意地悪な許婚はもういらない!私の幸せはもう誰にも邪魔させない

有賀冬馬

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あれから、数日が過ぎた。

 屋敷の中はいつも通りだったけれど、わたしの心だけが、止まったままのように感じていた。

 食事も喉を通らず、日差しのあたる場所にも行けず、毎日ベッドで丸まって過ごしていた。
 ミリーが心配そうに紅茶を運んでくれるたびに、申し訳ない気持ちでいっぱいになったけれど、笑うことができなかった。

「もう、わたし……どうしたらいいのか、わからない……」

 枕に顔をうずめて、小さくつぶやいた。

 でも、そんなわたしに、ある日――父が、突然こう言った。

「このまま何もしないのなら、領地の事務仕事でも手伝ってみろ。いい気分転換になるだろう」

 呆れるほど冷たい言い方だったけれど、少しだけ……ほんの少しだけ、わたしの中に何かが灯った気がした。

(……外に、出てみようかな)

 今までのわたしなら、絶対にしなかった選択だった。
 けれど、じっとしていても苦しいだけなら、いっそ別の景色を見た方がいいのかもしれないと思った。

 そして――それが、彼との運命の出会いにつながるとは、そのときのわたしには、まったく想像もつかなかった。

 ***

 領地の役所は、城の南側にある大きな建物だった。

 大理石でできた広い廊下、行き交う使用人たちの足音、書類を運ぶ声……。
 少しだけ緊張しながら、わたしは案内されるまま執務室の扉をノックした。

「失礼します……わたし、公爵令嬢のリディアと申します。本日より、事務仕事を少しだけお手伝いさせていただくことに……」

 中にいた数人の文官たちが、ぱっと立ち上がった。
 その中に、彼がいた。

「……はじめまして。私はこの領の執政官、アルフレッド・カスティエルと申します」

 そう言って、彼はわたしに微笑んだ。

 優しい、静かな瞳だった。
 まるで……わたしの中のぐちゃぐちゃな気持ちを、何も言わずにそっと包み込んでくれるような、あたたかいまなざし。

(この人……)

 第一印象から、何かが違っていた。

「無理をなさらず、できることからで構いません。どうぞ、よろしくお願いいたします、リディア様」

 彼の声は低く、穏やかで、わたしの名前を呼ぶその響きが、胸にすとんと落ちていった。

 その日から、わたしは毎日、役所へ通うことになった。

 最初は帳簿の整理や、報告書の確認など、かんたんな作業だけだった。
 でも、真面目に働くうちに、周りの人たちとも少しずつ打ち解けていった。

 そして、何より――アルフレッド様との時間が、わたしにとって特別なものになっていった。

「……リディア様は、数字を見るのが得意なのですね」

「い、いえっ、そんなことは……でも、間違いがあると気になってしまって……つい」

「それは素晴らしいことですよ。自分の目を信じて、間違いを正す力というのは、簡単に身につくものではありません」

「……アルフレッド様……」

 わたしが褒められるなんて、いつ以来だっただろう。

 ルーク様には、「つまらない性格」と言われた。
 静かに本を読むことや、計算をすることを、「女らしくない」と嘲られた。
 でも、アルフレッド様は違った。

 わたしの持っているものを、否定しないで、ちゃんと見てくれた。
 それだけで、胸がきゅうっと熱くなった。

 ***

「リディア様は……なぜ、領地のお仕事を手伝おうと思われたのですか?」

 ある日、アルフレッド様がぽつりと聞いた。
 わたしは少しだけ迷ってから、ゆっくりと答えた。

「……理由は……うまく言えません。けど……今のわたしには、ここで何かをするしかなかったんです。何かをしていないと、消えてしまいそうで……」

 小さな声だったのに、アルフレッド様はしっかりと頷いてくれた。

「……生きるために、前を向く。その選択をされたあなたは、とても強い方だと思います」

 その言葉が、あまりにもあたたかくて……わたしは涙をこらえることができなかった。

「っ……ご、ごめんなさい……わたし、弱くて……」

「いいえ。涙を流せる人は、心がきれいな証拠です」

 そう言ってくれた彼の言葉は、傷ついた心に、そっと触れてきた。

(この人といると……少しだけ、呼吸が楽になる)

 それが、わたしの正直な気持ちだった。











 アルフレッド様と出会ってから、少しずつだけれど、わたしの心にはあたたかいものが差し込んできていた。

 毎朝、屋敷を出る前には鏡の前で髪を整えて、小さなリボンを結ぶ。
 今まではどうでもよかったそんなことが、最近はちょっとだけ……楽しい。

 でも、それは誰にも言えない小さな秘密。

(だって、まるで恋する乙女みたい……)

 そう思うたびに、顔がかぁっと赤くなってしまって、自分で自分が恥ずかしくなるのだった。

***

 ある日のこと。
 アルフレッド様に誘われて、ふたりきりで文庫の整理をすることになった。

「この書庫は、代々の執政官しか入れない場所だったのですが……あなたなら信頼できると思いました。手伝っていただけませんか?」

「……わたしで、よければ。がんばります」

 本当は緊張で手が震えそうだったけれど、アルフレッド様のその言葉がうれしくて、わたしは笑ってうなずいた。

 文庫の奥には、木の棚がずらりと並んでいて、ところどころ古い書物にほこりが積もっていた。
 わたしたちは、並んでひとつずつ本を取り出しては、丁寧に整えていった。

「この帳簿は、二代前の執政官が書かれたものです。とても几帳面な方だったようで……」

 アルフレッド様がそう言って見せてくれた帳簿には、美しい文字で細かく数字が並んでいた。

「すごい……まるで、芸術品みたいですね……」

「ええ。こうして残された記録から、当時の人々の生活がわかるんです」

 彼は本当に、領地のことを心から大切にしているのだと思った。
 それは、ただ“仕事”としてやっているだけではなく、ここに生きる人たちへの“想い”があるから。

 そんな彼の横顔を、わたしはそっと見つめていた。

(あたたかい人……それに、まっすぐな人)

 思わず胸がきゅうっとなった。

***

 気づけば、夕日が窓から差し込んでいた。

「……そろそろ、今日の作業は終わりにしましょうか」

「はい。あの、アルフレッド様……今日は、とても楽しかったです」

 思い切って口に出してみた。
 すると、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、すぐにやさしく笑った。

「私もです。リディア様がそばにいてくださると、とても心強い」

「えっ、わたしが……?」

「はい。あなたは、ご自分で思っているより、ずっと有能で、誠実な方です。だからこそ……誰かに傷つけられるべきではなかった」

 その言葉に、心が震えた。

 今まで、誰かから「あなたは悪くない」と言われたことなんて、一度もなかった。

「っ……アルフレッド様……」

 気がつくと、目に涙がたまっていた。

「ごめんなさい、こんなときに……わたし、泣くつもりじゃ……」

 慌てて袖でぬぐおうとしたとき、そっとアルフレッド様の手が伸びてきて、ハンカチを差し出してくれた。

「無理に我慢しないでください。辛かったのですね」

 その言葉に、またぽろぽろと涙がこぼれた。

「っ、はい……わたし……ほんとうに、辛かったんです。あの人に、馬鹿にされて、信じてもらえなくて、全部……わたしが悪いみたいにされて……っ」

「あなたは、何も悪くない。あなたが信じた気持ちは、本物だった。それを踏みにじったのは、彼のほうだ」

 きっぱりとそう言ってくれたその声に、心が救われた気がした。

(この人に出会えて、よかった……)

 そう思った瞬間、自然と微笑んでいた。

「ありがとう、ございます……アルフレッド様」

「どうか……あなたが、少しでも笑えるように。私は、力になりたい」

 その言葉は、今のわたしにとって、何よりの宝物だった。

***

 その日の帰り道、空は茜色に染まっていて、鳥たちが静かに森へ帰っていくのが見えた。

 胸に残るのは、彼の言葉と、あたたかなハンカチの感触。

 いつの間にか、わたしの心には確かな想いが芽吹いていた。

(わたし……きっと、もう一度、人を信じてもいいのかもしれない)

 そう思えるほどに、アルフレッド様の存在は、わたしの世界を変え始めていた――。









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