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その知らせは、まるで誰かが意図的に息をひそめたかのように、音もなく、けれど確実に王宮の中を巡っていった。
鐘が鳴るわけでもなく、使者が走り回るわけでもない。ただ、空気の温度がわずかに変わったような、そんな感覚だけが、じわじわと広がっていく。
朝の光がやわらかく差し込む回廊では、磨かれた床に長い影が伸び、その影を踏まないように人々が静かに歩いていた。
書類の山が高く積まれた執務室でも、羽ペンを握る手が、いつもより少しだけ重たそうに見える。
人々は視線を合わせると、ほんの一瞬だけためらってから、小さな声で言葉を交わした。
「……聞いた?」
「ええ……あの件でしょう?」
「そう。不正が、とうとう公になったそうよ」
「やっぱり……。もう、隠しきれなかったのね」
「正式に裁きが下るって。王命だそうよ」
廊下を歩く文官たちの声は、ひそひそと低く抑えられている。
笑顔を作ろうとしても、口元が引きつってしまう。
声を潜めているのに、その話題がどれほど重いものかは、誰の耳にもはっきりと伝わっていた。
長い時間をかけて積み重ねられてきた嘘やごまかし。
見ないふりをされてきた帳簿の数字。
そして、気づかないふりをすることで守られてきた裏切りの数々。
それらが、ようやく光の下に引きずり出されたのだ。
そして、その一覧の中には――。
元婚約者、レオン様の名前も、逃げ場のないほどはっきりと記されていた。
地位は剥奪され、役職も失われた。
彼の傍で命令を伝えていた王女付きの侍女も、遠い土地へ移されたと聞く。
つい昨日まで、当たり前のように続くと思われていた日常は、ほんの一夜で崩れ去った。
彼は、一晩ですべてを失ったのだった。
「……そう」
私はその報告を受けても、自分でも驚くほど心が静かだった。
胸がぎゅっと締めつけられることもなければ、怒りがこみ上げることもない。
ただ、胸の奥で、静かにひとつの言葉が浮かんだだけ。
――終わったんだな。
それだけだった。
あの日々は、もう過去なのだと。
思い出そうとすれば、細かい出来事はいくらでも浮かぶ。
けれど、それらはもう、私の足を止めるものではなかった。
*
それから数日後のことだった。
人通りの少ない回廊を、一人で歩いていたとき。
いつもなら、使用人や文官が行き交うその場所は、不思議なほど静かで、足音だけが響いていた。
「……待ってくれ」
背後からかけられた声に、私は足を止めた。
一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、確かに見覚えのある顔だった。
けれど、以前の彼とは、どこかが決定的に違って見えた。
自信に満ちていた表情は影を潜め、疲れと不安が、そのまま顔に浮かんでいる。
整えられていたはずの身なりも、今はどこか乱れていた。
「話がある。少しでいいんだ」
声は弱く、そして、必死だった。
「……何でしょうか」
私は立ち止まったが、一歩も近づかなかった。
その距離だけで、彼は何かを悟ったように、小さく息を呑んだ。
「君しか、いないんだ」
「……」
「全部、間違っていた。あの時、君を手放すべきじゃなかった」
言葉は途中で何度も途切れた。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
けれど、その声は、どこか頼りなかった。
「君は……君だけは、俺を見捨てないと思っていたんだ」
その一言に、私は静かに目を伏せた。
胸の奥に、小さなため息が落ちていく。
「それは……違います」
「え?」
「私は、誰かを支えるために生きてきました。ずっと、そうしてきたと思います」
ゆっくり、言葉を選びながら続ける。
「でも、それは……見下されるためでも、都合よく使われるためでもありません」
彼は何か言おうとして口を開きかけた。
けれど、言葉は形にならず、ただ沈黙だけが残った。
「あなたが選んだ道は、あなた自身のものです」
「……」
「私が、どうこうできることではありません」
「……戻れないのか?」
かすれた声で、彼はそう尋ねた。
「戻りません」
迷いはなかった。
その言葉は、考えるより先に、自然と口からこぼれていた。
「もう、過去だからです」
責める気持ちはなかった。
怒りも、憎しみも、不思議なほど湧いてこない。
ただ――本当に、今さらだったのだ。
「……そうか」
彼は力なく肩を落とし、視線を床に落とした。
私はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れた。
振り返る理由は、もうどこにもなかった。
*
事件が終わったあと、王宮は少しだけ静かになった。
慌ただしく行き交っていた書類の流れは整えられ、
無理な命令や、誰かの顔色をうかがうような決裁も、少しずつ減っていく。
私は、いつも通り机に向かい、淡々と仕事を続けていた。
羽ペンを走らせながら、ふと、考えごとをしてしまう。
「……手が止まっているな」
その声に顔を上げると、王弟殿下がすぐそばに立っていた。
「あ、いえ……少し、考え事をしていました」
「そうか」
殿下は私の机の横に立ち、窓の外を眺めた。
庭の木々が、静かに風に揺れている。
「今回の件、君の功績は大きい」
「……私は、与えられた仕事をしただけです」
「それができる者は、そう多くない」
殿下はしばらく黙り込み、それから、ぽつりと口を開いた。
「事件が終わって、ひとつ気づいたことがある」
「……何でしょうか」
「君が隣にいない宮廷は、驚くほど退屈だ」
思わず、言葉を失った。
「退屈……ですか?」
「ああ。静かで、効率的で、正しい」
殿下は少し困ったように笑う。
「だが……どこか色がない」
そして、まっすぐに私を見た。
「君は目立たない。だが、確かにここにいる」
「……」
「皆を支えている。それが、どれほど大切なことか……失いかけて、ようやく分かった」
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「私は……」
何か言おうとして、言葉に詰まる。
「答えを急ぐ必要はない」
殿下は、やさしくそう言った。
「ただ、これだけは伝えておきたかった」
その微笑みは、穏やかで、まっすぐだった。
*
その日の帰り道。
私はゆっくりと歩きながら、これまでの自分を思い返していた。
従順で、控えめで、ただ支えるだけの存在。
それが当たり前で、疑うことさえしなかった。
でも――。
「私は……ここにいていいんだ」
誰かに選ばれるためじゃない。
誰かに必要とされているから、ここにいる。
その事実が、胸の中であたたかく広がっていく。
地味で、冴えないと思っていた私の人生は、いつの間にか、誰かの世界を静かに支える場所になっていた。
そして、その世界には――。
「……退屈、なんて言わせませんから」
小さくそう呟いて、私は前を向いた。
静かで、確かで、やさしい幸福が、そこにあった。
鐘が鳴るわけでもなく、使者が走り回るわけでもない。ただ、空気の温度がわずかに変わったような、そんな感覚だけが、じわじわと広がっていく。
朝の光がやわらかく差し込む回廊では、磨かれた床に長い影が伸び、その影を踏まないように人々が静かに歩いていた。
書類の山が高く積まれた執務室でも、羽ペンを握る手が、いつもより少しだけ重たそうに見える。
人々は視線を合わせると、ほんの一瞬だけためらってから、小さな声で言葉を交わした。
「……聞いた?」
「ええ……あの件でしょう?」
「そう。不正が、とうとう公になったそうよ」
「やっぱり……。もう、隠しきれなかったのね」
「正式に裁きが下るって。王命だそうよ」
廊下を歩く文官たちの声は、ひそひそと低く抑えられている。
笑顔を作ろうとしても、口元が引きつってしまう。
声を潜めているのに、その話題がどれほど重いものかは、誰の耳にもはっきりと伝わっていた。
長い時間をかけて積み重ねられてきた嘘やごまかし。
見ないふりをされてきた帳簿の数字。
そして、気づかないふりをすることで守られてきた裏切りの数々。
それらが、ようやく光の下に引きずり出されたのだ。
そして、その一覧の中には――。
元婚約者、レオン様の名前も、逃げ場のないほどはっきりと記されていた。
地位は剥奪され、役職も失われた。
彼の傍で命令を伝えていた王女付きの侍女も、遠い土地へ移されたと聞く。
つい昨日まで、当たり前のように続くと思われていた日常は、ほんの一夜で崩れ去った。
彼は、一晩ですべてを失ったのだった。
「……そう」
私はその報告を受けても、自分でも驚くほど心が静かだった。
胸がぎゅっと締めつけられることもなければ、怒りがこみ上げることもない。
ただ、胸の奥で、静かにひとつの言葉が浮かんだだけ。
――終わったんだな。
それだけだった。
あの日々は、もう過去なのだと。
思い出そうとすれば、細かい出来事はいくらでも浮かぶ。
けれど、それらはもう、私の足を止めるものではなかった。
*
それから数日後のことだった。
人通りの少ない回廊を、一人で歩いていたとき。
いつもなら、使用人や文官が行き交うその場所は、不思議なほど静かで、足音だけが響いていた。
「……待ってくれ」
背後からかけられた声に、私は足を止めた。
一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、確かに見覚えのある顔だった。
けれど、以前の彼とは、どこかが決定的に違って見えた。
自信に満ちていた表情は影を潜め、疲れと不安が、そのまま顔に浮かんでいる。
整えられていたはずの身なりも、今はどこか乱れていた。
「話がある。少しでいいんだ」
声は弱く、そして、必死だった。
「……何でしょうか」
私は立ち止まったが、一歩も近づかなかった。
その距離だけで、彼は何かを悟ったように、小さく息を呑んだ。
「君しか、いないんだ」
「……」
「全部、間違っていた。あの時、君を手放すべきじゃなかった」
言葉は途中で何度も途切れた。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
けれど、その声は、どこか頼りなかった。
「君は……君だけは、俺を見捨てないと思っていたんだ」
その一言に、私は静かに目を伏せた。
胸の奥に、小さなため息が落ちていく。
「それは……違います」
「え?」
「私は、誰かを支えるために生きてきました。ずっと、そうしてきたと思います」
ゆっくり、言葉を選びながら続ける。
「でも、それは……見下されるためでも、都合よく使われるためでもありません」
彼は何か言おうとして口を開きかけた。
けれど、言葉は形にならず、ただ沈黙だけが残った。
「あなたが選んだ道は、あなた自身のものです」
「……」
「私が、どうこうできることではありません」
「……戻れないのか?」
かすれた声で、彼はそう尋ねた。
「戻りません」
迷いはなかった。
その言葉は、考えるより先に、自然と口からこぼれていた。
「もう、過去だからです」
責める気持ちはなかった。
怒りも、憎しみも、不思議なほど湧いてこない。
ただ――本当に、今さらだったのだ。
「……そうか」
彼は力なく肩を落とし、視線を床に落とした。
私はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れた。
振り返る理由は、もうどこにもなかった。
*
事件が終わったあと、王宮は少しだけ静かになった。
慌ただしく行き交っていた書類の流れは整えられ、
無理な命令や、誰かの顔色をうかがうような決裁も、少しずつ減っていく。
私は、いつも通り机に向かい、淡々と仕事を続けていた。
羽ペンを走らせながら、ふと、考えごとをしてしまう。
「……手が止まっているな」
その声に顔を上げると、王弟殿下がすぐそばに立っていた。
「あ、いえ……少し、考え事をしていました」
「そうか」
殿下は私の机の横に立ち、窓の外を眺めた。
庭の木々が、静かに風に揺れている。
「今回の件、君の功績は大きい」
「……私は、与えられた仕事をしただけです」
「それができる者は、そう多くない」
殿下はしばらく黙り込み、それから、ぽつりと口を開いた。
「事件が終わって、ひとつ気づいたことがある」
「……何でしょうか」
「君が隣にいない宮廷は、驚くほど退屈だ」
思わず、言葉を失った。
「退屈……ですか?」
「ああ。静かで、効率的で、正しい」
殿下は少し困ったように笑う。
「だが……どこか色がない」
そして、まっすぐに私を見た。
「君は目立たない。だが、確かにここにいる」
「……」
「皆を支えている。それが、どれほど大切なことか……失いかけて、ようやく分かった」
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「私は……」
何か言おうとして、言葉に詰まる。
「答えを急ぐ必要はない」
殿下は、やさしくそう言った。
「ただ、これだけは伝えておきたかった」
その微笑みは、穏やかで、まっすぐだった。
*
その日の帰り道。
私はゆっくりと歩きながら、これまでの自分を思い返していた。
従順で、控えめで、ただ支えるだけの存在。
それが当たり前で、疑うことさえしなかった。
でも――。
「私は……ここにいていいんだ」
誰かに選ばれるためじゃない。
誰かに必要とされているから、ここにいる。
その事実が、胸の中であたたかく広がっていく。
地味で、冴えないと思っていた私の人生は、いつの間にか、誰かの世界を静かに支える場所になっていた。
そして、その世界には――。
「……退屈、なんて言わせませんから」
小さくそう呟いて、私は前を向いた。
静かで、確かで、やさしい幸福が、そこにあった。
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