意地悪な許婚はもういらない!私の幸せはもう誰にも邪魔させない

有賀冬馬

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伯爵家の令嬢として育ち、誰にも迷惑をかけないよう、静かに、慎ましく生きてきた。

「……またそれ? ほんと、地味で退屈なやつだな」

 今日もまた、彼――ルーク・バルティア様は、ため息まじりにわたしを見下ろした。
 豪奢な金の刺繍が施された外套。その中の冷たい瞳が、まるで価値のないものを見るようにわたしを見つめている。

「は、はい……申し訳ありません、ルーク様……」

 いつものように、自然と頭が下がる。
 わたしはきっと、怒られ慣れてしまっているのだと思う。昔は、こういうとき胸が痛んで、涙が出そうになった。でも、今は……なんとなく、ただ寒い風が吹き抜けるだけのようで。

「この前の舞踏会、おまえだけ浮いてたぞ? もっと華やかなドレスとか、着れないのかよ。……ほら、あのシェリル嬢みたいにさ」

 わたしの胸の中に、ちくりととげのような痛みが走る。

 シェリル・リオネッタ嬢。
 侯爵令嬢で、最近ルーク様とよく噂になっている方。金色の巻き髪に、薔薇色のドレスがよく似合う、まさに“おとぎ話のお姫様”のような人。

「でも、わたしにはあんな派手なもの、似合いませんし……お父様も、質素であれと言われていて――」

「はあぁ~……だからおまえはダメなんだよなぁ。もう、なんか一緒にいるのが恥ずかしいんだよ」

 ルーク様は額に手を当てて、オーバーにため息をつく。
 それを見ていた周囲の貴族たちが、くすくすと笑った。

(……なんで、こんなに冷たくなったの?)

 数年前までは、たしかに優しかった。
 わたしが熱を出したとき、薬を届けてくれたこともあったし、「早く元気になれよ」って頭を撫でてくれたこともあった。

 あのときのルーク様は、たしかに優しかったのに――。

「ま、いいや。どうせおまえみたいなの、そのうち他の誰かに取られたりしないだろ」

 そう言って、彼はくすりと笑った。
 嘲るような笑み。まるで、わたしが一生“誰にも必要とされない存在”であることを、言い切ったみたいな笑いだった。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 だけど、何も言えなかった。

 だって、わたしは――エリス・ラングレイは、ルーク・バルティア様の“婚約者”なのだから。

 本当は、嬉しいはずだった。
 幼い頃から婚約者として育ち、彼に見合うように、マナーも魔導学も歴史も、必死で学んできた。
 いつか、彼の妻になれる日が来ると思っていた。

 でも今、わたしの横には誰もいない。
 彼の目は、もうわたしを見ていない。

(どうして……? わたし、なにか間違ったことをしたの……?)

 そう思っても、答えはどこにもなかった。

 彼のそばに立つたびに、空っぽの何かがわたしの胸の中に積もっていく。
 冷たくて、重くて、でも言葉にはできなくて――

「……エリス。もう、オレに話しかけんなよ。イライラするからさ」

 その一言が、わたしの心に、止めを刺した。

「……はい」

 そう答えるしかなかった。
 頭を下げて、その場から逃げ出すように足を動かす。

 顔を見られたくなかった。
 今にも泣きそうな顔を、あの人には見られたくなかったから――。









 その日は、王城の大広間で開かれる夜会だった。

 貴族たちが集まり、豪華な音楽と笑い声に包まれる空間。
 金や銀の食器がずらりと並び、壁にはいくつものシャンデリアが輝いていた。
 まるでおとぎ話の舞踏会のようだった。

 ――わたしは、その場の片隅に立っていた。

 きらびやかなドレスをまとった令嬢たちの中で、わたしはどこか浮いていた。
 地味な色のドレス。飾りの少ない髪型。
 それが父の方針で、質素であれと厳しく言われていたからだといっても、誰もそんなこと気にしてくれない。

 みんな、ただ私を見て、くすくすと笑う。

「……ねえ、あれってバルティア子爵の婚約者でしょ? なんか地味すぎて、浮いてない?」

「うそ、ほんとだ。まさか、あれが婚約者なの? 全然つり合ってないよね~」

 聞こえるような声で、そう言われても、笑ってやり過ごすしかなかった。

(いいの。わたしは、ルーク様の隣に立つためにここにいるのだから……)

 そう、自分に言い聞かせる。
 でも、心の中では何度も涙がにじみそうになっていた。

 そんなとき――

「ルーク様っ!」

 場の空気が、ふっと華やいだ。
 扉が開き、黄金色の外套に身を包んだルーク様が入ってきた。隣には、真紅のドレスを着たシェリル・リオネッタ嬢の姿があった。

 ふたりは、ぴったりと腕を組んでいた。

 ああ、やっぱり――。

 胸が、ぎゅうっと苦しくなった。

 でも、わたしは彼の婚約者なのだから。
 信じたかった。彼の隣に立つのは、今だけその人で、すぐにわたしのところへ来てくれるって。

 だけど。

「――エリス・ラングレイ嬢」

 そのとき、ルーク様の声が、広間の中心で響いた。

 視線が一斉にわたしに集まる。

 ざわめきの中で、わたしはその場に立ちすくんだ。
 なにか、すごく嫌な予感がした。

「きみとの婚約は、今日限りで破棄させてもらう」

 ――え?

 わたしの耳は、何かの間違いを聞いたと思った。
 でも、彼の口元は確かにそう動いた。
 その目は、冷たくて、ひとかけらの情もなかった。

「え……? ど、どういう……こと、ですか……?」

 わたしは、声が震えるのを抑えられなかった。
 ルーク様は、まるで面倒くさそうに髪をかきあげると、言い放った。

「おまえさ、地味だし、つまんないし。社交界でも全然話題にならないし、正直、オレにとってメリットないんだよね」

 わたしの周囲から、くすくすという笑いが広がっていく。

「それに、シェリル嬢みたいな魅力的な方と出会ってしまったからさ。もう、おまえといる理由もなくなったし。あ、でも感謝はしてるよ? 長いこと我慢してくれて、ありがとな?」

 それは、まるで舞台の上で役者がセリフを読むように、軽々しく言われた“さようなら”だった。

 わたしは、息をするのを忘れていた。
 頭が真っ白になって、目の前の光景がぼやけて見えた。

「……っ」

 言葉が、出てこない。
 怒りも、悲しみも、すべてが混ざって、涙だけがこみあげてきた。

「やだ、泣くの? あらあら、みっともないわね」

 隣で笑ったのは、シェリル嬢だった。
 まるで勝ち誇ったように、冷たい目でわたしを見ていた。

「――っ、申し訳……ございません……」

 わたしは、深く頭を下げた。
 こんな場で取り乱してはいけない。
 そう教えられて育ってきたから。

 足元がふらふらして、倒れそうだった。
 でも、泣くのはいやだった。
 あの人の前では、絶対に泣きたくなかった。

「エリス嬢、もう用はないからさ。さようなら」

 それが、ルーク様の最後の言葉だった。

 わたしは、まるで透明な存在になったように、人々の間をすり抜けて、その場を去った。

 誰も、声をかけてくれなかった。
 誰も、わたしを止めてはくれなかった。

 ――わたしの、婚約は。
 大広間という見世物小屋のような場所で、
 嘲笑とともに、終わったのだった。









 夜の王都は、とても静かだった。

 馬車の中、窓の外に映る景色が、にじんでゆらゆら揺れていた。
 それは、涙で視界がぼやけていたせいかもしれない。

 けれど、わたしはもう、泣くのをやめていた。
 泣いても、何も変わらない。
 あの人は、もう――わたしを見ていないのだから。

「……お嬢様。お屋敷に、お戻りになりますか?」

 馬車の御者席から、年配の御者さんの優しい声が聞こえた。
 いつもわたしを気遣ってくれる人。でも今は、その声すら遠くに感じる。

「……はい。お願いします」

 そう返すのが精一杯だった。
 喉がひりひりして、声を出すのもつらかった。

 わたしは、ルーク様に捨てられた。
 ――それも、人々の前で。
 まるで、わたしが笑いものになるのを楽しんでいたかのように。

 思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
 恥ずかしくて、苦しくて、悔しくて……でも、何もできなかった。

「わたし……何のために……ずっと頑張ってきたのかな……」

 ふいに、ぽつりと声がこぼれる。

 礼儀作法。
 舞踏の練習。
 長い髪を結い上げて、きれいに着飾ることも……全部、彼のためだった。

 でも、彼は一言の優しさもなく、
 まるで捨てる石ころを蹴り飛ばすみたいに、わたしとの婚約を破棄した。

 ――「つまらない」
 ――「地味だ」
 ――「シェリル嬢のほうが魅力的だ」

 そんなふうに言われて、心が壊れてしまいそうだった。

「……でも、泣かない。泣かない……っ」

 唇をぎゅっと噛んで、涙をこらえた。
 屋敷に戻ったとき、侍女たちに顔を見られたくなかった。
 この顔のままだと、きっと「何があったのですか?」と聞かれる。優しい言葉をかけられるほど、わたしの心はまだ、立ち直れない。

 馬車が停まり、扉が開いた。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 やさしく迎えてくれる侍女のミリーが頭を下げる。
 わたしはにこりともできず、こくんとうなずいてそのまま部屋へと歩いていった。

 広すぎる自室。
 飾り気のないベッド、薄い絨毯。父の方針で質素に整えられた空間は、まるで心の中みたいに寒々しい。

 扉を閉めると、背中からずるずると崩れ落ちた。

「うぅ……ひっく……っ」

 やっぱり、がまんできなかった。

 声を殺して泣いた。
 誰にも聞こえないように、布団に顔を埋めて、枕をぎゅっと抱きしめて。
 涙が止まらなかった。

(わたし、ちゃんと努力してきたのに……)
(どうして、こんな仕打ちを受けなきゃいけないの……?)

 誰も教えてくれない。
 優しさも、労りの言葉も、どこにもなかった。

 ずっと一緒にいた侍女たちは、どこか気まずそうに視線を逸らしていた。
 父は、婚約破棄のことを聞いても「騒ぎを起こすな」の一言で終わりだった。
 母はとっくに亡くなっていて、頼れる人はもういない。

 わたしは、ただひとりぼっちだった。

「こんなに……さみしいのに……」

 声に出して、初めて本当の気持ちがあふれてきた。

「だれか……わたしを、見て……だれでもいいから、わたしを……ちゃんと、見て……」

 そう願ったところで、誰かが来てくれるわけじゃない。
 でも、願わずにはいられなかった。
 もう、誰にも必要とされていない自分が、どこにも居場所がないようで――こわかった。

 




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