地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです

有賀冬馬

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 婚約が破棄されてから、しばらくの間、私は屋敷の自室で、まるで時間が止まったみたいに静かに過ごしていた。
 朝になればカーテン越しに光は差し込むし、廊下からは使用人たちの足音も聞こえる。それなのに、私だけが世界から少し離れた場所にいるような、そんな感覚だった。

 誰かと顔を合わせれば、必要以上に気を遣われる。
「お嬢様……お加減はいかがですか」
「無理はなさらないでくださいね」
 その一言一言が、やさしさだと分かっているからこそ、胸に引っかかってしまう。

 外に出れば出たで、今度はひそひそとした視線がついてくる。
「あの人でしょう?」
「ほら、婚約を破棄されたって……」
 直接聞こえるわけじゃない。でも、分かってしまうのだ。空気の揺れ方で。

 そんな日々が続いて、私は少し、疲れていた。

「……このままでは、いけないわよね」

 窓辺に立ち、庭の木々をぼんやり眺めながら、私は小さくつぶやいた。
 声に出した言葉は、すぐに空気に溶けて消えたけれど、胸の奥では重く残ったままだ。

 何かを変えなければ。
 そうしなければ、私はずっと、この冷たくて、じんわり痛む気持ちを抱えたまま、同じ場所で立ち止まってしまう気がした。

 その日の夕方、部屋の扉が控えめに叩かれた。

「……入ってもいいか」

「はい」

 父だった。
 ゆっくりと部屋に入り、私の様子を一目だけ確かめると、いつもの低い声で話し始めた。

「王宮でな、文官補佐を探している部署があるそうだ」

「文官補佐……?」

「地味な仕事だ。表に出ることもないし、華やかさとは無縁だが……」

 父は一瞬言葉を切り、私をまっすぐ見た。

「お前には、向いているかもしれん」

「……私に?」

「ああ。記録の整理や、部署同士の調整、書類の確認が中心だ。人前で笑う必要もないし、余計な気遣いもしなくていい」

 その説明を聞いているうちに、胸の奥で、ぎゅっと固まっていたものが、少しだけゆるんだ気がした。

「……それなら」

 気づけば、私は小さく息を吸っていた。

「……やってみたいです」

 父は驚いたように目を瞬かせたあと、ゆっくりとうなずいた。

「そうか」

 それは、逃げではなかったと思う。
 ただ、“私でも役に立てる場所”が、どこかにちゃんと存在している気がしたのだ。



 王宮は、想像していたよりもずっと広く、そして静かだった。
 長い廊下、磨かれた床、天井の高い空間。どこを見ても、簡単には慣れそうにない。

「……すごい」

 思わず小さな声が漏れる。
 豪華な装飾に圧倒されながら、案内役の文官に連れられて、私は執務室の扉の前に立った。

「今日から来てもらう、侯爵令嬢だ」

「よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げると、部屋の中にいた文官たちの視線が、一斉にこちらに集まった。

「え……?」
「あの人って……」
「婚約破棄されたって噂の……?」

 ひそひそ声。
 耳に入ってしまったけれど、不思議と、前ほど胸は痛まなかった。

(ここでは……)

 ここでは、過去よりも“仕事”がすべて。
 そう信じたかったし、信じることにした。

 最初に任されたのは、古い書類の整理だった。
 山のように積まれた書類を、日付順に並び替え、抜けている記録を探し、別部署との内容の食い違いを確認する。

「……あれ?」

 手を止めた。
 同じ案件について書かれた報告書が、三通ある。
 どれも日付が違い、記されている数字も、ほんの少しずつずれている。

「このまま提出したら……混乱しますよね……」

 私は机いっぱいに書類を広げ、関連するものをすべて集めた。
 経緯、途中の変更点、そして最終的な決定内容。

「誰が見ても分かるように……」

 そう自分に言い聞かせながら、ひとつの記録にまとめ直した。

「……できました」

 それを上司に差し出すと、相手は一瞬、目を見開いた。

「これは……助かるな。よく気づいた」

「い、いえ……当たり前のことをしただけです」

 そう答えながら、私は心の中で、そっと息を吐いた。
 誰にも気づかれなくてもいい。
 でも、“間違いをそのままにしない”ことだけは、昔から大切にしてきた。



 数日後、私は別の執務室へ書類を届けるよう指示された。

「王弟殿下の部屋だ。失礼のないようにな」

「……はい」

 王弟殿下。
 王位継承から一歩引き、権力争いにも関わらない変わり者。
 そんな噂だけは、耳にしていた。

 扉を叩くと、低く落ち着いた声が返ってくる。

「入れ」

 中に入ると、机に向かい、黙々と書類を読んでいる男性がいた。
 派手さはない。けれど、不思議と目を引く存在感。

「書類をお持ちしました」

「そこに置いてくれ」

 指示通りにし、軽く頭を下げる。

「……ん?」

 殿下は書類に目を通し、ほんの少しだけ眉を上げた。

「この整理をしたのは、君か」

「は、はい。補佐として、まとめ直しました」

「数字の不一致に気づいた理由は?」

「……過去の報告と照らし合わせると、流れが不自然でしたので」

 殿下は黙ったまま書類を見つめ、やがて短く言った。

「使えるな」

「……え?」

「無駄がない。読みやすい。助かる」

 それだけ言って、また書類に視線を戻す。

 私は、その場に立ち尽くしていた。
 褒められた? それとも、ただの評価?

「名前は?」

「……はい?」

「君の名前だ」

「あ、あの……レナと申します」

「そうか。次からは、君にこの系統の整理を任せよう」

 過去のことも、噂も、何も聞かれなかった。
 ただ、名前と、仕事だけ。

(……楽)

 それが、こんなにも心を軽くするなんて、知らなかった。

「……ありがとうございます」

 部屋を出たあと、胸の奥が、じんわりと温かくなっていることに気づいた。



 それから私は、王弟殿下の執務補佐を中心に、忙しく働いた。
 書類は多く、内容も複雑だったけれど、不思議と苦ではなかった。

 ただ――。

「……この記録、変」

 同じような案件なのに、処理が妙に早すぎる。
 署名が足りないのに、決裁が下りている。

「派閥……?」

 文官たちの会話から、少しずつ聞こえてくる言葉。
 誰が誰とつながっているのか。
 何を隠しているのか。

 私はまだ、それを深く考えないようにしていた。
 今はただ、与えられた仕事を、きちんとこなすだけ。

 けれど――。

「君がいないと、仕事が進まないな」

 ある日、殿下がふと、そう言った。

「い、いえ……そんなことは」

「ある。君は必要だ」

 その言葉は、静かで、当たり前のようで。
 でも、確かに私の胸に届いた。

 ここは、私の居場所だ。
 そう思えたのは――生まれて初めてだった。

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