもらいました。
「――セシリア、戻ってきてくれ。やっぱりお前しかいないって、やっと気づいたんだ。今の僕には、お前が必要なんだよ……っ!」
……その瞬間、私の中で、なにかがすうっと消えていくのを感じました。
涙も、怒りも、もう残っていなかった。
「あなたが“やっと”気づいたその間に……私は、前へ進んでいました」
私は、アルノルト殿下の手を握りしめました。
「今の私は、もう誰かに愛されない私じゃありません。誰かのついでや代わりじゃなくて、まっすぐに見てくれる人が、そばにいるんです」
エドガー様の目が、驚きと後悔にゆがみました。
でも、遅いんです。
あのとき、手放したのは――あなた自身なのですから。
「セシリア……本当に、もう……」
「さようなら、エドガー様。あなたの未来に、幸せがあることを祈っています」
私は、最後に心からそう言いました。
皮肉でも、嫌味でもない、真実の言葉で。
彼は崩れ落ちるように、その場に膝をつきました。
その姿は、かつて私が泣いたあの日とは、まるで逆。
胸の奥にずっと詰まっていた何かが、ようやくほどけたような気がしました。
* * *
舞踏会のあと、殿下と私は、夜のバルコニーでふたりきりになっていました。
王城の庭には、星のような光を放つ魔法のランプがいくつも灯されていて、まるで夢の中にいるみたい。
「……セシリア。つらかったね。あの人に、あんな風に言われて」
アルノルト殿下は、私の手を包みながら、優しい目で見つめてくれました。
「……でも、よく頑張った。逃げないで、立ち上がって、自分の足で歩いて……本当に、君は強い」
私は、胸がきゅっとなりました。
「そんな……わたし、最初は、なにもできなくて。泣いてばかりで……でも、あなたがいたから。見ていてくれたから……」
「セシリア」
殿下は、すっと私を抱きしめました。
「これからは、君が泣かないように、僕が守る。どんなことがあっても、君を一番に考える。だから、もう過去は見なくていい。未来を、一緒に作っていこう」
その言葉が、あたたかく胸に染み込んで――私は、涙をこらえきれなくなりました。
「……うん。ありがとう、殿下」
「……アルノルトって呼んで。もう他人じゃないんだから」
私は、くすっと笑って、少しだけためらってから、言いました。
「……アルノルト、様」
彼は、すごく嬉しそうに笑いました。
その笑顔を見て、私も心から、笑うことができたのです。
* * *
こうして私は、過去から解き放たれて――
本当の幸せを、この手に掴むことができました。
あの頃の私に、もし声をかけてあげられるのなら。
「大丈夫。未来のあなたは、ちゃんと笑えてるから」
そう伝えてあげたいと思います。
だから、もう後悔なんて、ひとつもありません。
私の幸せは、誰かに選ばれることで手に入れたんじゃない。
私自身が、前を向いて歩いた先に、あの人がいてくれたから――
「セシリア、これからも、ずっとそばにいてね」
「はい、アルノルト様。……ずっと、そばにいます」
夜空に、魔法の光がふわりと舞い上がりました。
まるで、祝福の花火みたいに。
そして私は、新しい人生の扉を、しっかりと開いたのです。
それから。
バルコニーの風はやさしくて、まるで私の背中をそっと押してくれるようでした。
「……セシリア、君がここまで頑張ってきたこと、僕はちゃんと見ていたよ」
アルノルト様の声は、まるで歌のように心に響いてきます。
「孤児院で子どもたちに微笑みかける君。自分を犠牲にしてでも人を助けようとする君。そんな君を、僕はずっと見つめてきた。――気づいたら、もう、君しか見えなくなっていたんだ」
私はびっくりして彼の顔を見つめました。
こんなにも真っ直ぐに、私のことを見てくれる人がいたなんて。
あの日、涙を流していた私に教えてあげたかった。
「……私、もう泣かないって決めたの。エドガー様に捨てられたとき、泣いて、泣いて、泣いて……でも、涙じゃ何も変わらなかった」
「うん」
「だから前に進もうって、そう決めたの」
「その決断が、君をここまで連れてきたんだね」
アルノルト様は、そっと私の手にキスをしました。
心臓が跳ねるみたいに、どきん、と音を立てました。
――だけど、彼の目はまっすぐで、何も迷っていなかった。
「そんな君だからこそ、王妃になってほしい。表向きの華やかさなんて、もう必要ないんだ。僕がそばにいてほしいのは、強くて、やさしい君だけだから」
涙が出そうになりました。
でも、もう泣かないって決めたんだ。
「……はい。わたしでよければ、ずっと、あなたのそばにいます」
その瞬間、彼が私を優しく抱きしめてくれて、世界がしあわせの光で満ちたように感じました。
遠くでは、舞踏会の終わりを告げる鐘が鳴り響いていました。
ああ、きっと、これが――本当の始まり。
* * *
その後、私とアルノルト様の婚約は、王宮中に知れわたり、国中の話題になりました。
「セシリア様のような方こそ、未来の王妃にふさわしいわ!」「孤児院の支援であれだけの成果を出したなんて……本物の心の貴族ね」
そんな声が届くたびに、昔の自分を思い出して、ちょっぴり照れてしまいました。
でも、私の毎日は変わらずに、孤児院に行ったり、子どもたちと遊んだり、町の小さなお店でお買い物をしたり。
アルノルト様は、そんな私をとても大事にしてくれて、時々手を引いて、一緒に歩いてくれます。
そして――
ある日、ふとすれ違った人影。
ボロボロの外套、痩せこけた頬、かつての気品のかけらもないその姿。
「……エドガー様?」
私は思わず声をかけてしまいました。
彼は私を見て、一瞬だけ目を見開き、すぐに俯きました。
「ああ……君か。今さら、何を言えばいいか……わからないよ」
声は、かすれていて、まるで別人のようでした。
私は、ただ静かに見つめました。
「私を捨てたこと、後悔しているんですか?」
「……ああ。毎晩、夢に見るんだ。あのとき、どうして気づけなかったんだろうって……でも、今さら、遅いよな」
その言葉に、私はふっと微笑んで言いました。
「ええ。今さら、遅いです」
もう涙は出ません。
それどころか、心の奥が晴れていくようでした。
私は踵を返し、待っていた馬車に乗り込みました。
アルノルト様が私に手を差し伸べて、私はその手を取る。
それが、私の選んだ未来。
“誰かに捨てられた私”ではなく、“誰かに選ばれた私”として。
* * *
最後に、もう一度だけ言わせてください。
あのときの私を、見下して、見捨てて、蔑んだあなたへ。
私は、もう戻りません。
だって、私はもう、“本物”だから。
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ルーナの信じてきた世界そのものが否定された日。
伯爵令嬢としての身分も、温かい我が家も奪われた。そして信じていた人たちも、それが幻想だったのだと知った。
そして、告げられた両親の死の真相。
家督を継ぐために父の異母弟である叔父が、両親の死に関わっていた。そして、メソフィス家の財産を独占するために、ルーナの存在を不要とした。
絶望しかなかった。
涙すら出なかった。人間は本当の絶望の前では涙がでないのだとルーナは初めて知った。
雪が積もる冷たい森の中で、この命が果ててしまった方がよほど幸福だとすら感じていた。
そもそも魔の森と呼ばれ恐れられている森だ。誰の助けも期待はできないし、ここに放置した人間たちは、見たこともない魔獣にルーナが食い殺されるのを期待していた。
ルーナは死を待つしか他になかった。
途切れそうになる意識の中で、ルーナは温かい温もりに包まれた夢を見ていた。
そして、ルーナがその温もりを感じた日。
ルーナ・メソフィス伯爵令嬢は亡くなったと公式に発表された。
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