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しおりを挟む――その日、わたしは久しぶりに街へ出ることになった。
アルフレッド様の領地視察に同行するかたちで、彼が治める町の市(いち)を巡るためだった。
民の暮らしを目で見て感じることが、執政官としてとても大切なのだと、アルフレッド様は言っていた。
朝から心がそわそわしていたのは、その視察のため……だけじゃなかった。
(今日、わたし……ルーク様と、会うかもしれない)
元婚約者の名前を思い出すたびに、胸の奥がずきんと痛んだ。
でも、それでも、逃げたくなかった。
あの日、何も言い返せなかったわたしじゃなくて――
ちゃんと、自分の気持ちを、自分の言葉で伝えられるように、なりたいって思ったから。
……アルフレッド様と出会って、変わり始めたわたしの第一歩。
それが今日なんだって、わかっていた。
***
市はとてもにぎやかで、たくさんの笑い声と香ばしいパンの香りが漂っていた。
子どもたちが笑って走り回り、職人さんたちの元気な声が飛び交う。
その中を、アルフレッド様と並んで歩くのは、なんだか夢のようだった。
「リディア様、疲れていませんか?」
「……はい、大丈夫です」
アルフレッド様は、わたしの歩調にあわせてゆっくり歩いてくれていた。
そんなやさしさがうれしくて、わたしはこっそり笑みを浮かべた。
けれど――そのとき。
「リディア!? おい、リディアじゃないかっ!」
突然、背後から聞こえた大きな声に、わたしの体はびくりと震えた。
振り向くと、そこには――
「……ルーク様」
あの人が、立っていた。
***
「やっぱりお前か! こんなところで何してるんだ? まさか、物売りにでも落ちぶれたのか?」
ルーク様は、あのときと変わらない傲慢な笑いを浮かべていた。
その姿を見た瞬間、心臓がぎゅうっと縮こまったけど――
そのすぐ隣にいるアルフレッド様の存在を感じて、わたしは深く息を吸った。
「いいえ。わたしは今、アルフレッド様のもとで……執政官補佐として働かせていただいています」
そう言うと、エドワルド様の顔がぴくりと引きつった。
「な……なんだと? この男の下で……? おい、リディア、お前にはもっと相応しい場所があっただろう! 王都の社交界だって、俺と一緒なら……!」
「それは……あなたの隣が“幸せ”だったなら、そうだったのかもしれません。でも、わたしは、あなたの隣でずっと……苦しかった」
「はぁ? お前、何を言って――」
「わたしは、ただ静かに生きたかった。あなたに気に入られるようにがんばって、勉強して、笑顔も練習した。でも、あなたは……何ひとつ、見てくれなかった」
気がついたら、声が震えていた。
でも、言葉は止まらなかった。
「あなたは、他の女の人の笑顔ばかりを見て、わたしの努力なんて馬鹿にして……それでいて、自分の間違いは何ひとつ認めなかった」
「う、うるさいっ! お前は黙っていればよかったんだ! お前は“俺のもの”だったんだから!」
その言葉に、わたしはぴたりと立ち止まって、静かに目を伏せた。
「わたしは、誰の“もの”でもありません。誰かの飾りでも、人形でもない……わたしは、“わたし”です」
その瞬間、自分の中で何かが――ぷつんと、ほどけた気がした。
長いこと絡まっていた、苦しさや哀しさが、すーっと消えていくような……そんな感じだった。
「……おい、なんだその目は。お前、変わったな……っ。なにか調子に乗ってるんじゃ……!」
「リディア様をこれ以上侮辱するのはおやめください」
低く、でもはっきりとした声が、わたしのすぐ隣から聞こえた。
アルフレッド様だった。
「ルーク殿、あなたのなさったことは、すでに各方面で調査が進んでいます。婚約破棄の件だけでなく、商人組合との裏取引、偽証書類、城下への違法な課税行為――どれも見過ごせることではありません」
「な、なにっ……!? お、お前、まさか俺をはめようとっ――!」
「自業自得という言葉をご存知ですか?」
アルフレッド様の言葉には、怒りも、恨みもなかった。
ただ、冷静でまっすぐな“真実”だけがそこにあった。
ルーク様の顔が真っ青になり、足元がふらついて、彼は後ずさりながら逃げるようにその場を離れていった。
その姿を見送って、わたしはふうっと長い息を吐いた。
***
「……大丈夫ですか?」
アルフレッド様が、そっとわたしの手に触れてきた。
その手はあたたかくて、わたしの指先を包みこんでくれるようだった。
「はい……ちょっとだけ、胸が痛いけれど……でも、すごく、すっきりしました」
「あなたは立派でした。とても勇敢でしたよ、リディア様」
その言葉が、じんわりと心にしみこんできて、また泣きそうになった。
でも今度は、うれし涙だった。
「……わたし、強くなれたのかな……?」
「ええ。とても。私はあなたを、誇りに思います」
その言葉に、涙がこぼれないように、ぎゅっと唇をかんだ。
今日、わたしは過去と向き合った。
そして、そこから――
ほんとうに前を向いて、歩き出すことができた気がした。
それは、再会から三日後のことだった。
アルフレッド様の執務室にいたわたしは、執政官補佐としての業務をこなしながらも、どこか心の中がざわざわしていた。
落ち着かない……というか、何かが始まりそうな、そんな予感。
「リディア様、少しお耳をお貸しください」
ふいにアルフレッド様が低く、だけど興奮を含んだ声でわたしを呼んだ。
「はい……? どうされましたか?」
わたしが近づくと、アルフレッド様は書類の束を一枚ずつ指でなぞりながら、静かに語り始めた。
「ついに、証拠が揃いました。ルーク殿が、王都の商人ギルドと結託して、違法な課税と裏金の授受を行っていた証拠です。それから、城下の孤児院への支援金の一部を着服していた形跡も……」
「そ、そんな……!」
わたしは思わず口元を手で覆ってしまった。
ひどい。
いくらなんでも、孤児院のお金まで……。
そこには親もなく、ただ生きるだけで精一杯の子どもたちがいるのに。
「これらの証拠は、すでに王都の監察官と中央審問所に送付されました。あとは、正式な手続きが進めば――」
「ルーク様は、どうなってしまうんですか……?」
わたしが尋ねると、アルフレッド様は少しだけ眉を寄せたけど、ためらいなく言った。
「……爵位の剥奪は確実でしょう。そして、悪質性が高いために、王都での公開裁判が予定されているようです。つまり……」
つまり、それはもう――「終わり」だということ。
ルーク様の傲慢で見下した態度、あれほどの自信は……すべて、崩れ去ってしまう。
……でも、不思議と、わたしの心は晴れていた。
だって、これは「因果応報」ってやつだもの。
どれだけ取り繕っても、嘘やごまかしはいつか明るみに出る。
人を見下して、踏みにじって、笑っていた報いは……いつか必ず、自分に返ってくる。
「アルフレッド様……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「礼を言われるのは私のほうです。リディア様があの日、あの場で堂々と真実を語ってくれたからこそ、私も真っ直ぐに行動できました」
アルフレッド様の瞳は、どこまでもまっすぐで、あたたかかった。
わたしのことを、ただ「かわいそうな元婚約者」としてじゃなくて――
ひとりの人間として、ちゃんと見て、信じてくれる。
そんな人がそばにいてくれることが、胸の奥から嬉しくてたまらなかった。
「……ねぇ、アルフレッド様。もし……あのとき、あなたと出会っていなかったら、わたしは今ごろ、どうしていたと思いますか?」
「きっと……心にたくさんの傷を抱えたまま、ひとりで泣いていたでしょう。でも、私は信じています。あなたなら、どんな場所にいても、誰にも負けずに立ち上がっていたはずです。私は……そういうあなたに、惹かれたんですから」
「……アルフレッド様……」
また、泣きそうになってしまった。
この人の前では、泣いてばかりだなって思うけど――
それは、悲しい涙じゃないから、いいんだって思った。
***
その夜、王都からの使者が到着した。
ルーク様の不正はすべて明るみに出され、彼は爵位を剥奪され、財産の大半を没収されることが正式に決まった。
社交界ではすでに彼の悪事が広まり、昨日まで彼を「理想の花婿」と持ち上げていた貴族たちも、蜘蛛の子を散らすように離れていったという。
もう彼のことを考えて胸が苦しくなることは、なかった。
過去の傷は、癒えたわけじゃないかもしれない。
それでも、わたしはもう、あの頃のわたしじゃない。
アルフレッド様と出会って、わたしは――前を向けるようになった。
少しずつだけど、自分を好きになれるようになった。
そんな自分を、大切にしたいと思えるようになった。
だから、今はこう言える。
「さようなら、ルーク様」って。
そして――
「こんにちは、これからのわたし」って。
――いつからだろう。アルフレッド様のことを考えるだけで、胸がふわっとあたたかくなるようになったのは。
ルーク様と過ごしていた時間の中では、一度だってこんな気持ちになったことはなかったのに。
胸の奥がじんわりして、目が合うだけで、うまく言葉が出なくなってしまう。
「……リディア様?」
「あっ……! は、はいっ!」
呼ばれたことに気づかず、ついぼんやりしてしまっていたわたしに、アルフレッド様が優しい声で問いかけてくる。
「疲れましたか? 今日は、無理をしなくてもいいんですよ?」
やさしい声。あたたかな笑み。
その全部が、まるで包みこむようにわたしを癒してくれる。
「い、いえっ、そんな……ただ、少し考えごとをしていただけで……」
「ふふ、それならいいのですが。……さきほどの報告書の件、少し相談したいのですが、よろしいですか?」
「はいっ!」
わたしは気を取り直して、資料の束を持ってアルフレッド様の机へ近づいた。
自然と肩が触れてしまうほど、距離が近い。
こんなに近くにいるのに……嫌じゃない。
むしろ、ドキドキして、顔が熱くなるのを感じる。
「この項目ですが……先日、リディア様が提案してくださった案を使えば、もっと効率よくできそうなのですが」
「えっ、わたしの案ですか?」
「ええ。実際に試してみたところ、とても上手くいきました。あなたの観察眼には、いつも驚かされていますよ」
「そ、そんな……あのときは、たまたま、ひらめいただけで……」
褒められて、うれしいのに、どうしてもうまく受け止められない。
昔からずっと、誰かにほめられるたびに、「そんなことないです」って言ってしまう癖がある。
「謙遜しすぎですよ。自信を持ってください。あなたの力は、本当に素晴らしい」
アルフレッド様は、わたしの目をまっすぐに見つめながら、そう言ってくれた。
そのまなざしに――わたしの心は、また少し揺れてしまう。
***
夕方になり、仕事がひと段落した頃。
「今日は……少しだけ、遠回りして散歩でもしませんか?」
突然、そんなお誘いを受けて、わたしは一瞬きょとんとしてしまった。
「えっ、わたしと……ですか?」
「はい。お付き合いいただけますか?」
そんな風に言われたら、断れるはずがなかった。
***
ふたりで並んで歩いた城下町の道は、ほんのりと茜色に染まっていて、いつもより少しだけ、空が優しく見えた。
「リディア様は、この町のこと、好きですか?」
「……はい。好きです。いろんな思い出がある町だから……」
悲しいことも、うれしいことも、ここには詰まっている。
でも今は、きっと……この町が、少しずつ、わたしに優しくなってくれている気がする。
「私も、好きです。この町も、この国も……そして――」
アルフレッド様は、ふいに立ち止まって、わたしの方を見た。
「……あなたも」
「……えっ……」
まるで、時が止まったみたいだった。
胸の奥がぎゅっと苦しくなって、でも同時に、ふわっと浮かぶような感覚。
「わたし……」
何かを言わなくちゃって思ったのに、言葉が出てこなくて、わたしはうつむいてしまった。
でもそのとき――そっと、アルフレッド様がわたしの手を取った。
その手は、大きくて、あたたかくて。
ふわっとわたしの心まで包み込んでくれるようだった。
「すぐに答えを出さなくていいんです。無理に返事をしなくても……ただ、こうして、少しずつ、近づけたらと思っています」
「……はい」
やっと出せた声は、震えていたけど――
でも、それはきっと、怖さなんかじゃなくて。
わたしの中にある、新しい気持ち。
それを、ちゃんと受け止めたいっていう、覚悟の声。
「恋」って言葉を、まだ口にするのは恥ずかしいけれど。
でも、たしかに……アルフレッド様と一緒にいると、わたしの世界は、少しずつ変わっていく。
自分に自信がなくて、何もかも諦めかけていたわたしに、光をくれた人。
もう、昔のわたしじゃない。
わたしは――
「アルフレッド様、ありがとうございます。わたし……あなたと過ごすこの時間が、とても、うれしいです」
まだ、うまく言えないけど。
きっとこの先、もっとちゃんと、気持ちを伝えられるようになりたい。
この胸の鼓動が、それを教えてくれていた。
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