地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです

有賀冬馬

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 その知らせは、まるで誰かが意図的に息をひそめたかのように、音もなく、けれど確実に王宮の中を巡っていった。
 鐘が鳴るわけでもなく、使者が走り回るわけでもない。ただ、空気の温度がわずかに変わったような、そんな感覚だけが、じわじわと広がっていく。

 朝の光がやわらかく差し込む回廊では、磨かれた床に長い影が伸び、その影を踏まないように人々が静かに歩いていた。
 書類の山が高く積まれた執務室でも、羽ペンを握る手が、いつもより少しだけ重たそうに見える。

 人々は視線を合わせると、ほんの一瞬だけためらってから、小さな声で言葉を交わした。

「……聞いた?」
「ええ……あの件でしょう?」
「そう。不正が、とうとう公になったそうよ」
「やっぱり……。もう、隠しきれなかったのね」
「正式に裁きが下るって。王命だそうよ」

 廊下を歩く文官たちの声は、ひそひそと低く抑えられている。
 笑顔を作ろうとしても、口元が引きつってしまう。
 声を潜めているのに、その話題がどれほど重いものかは、誰の耳にもはっきりと伝わっていた。

 長い時間をかけて積み重ねられてきた嘘やごまかし。
 見ないふりをされてきた帳簿の数字。
 そして、気づかないふりをすることで守られてきた裏切りの数々。

 それらが、ようやく光の下に引きずり出されたのだ。

 そして、その一覧の中には――。
 元婚約者、レオン様の名前も、逃げ場のないほどはっきりと記されていた。

 地位は剥奪され、役職も失われた。
 彼の傍で命令を伝えていた王女付きの侍女も、遠い土地へ移されたと聞く。
 つい昨日まで、当たり前のように続くと思われていた日常は、ほんの一夜で崩れ去った。

 彼は、一晩ですべてを失ったのだった。

「……そう」

 私はその報告を受けても、自分でも驚くほど心が静かだった。
 胸がぎゅっと締めつけられることもなければ、怒りがこみ上げることもない。

 ただ、胸の奥で、静かにひとつの言葉が浮かんだだけ。

 ――終わったんだな。

 それだけだった。

 あの日々は、もう過去なのだと。
 思い出そうとすれば、細かい出来事はいくらでも浮かぶ。
 けれど、それらはもう、私の足を止めるものではなかった。



 それから数日後のことだった。

 人通りの少ない回廊を、一人で歩いていたとき。
 いつもなら、使用人や文官が行き交うその場所は、不思議なほど静かで、足音だけが響いていた。

「……待ってくれ」

 背後からかけられた声に、私は足を止めた。
 一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、確かに見覚えのある顔だった。
 けれど、以前の彼とは、どこかが決定的に違って見えた。

 自信に満ちていた表情は影を潜め、疲れと不安が、そのまま顔に浮かんでいる。
 整えられていたはずの身なりも、今はどこか乱れていた。

「話がある。少しでいいんだ」

 声は弱く、そして、必死だった。

「……何でしょうか」

 私は立ち止まったが、一歩も近づかなかった。
 その距離だけで、彼は何かを悟ったように、小さく息を呑んだ。

「君しか、いないんだ」
「……」
「全部、間違っていた。あの時、君を手放すべきじゃなかった」

 言葉は途中で何度も途切れた。
 まるで、自分自身に言い聞かせるように。
 けれど、その声は、どこか頼りなかった。

「君は……君だけは、俺を見捨てないと思っていたんだ」

 その一言に、私は静かに目を伏せた。
 胸の奥に、小さなため息が落ちていく。

「それは……違います」

「え?」

「私は、誰かを支えるために生きてきました。ずっと、そうしてきたと思います」

 ゆっくり、言葉を選びながら続ける。

「でも、それは……見下されるためでも、都合よく使われるためでもありません」

 彼は何か言おうとして口を開きかけた。
 けれど、言葉は形にならず、ただ沈黙だけが残った。

「あなたが選んだ道は、あなた自身のものです」
「……」
「私が、どうこうできることではありません」

「……戻れないのか?」

 かすれた声で、彼はそう尋ねた。

「戻りません」

 迷いはなかった。
 その言葉は、考えるより先に、自然と口からこぼれていた。

「もう、過去だからです」

 責める気持ちはなかった。
 怒りも、憎しみも、不思議なほど湧いてこない。

 ただ――本当に、今さらだったのだ。

「……そうか」

 彼は力なく肩を落とし、視線を床に落とした。

 私はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れた。
 振り返る理由は、もうどこにもなかった。



 事件が終わったあと、王宮は少しだけ静かになった。

 慌ただしく行き交っていた書類の流れは整えられ、
 無理な命令や、誰かの顔色をうかがうような決裁も、少しずつ減っていく。

 私は、いつも通り机に向かい、淡々と仕事を続けていた。
 羽ペンを走らせながら、ふと、考えごとをしてしまう。

「……手が止まっているな」

 その声に顔を上げると、王弟殿下がすぐそばに立っていた。

「あ、いえ……少し、考え事をしていました」
「そうか」

 殿下は私の机の横に立ち、窓の外を眺めた。
 庭の木々が、静かに風に揺れている。

「今回の件、君の功績は大きい」
「……私は、与えられた仕事をしただけです」
「それができる者は、そう多くない」

 殿下はしばらく黙り込み、それから、ぽつりと口を開いた。

「事件が終わって、ひとつ気づいたことがある」
「……何でしょうか」

「君が隣にいない宮廷は、驚くほど退屈だ」

 思わず、言葉を失った。

「退屈……ですか?」
「ああ。静かで、効率的で、正しい」

 殿下は少し困ったように笑う。

「だが……どこか色がない」

 そして、まっすぐに私を見た。

「君は目立たない。だが、確かにここにいる」
「……」
「皆を支えている。それが、どれほど大切なことか……失いかけて、ようやく分かった」

 胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。

「私は……」

 何か言おうとして、言葉に詰まる。

「答えを急ぐ必要はない」

 殿下は、やさしくそう言った。

「ただ、これだけは伝えておきたかった」

 その微笑みは、穏やかで、まっすぐだった。



 その日の帰り道。
 私はゆっくりと歩きながら、これまでの自分を思い返していた。

 従順で、控えめで、ただ支えるだけの存在。
 それが当たり前で、疑うことさえしなかった。

 でも――。

「私は……ここにいていいんだ」

 誰かに選ばれるためじゃない。
 誰かに必要とされているから、ここにいる。

 その事実が、胸の中であたたかく広がっていく。

 地味で、冴えないと思っていた私の人生は、いつの間にか、誰かの世界を静かに支える場所になっていた。

 そして、その世界には――。

「……退屈、なんて言わせませんから」

 小さくそう呟いて、私は前を向いた。

 静かで、確かで、やさしい幸福が、そこにあった。
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