地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです

有賀冬馬

文字の大きさ
3 / 4

3

しおりを挟む
 それは、本当に、本当に些細な違和感から始まった。
 今になって振り返れば、「よくそんなところに気づいたね」と、半ばあきれたように、半ば感心したように言われるに違いない。
 それくらい、小さくて、取るに足らない引っかかりだった。

「……ねえ、この数字、ちょっとだけ変じゃない?」

 私は誰かに話しかけるわけでもなく、静かな部屋の中で、ぽつりとそうつぶやいた。
 自分の声が、やけに大きく聞こえた気がして、少しだけ周囲を見回す。
 もちろん、部屋には私ひとりしかいない。

 机の上には、何枚もの書類が広げられていた。
 同じ事業についてまとめられた報告書。年度も、目的も、使われている書式も、ほとんど同じ。
 ぱっと見ただけでは、どれも変わり映えしない、ありふれた書類だ。

 それなのに。

 私は左側の書類に視線を落とし、次に右側の書類を見る。
 そして、もう一度左に戻り、今度は指先で、数字をなぞるように追った。

「……うーん」

 使われている金額が、ほんのわずかだけ違っている。
 本当に、ほんの少し。
 誤差だと言われれば、それで終わってしまう程度の差だ。
 計算ミスかもしれないし、端数処理の違いかもしれない。
 忙しい時期なら、誰だって見落としてしまいそうな程度。

「でも……変だよね」

 私は小さく首をかしげた。
 全体の流れは、とてもきれいにつながっている。
 予算の立て方も、支出の目的も、説明の文章も、驚くほど似通っている。

「流れは同じなのに……ここだけ、少しずつ、ずれてる」

 胸の奥で、ちくり、と何かが刺さったような感覚がした。
 はっきりした理由は、まだ言葉にできない。
 ただ、「おかしい」という感覚だけが、しつこく消えずに残っていた。

 私は椅子から立ち上がり、部屋の隅にある棚へ向かった。
 普段はあまり使わない、奥の方。
 そこから、過去数年分の記録を、次々と引っ張り出す。

「えっと……これは三年前、これは四年前……」

 思ったよりも重たい書類の束を抱えて、机に戻る。
 一つひとつ、丁寧に並べていく。
 古いものから、新しいものへ。
 時系列がずれないように、何度も確認しながら。

 紙の端をそろえ、ページをめくり、指先で数字を追う。
 呼吸を浅くして、集中する。

「……あれ?」

 同じだ。
 やっぱり、よく似ている。
 でも、やっぱり――どこかが、違う。

 私は、息をひそめるようにして、さらに目を凝らした。
 数字が変わり始めるタイミング。
 承認された日付。
 決裁欄に書かれた名前。

「……あ」

 思わず、小さな声が漏れた。

 帳簿の数字が、わずかに動き始める時期。
 決裁をしている人物。
 そして、書類の書式。

「ここ……」

 本当に、ほんの少しだけ。
 配置が違う。
 使われている言葉も、言い回しも、微妙に変えられている。

「……書き直されてる?」

 背中に、冷たいものが走った。
 私は文字をじっと見つめる。

「……字の癖が、違う」

 同じ人が書いた文字じゃない。
 それは、長く書類仕事をしてきた私だからこそ、気づいてしまった違いだった。

 胸の奥が、すうっと冷えていく。
 嫌な予感が、曖昧な影ではなく、はっきりとした形を持ち始める。

「……全部、集めよう」

 私は、静かにそう決めた。
 別部署の記録。
 承認印の一覧。
 金庫の出入り記録。

 机の上は、あっという間に書類で埋まっていった。
 紙の山に囲まれながら、私はただ、事実だけを並べていく。

 感情は、できるだけ脇に置いた。
 驚きも、不安も、今は必要ない。

 そして――。

「……つながった」

 点だったものが、線になる。
 線だったものが、ひとつの形を作る。

「……不正、だよね」

 口に出した声は、思ったよりも落ち着いていた。
 誰かが、少しずつ、少しずつ。
 目立たないように、お金を動かしている。

 しかも、一度や二度じゃない。
 長い時間をかけて、繰り返し。

「……気づかれないように、丁寧に」

 私は深く息を吸い、胸の奥にたまった冷たい空気を、ゆっくりと吐き出した。

「……行こう」

 整理した書類を抱え、私は王弟殿下の執務室へ向かった。



「失礼します」

「入れ」

 いつもと変わらない声。
 扉を開けると、殿下は机に向かい、静かに書類へ目を落としていた。

 私は一礼し、机の前まで進む。
 そして、準備してきた書類を、そっと差し出した。

「……こちらをご確認ください。数字と記録に、不自然な点があります」

 殿下は何も言わず、一枚、また一枚と紙をめくっていく。
 その視線は鋭く、けれど不思議なほど静かだった。

 しばらくして、手が止まる。

「これは……よくまとめたな」

「過去の記録と照らし合わせました。少額ですが、回数が多くて……」

「……意図的だな」

 低い声。
 怒りも、驚きも、そこにはなかった。
 ただ、事実をそのまま受け止める声音。

「君は、どう思う?」

「……私は、仕事として、おかしいと思った点をまとめただけです」

「それでいい」

 殿下は立ち上がり、窓の外を一瞬だけ見た。

「感情で動く必要はない。正しい手順で、静かに調べる」

「……はい」

 その言葉を聞いたとき、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。
 これは、誰かを責めるためじゃない。
 ただ、“正しくあるため”の仕事。



 調査は、水面下で進められた。

 私は表に出ることなく、いつも通りの仕事を続けた。
 書類を整理し、記録をまとめ、事実を並べる。

 けれど、少しずつ、名前が浮かび上がってくる。

「……え」

 ある決裁書に、見覚えのある署名を見つけた瞬間、手が止まった。

「……レオン、様……」

 元婚約者の名前。

 さらに調べると、王女付き侍女の名前も、何度も記録に現れる。

「そんな……」

 胸が、ぎゅっと締めつけられた。
 驚きはあった。
 けれど、怒りは――不思議なほど、湧いてこなかった。

「……やっぱり、そうなんだ」

 出世のため。
 立場のため。
 自分を大きく見せるため。

 あの人は、そういう選択をする人だった。



 社交界の空気が、少しずつ変わっていく。

「最近、あの方、呼ばれていないみたいよ」

「ええ、前はあんなに目立っていたのに」

「王女付き侍女様とも、距離ができたとか……」

 噂は、静かに、でも確実に広がっていった。

 以前なら、胸が痛んだはずなのに。
 今は、どこか遠い話のようだった。

「……私は、もう関係ない」

 そう思える自分に、少しだけ驚く。



「君のおかげで、全体像が見えた」

「いえ……私は、ただ……」

「それで十分だ」

 殿下は、まっすぐ私を見た。

「感情に流されず、事実だけを積み上げられる。それは簡単じゃない」

「……そうでしょうか」

「ああ。多くの人は、途中で私情を挟む」

 私は、少しだけ考えた。

「……終わっていく、という感じがして」

「終わっていく?」

「はい。私が何かをしなくても、勝手に……」

「それが、因果だ」



 数日後、廊下ですれ違った元婚約者は、以前とは別人のようだった。
 私は、ただ、軽く頭を下げて通り過ぎる。

 声も、言葉も、もう必要なかった。

 私の中で、確かに、何かが終わった。



「君は、強いな」

「……強くなんて、ありません」

「いや。折れずに、歪まずに、ここに立っている」

 私は、ただ、仕事をしただけ。
 その結果、虚飾は剥がれ、裏切りは姿を現した。

 淡々と。
 本当に、淡々と。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】悪役令嬢ですが、断罪した側が先に壊れました

あめとおと
恋愛
三日後、私は断罪される。 そう理解したうえで、悪役令嬢アリアンナは今日も王国のために働いていた。 平民出身のヒロインの「善意」、 王太子の「優しさ」、 そしてそれらが生み出す無数の歪み。 感情論で壊されていく現実を、誰にも知られず修正してきたのは――“悪役”と呼ばれる彼女だった。 やがて訪れる断罪。婚約破棄。国外追放。 それでも彼女は泣かず、縋らず、弁明もしない。 なぜなら、間違っていたつもりは一度もないから。 これは、 「断罪される側」が最後まで正しかった物語。 そして、悪役令嬢が舞台を降りた“その後”に始まる、静かで確かな人生の物語。

【完結】婚約破棄、その後の話を誰も知らない

あめとおと
恋愛
奇跡によって病を癒す存在――聖女。 王国は長年、その力にすべてを委ねてきた。 だがある日、 誰の目にも明らかな「失敗」が起きる。 奇跡は、止まった。 城は動揺し、事実を隠し、 責任を聖女ひとりに押しつけようとする。 民は疑い、祈りは静かに現実へと向かっていった。 一方、かつて「悪役」として追放された令嬢は、 奇跡が失われる“その日”に備え、 治癒に頼らない世界を着々と整えていた。 聖女は象徴となり、城は主導権を失う。 奇跡に縋った者たちは、 何も奪われず、ただ立場を失った。 選ばれなかった者が、世界を救っただけの話。 ――これは、 聖女でも、英雄でもない 「悪役令嬢」が勝ち残る物語。

婚約破棄されたので、あなたの国に関税50%かけます~最終的には9割越えの悪魔~

常野夏子
恋愛
隣国カリオストの第一王子であり婚約者であったアルヴェルトに、突如国益を理由に婚約破棄されるリュシエンナ。 彼女は怒り狂い、国をも揺るがす復讐の一手を打った。 『本日より、カリオスト王国の全ての輸入品に対し、関税を現行の5倍とする』

「いらない」と捨てられた令嬢、実は全属性持ちの聖女でした

ゆっこ
恋愛
「リリアーナ・エヴァンス。お前との婚約は破棄する。もう用済み そう言い放ったのは、五年間想い続けた婚約者――王太子アレクシスさま。 広間に響く冷たい声。貴族たちの視線が一斉に私へ突き刺さる。 「アレクシスさま……どういう、ことでしょうか……?」 震える声で問い返すと、彼は心底嫌そうに眉を顰めた。 「言葉の意味が理解できないのか? ――お前は“無属性”だ。魔法の才能もなければ、聖女の資質もない。王太子妃として役不足だ」 「無……属性?」

殿下から「華のない女」と婚約破棄されましたが、王国の食糧庫を支えていたのは、実は私です

水上
恋愛
【全11話完結】 見た目重視の王太子に婚約破棄された公爵令嬢ルシア。 だが彼女は、高度な保存食技術で王国の兵站を支える人物だった。 そんな彼女を拾ったのは、強面の辺境伯グレン。 「俺は装飾品より、屋台骨を愛する」と実力を認められたルシアは、泥臭い川魚を売れる商品に変え、害獣を絶品ソーセージへと変えていく! 一方、ルシアを失った王宮は食糧難と火災で破滅の道へ……。

幼い頃、義母に酸で顔を焼かれた公爵令嬢は、それでも愛してくれた王太子が冤罪で追放されたので、ついていくことにしました。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 設定はゆるくなっています、気になる方は最初から読まないでください。 ウィンターレン公爵家令嬢ジェミーは、幼い頃に義母のアイラに酸で顔を焼かれてしまった。何とか命は助かったものの、とても社交界にデビューできるような顔ではなかった。だが不屈の精神力と仮面をつける事で、社交界にデビューを果たした。そんなジェミーを、心優しく人の本質を見抜ける王太子レオナルドが見初めた。王太子はジェミーを婚約者に選び、幸せな家庭を築くかに思われたが、王位を狙う邪悪な弟に冤罪を着せられ追放刑にされてしまった。

婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。

ムラサメ
恋愛
​「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」 ​婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。 泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。 ​「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」 ​汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。 「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。 ​一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。 自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。 ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。 ​「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」 ​圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!

没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。

亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。 しかし皆は知らないのだ ティファが、ロードサファルの王女だとは。 そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……

処理中です...