地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです

有賀冬馬

文字の大きさ
4 / 4

4

しおりを挟む
 その知らせは、まるで誰かが意図的に息をひそめたかのように、音もなく、けれど確実に王宮の中を巡っていった。
 鐘が鳴るわけでもなく、使者が走り回るわけでもない。ただ、空気の温度がわずかに変わったような、そんな感覚だけが、じわじわと広がっていく。

 朝の光がやわらかく差し込む回廊では、磨かれた床に長い影が伸び、その影を踏まないように人々が静かに歩いていた。
 書類の山が高く積まれた執務室でも、羽ペンを握る手が、いつもより少しだけ重たそうに見える。

 人々は視線を合わせると、ほんの一瞬だけためらってから、小さな声で言葉を交わした。

「……聞いた?」
「ええ……あの件でしょう?」
「そう。不正が、とうとう公になったそうよ」
「やっぱり……。もう、隠しきれなかったのね」
「正式に裁きが下るって。王命だそうよ」

 廊下を歩く文官たちの声は、ひそひそと低く抑えられている。
 笑顔を作ろうとしても、口元が引きつってしまう。
 声を潜めているのに、その話題がどれほど重いものかは、誰の耳にもはっきりと伝わっていた。

 長い時間をかけて積み重ねられてきた嘘やごまかし。
 見ないふりをされてきた帳簿の数字。
 そして、気づかないふりをすることで守られてきた裏切りの数々。

 それらが、ようやく光の下に引きずり出されたのだ。

 そして、その一覧の中には――。
 元婚約者、レオン様の名前も、逃げ場のないほどはっきりと記されていた。

 地位は剥奪され、役職も失われた。
 彼の傍で命令を伝えていた王女付きの侍女も、遠い土地へ移されたと聞く。
 つい昨日まで、当たり前のように続くと思われていた日常は、ほんの一夜で崩れ去った。

 彼は、一晩ですべてを失ったのだった。

「……そう」

 私はその報告を受けても、自分でも驚くほど心が静かだった。
 胸がぎゅっと締めつけられることもなければ、怒りがこみ上げることもない。

 ただ、胸の奥で、静かにひとつの言葉が浮かんだだけ。

 ――終わったんだな。

 それだけだった。

 あの日々は、もう過去なのだと。
 思い出そうとすれば、細かい出来事はいくらでも浮かぶ。
 けれど、それらはもう、私の足を止めるものではなかった。



 それから数日後のことだった。

 人通りの少ない回廊を、一人で歩いていたとき。
 いつもなら、使用人や文官が行き交うその場所は、不思議なほど静かで、足音だけが響いていた。

「……待ってくれ」

 背後からかけられた声に、私は足を止めた。
 一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、確かに見覚えのある顔だった。
 けれど、以前の彼とは、どこかが決定的に違って見えた。

 自信に満ちていた表情は影を潜め、疲れと不安が、そのまま顔に浮かんでいる。
 整えられていたはずの身なりも、今はどこか乱れていた。

「話がある。少しでいいんだ」

 声は弱く、そして、必死だった。

「……何でしょうか」

 私は立ち止まったが、一歩も近づかなかった。
 その距離だけで、彼は何かを悟ったように、小さく息を呑んだ。

「君しか、いないんだ」
「……」
「全部、間違っていた。あの時、君を手放すべきじゃなかった」

 言葉は途中で何度も途切れた。
 まるで、自分自身に言い聞かせるように。
 けれど、その声は、どこか頼りなかった。

「君は……君だけは、俺を見捨てないと思っていたんだ」

 その一言に、私は静かに目を伏せた。
 胸の奥に、小さなため息が落ちていく。

「それは……違います」

「え?」

「私は、誰かを支えるために生きてきました。ずっと、そうしてきたと思います」

 ゆっくり、言葉を選びながら続ける。

「でも、それは……見下されるためでも、都合よく使われるためでもありません」

 彼は何か言おうとして口を開きかけた。
 けれど、言葉は形にならず、ただ沈黙だけが残った。

「あなたが選んだ道は、あなた自身のものです」
「……」
「私が、どうこうできることではありません」

「……戻れないのか?」

 かすれた声で、彼はそう尋ねた。

「戻りません」

 迷いはなかった。
 その言葉は、考えるより先に、自然と口からこぼれていた。

「もう、過去だからです」

 責める気持ちはなかった。
 怒りも、憎しみも、不思議なほど湧いてこない。

 ただ――本当に、今さらだったのだ。

「……そうか」

 彼は力なく肩を落とし、視線を床に落とした。

 私はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れた。
 振り返る理由は、もうどこにもなかった。



 事件が終わったあと、王宮は少しだけ静かになった。

 慌ただしく行き交っていた書類の流れは整えられ、
 無理な命令や、誰かの顔色をうかがうような決裁も、少しずつ減っていく。

 私は、いつも通り机に向かい、淡々と仕事を続けていた。
 羽ペンを走らせながら、ふと、考えごとをしてしまう。

「……手が止まっているな」

 その声に顔を上げると、王弟殿下がすぐそばに立っていた。

「あ、いえ……少し、考え事をしていました」
「そうか」

 殿下は私の机の横に立ち、窓の外を眺めた。
 庭の木々が、静かに風に揺れている。

「今回の件、君の功績は大きい」
「……私は、与えられた仕事をしただけです」
「それができる者は、そう多くない」

 殿下はしばらく黙り込み、それから、ぽつりと口を開いた。

「事件が終わって、ひとつ気づいたことがある」
「……何でしょうか」

「君が隣にいない宮廷は、驚くほど退屈だ」

 思わず、言葉を失った。

「退屈……ですか?」
「ああ。静かで、効率的で、正しい」

 殿下は少し困ったように笑う。

「だが……どこか色がない」

 そして、まっすぐに私を見た。

「君は目立たない。だが、確かにここにいる」
「……」
「皆を支えている。それが、どれほど大切なことか……失いかけて、ようやく分かった」

 胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。

「私は……」

 何か言おうとして、言葉に詰まる。

「答えを急ぐ必要はない」

 殿下は、やさしくそう言った。

「ただ、これだけは伝えておきたかった」

 その微笑みは、穏やかで、まっすぐだった。



 その日の帰り道。
 私はゆっくりと歩きながら、これまでの自分を思い返していた。

 従順で、控えめで、ただ支えるだけの存在。
 それが当たり前で、疑うことさえしなかった。

 でも――。

「私は……ここにいていいんだ」

 誰かに選ばれるためじゃない。
 誰かに必要とされているから、ここにいる。

 その事実が、胸の中であたたかく広がっていく。

 地味で、冴えないと思っていた私の人生は、いつの間にか、誰かの世界を静かに支える場所になっていた。

 そして、その世界には――。

「……退屈、なんて言わせませんから」

 小さくそう呟いて、私は前を向いた。

 静かで、確かで、やさしい幸福が、そこにあった。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

《完結》金貨5000枚で売られた王太子妃

ぜらちん黒糖
恋愛
​「愛している。必ず迎えに行くから待っていてくれ」 ​甘い言葉を信じて、隣国へ「人質」となった王太子妃イザベラ。 旅立ちの前の晩、二人は愛し合い、イザベラのお腹には新しい命が宿った。すぐに夫に知らせた イザベラだったが、夫から届いた返信は、信じられない内容だった。 「それは本当に私の子供なのか?」

醜い私は妹の恋人に騙され恥をかかされたので、好きな人と旅立つことにしました

つばめ
恋愛
幼い頃に妹により火傷をおわされた私はとても醜い。だから両親は妹ばかりをかわいがってきた。伯爵家の長女だけれど、こんな私に婿は来てくれないと思い、領地運営を手伝っている。 けれど婚約者を見つけるデェビュタントに参加できるのは今年が最後。どうしようか迷っていると、公爵家の次男の男性と出会い、火傷痕なんて気にしないで参加しようと誘われる。思い切って参加すると、その男性はなんと妹をエスコートしてきて……どうやら妹の恋人だったらしく、周りからお前ごときが略奪できると思ったのかと責められる。 会場から逃げ出し失意のどん底の私は、当てもなく王都をさ迷った。ぼろぼろになり路地裏にうずくまっていると、小さい頃に虐げられていたのをかばってくれた、商家の男性が現れて……

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

演じるのはもうやめます

たくわん
恋愛
「君は完璧すぎて、つまらない」 完璧な淑女として知られる公爵令嬢アリシア・ヴァンフリートは、婚約者ヴィクター侯爵から、17歳の誕生日に婚約破棄を告げられた。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

「可愛げがない」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、領地経営をしていたのは私です

希羽
恋愛
「お前のような可愛げのない女との婚約は破棄する!」 卒業パーティの会場で、婚約者である第二王子デリックはそう宣言し、私の義妹ミナを抱き寄せました。 誰もが私が泣き崩れると思いましたが――正直、せいせいしました。 だって、王子の領地経営、借金返済、結界維持、それら全ての激務を一人でこなしていたのは「可愛げのない」私だったのですから。 「承知しました。では、あとはミナと二人で頑張ってください」 私は手切れ金代わりに面倒な仕事を全て置いて国を出ました。 すると、国境で待っていたのは、隣国ガルガディア帝国の冷徹皇太子ことクライド様。なぜか彼は私を溺愛し、帝国で最高の地位と環境を与えてくれて……。

【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?

ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。 卒業3か月前の事です。 卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。 もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。 カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。 でも大丈夫ですか? 婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。 ※ゆるゆる設定です ※軽い感じで読み流して下さい

処理中です...