平民出身の地味令嬢ですが、論文が王子の目に留まりました

有賀冬馬

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 わたしの名前は、エマ。
 平民の生まれで、ずっと本を読むのが好きだった。おしゃれも、舞踏会も、贅沢な服も、知らないまま育った。

 でも──知ってた。
 この世界は、「血」と「家柄」でできているってこと。

 どんなに勉強しても、どんなに頑張っても。
 貴族の子どもには、かなわない。だって彼らは、生まれたときから、すでに勝ってるんだもの。

 でも、わたしは、あきらめたくなかった。
 夢見てたの。もっと遠くに行けるって──そんな希望を信じてた。

「エマ、また図書室で寝ちゃってたの? だめよ、体を壊すわよ」

 やさしく叱る声に、わたしは目を覚ました。
 薄暗い図書室、山積みの本の上にうつぶせていたわたしは、あわてて姿勢を正す。

「あ、ごめんなさい、先生……でも、ここの資料、どうしても目を通しておきたくて」

 わたしは、王立学術院の見習い。
 お給料なんて、ほとんどないし、貴族の子たちのように豪華な食事や服もない。

 だけど、この場所が、わたしのすべてだった。

 本の中には、世界があった。
 魔法の仕組み、古代王国の歴史、薬草の効果と調合法。
 だれも知らないことを知るって、こんなにも胸が高鳴ることなんだって、わたしは知ったの。

 そして──その小さな努力の積み重ねが、ある日、わたしの運命を変えた。

 準男爵家の当主、老シルヴァン様。
 彼はわたしの論文に目をとめ、なんと「養子として家に迎えたい」と申し出てくれたの。

「貴族として育てるには、年齢がちょっと遅すぎるかもしれないが……君の頭脳は、本物だ」

 そう言ってくださったのは、きっと、お情けだったかもしれない。
 でも、わたしはそれでも嬉しかった。
 だって、やっと──努力が、報われた気がしたから。

 その日から、わたしは「準男爵家の令嬢」になった。

 もちろん、ただの名目上。
 お客様が来たときには、後ろに下がっているし、パーティーには招かれない。
 けれど、屋敷の中では上品な服を着て、フォークとナイフの使い方も教えてもらって、言葉づかいも練習した。

 ……それに、彼がいたから。

 レオン。
 シルヴァン様の遠い親戚で、わたしより二歳年上の、金髪の青年。

 最初に見たときは、まるで物語に出てくる王子様みたいって思った。
 真っ直ぐな背筋、青い瞳、貴族らしい気品。

「エマ、君ってほんと変わってるよね。平民なのに、本なんて好きだなんてさ」

 ……そんな風に、時々見下したようなことも言うけれど。
 でも、笑った顔はきれいだったし、わたしが紅茶を入れたら「ありがとう」って言ってくれた。

 わたしは、彼に恋をしていた。
 ……そして、彼も、少しだけわたしに興味を持ってくれてるって、思ってた。

「レオン様と、婚約なさるのですか?」

 ある日、そう屋敷のメイドに言われたとき、わたしは耳を疑った。

「え……ほんとに?」

 シルヴァン様はうなずいた。
「将来的に家の名を継がせるには、知性も大事だ。君なら、ふさわしい」

 ……うれしかった。胸がいっぱいになった。
 だって、わたしは、やっと。やっと、認められたんだって思ったから。

 だけど──

 それは、ほんとうに「幸せの始まり」だったのか。
 それとも、運命がわたしに用意した「試練の入り口」だったのか。

 このときのわたしは、まだ知らなかった。








 ――わたしの幸せは、ほんとうに、始まったんだと思ってたの。

「エマ、明日は社交茶会だよ。ドレスはちゃんと用意してある?」

「はい、レオン様。屋敷の方が選んでくださったものを……」

「ふぅん、まあ君にはちょっと派手かもしれないけどね。ほら、君って、こう……地味で素朴っていうかさ」

 レオン様の言葉に、わたしは思わず笑ってごまかした。
 傷つかなかった、と言えば嘘になるけれど、こういう時、どう返せばいいのか、まだよくわからなかった。

 でも、きっと彼なりの冗談。そう信じたかった。

 わたしは、まだ「恋をしていた」から。

* * *

「エマさん、その立ち方、貴族の令嬢にしては……ちょっと変よ」

 社交茶会の会場。年の近い貴族の令嬢たちに囲まれながら、わたしはそっと視線を落とした。

「ええ……その、すみません。立ち方、練習したつもりだったのですが……」

 ほんとうは「努力してる」って言いたかった。でも、口には出さなかった。
 だって、そんなこと言ったって、きっと彼女たちは笑うだけ。

「まあ、平民の出ならしかたないわねぇ」

「それより、エマさんって、論文書いてるんでしょ? 貴族なのに学問? へぇ~変わってるのねぇ」

 笑い声。
 ティーカップの音。
 すべてが冷たくて、鋭くて、ここにいてはいけないって、心が叫んでた。

「レオン様、わたし、少し外の風にあたってきても……?」

「えっ、あー……うん、いいんじゃない? でもあんまり長くいないでよ。今日は“うちの婚約者”として紹介してるんだからさ」

 “うちの婚約者”
 その言葉が、まるで鎖みたいに、わたしの胸に絡みついた。

* * *

「エマ、聞いた? レオン様、あの侯爵令嬢とすごく仲がいいんですって」

 メイドの小声の噂が、すぐに耳に入った。
 わたしが聞いてると知らずに、廊下の奥で話していたふたり。

「侯爵令嬢って……あの、ティアナ様?」

「そうそう。ティアナ様、すごく美人だし、お育ちも完璧で……ほら、いかにも『貴族のお姫さま』って感じの」

「まあ、エマ様と違って、最初から本物ですものね……」

 ――本物。
 じゃあ、わたしは、にせもの?

 胸がぎゅっと痛くなって、何も言えずにその場を立ち去った。

* * *

「エマってさ、もっと貴族っぽくできないの?」

 その日、書斎でふたりきりになったとき。
 レオン様は、眉をしかめながら、わたしを見下ろした。

「たとえば、もうちょっと高貴な言葉づかいとか、立ち居振る舞いとかさ。こう……なんていうか、上品さ?」

「努力はしてるんですけど……まだ足りない、ですよね。すみません……」

「いや、別に責めてるわけじゃなくて。君ががんばってるのはわかってるよ? でも……最近さ、思うんだよね」

「……なにを、ですか?」

「やっぱり、貴族には、ちゃんとした貴族が合うんじゃないかって」

 ……その言葉を聞いた瞬間、何かが胸の奥で崩れ落ちる音がした。

「エマ、君のこと、嫌いじゃないよ。むしろ好きだったよ? でも……なんていうか、最近、ちょっと違うかなって思ってさ」

「それって……どういう……ことですか?」

 わたしの声は震えていた。
 わかっていた。もう、彼の心はここにないって。

「侯爵家のティアナ様、知ってるよね? ……あの人、本当にきれいで、しかも育ちもよくて、完璧なんだ。君には悪いけど、正直、惹かれてるんだ」

「…………」

「それに、母上も、あの人の方がふさわしいって……。だから、エマ、悪いけど……婚約、白紙にしたいんだ」

 涙は、こぼれなかった。

 あまりに突然で、心が追いつかなかった。
 ……ちがう。追いつきたくなかったのかもしれない。

「わたしの……どこが、いけなかったのですか?」

「うーん……全部が悪いわけじゃないよ? でもさ、やっぱり、出自って、大事じゃん?」

 出自。
 血筋。
 家柄。

 努力じゃ、どうしても越えられない“線”がある。
 それを、まざまざと突きつけられた瞬間だった。

「……わかりました。婚約破棄の件、承知しました」

 その言葉を口にしたとたん、涙がつーっと頬を伝っていた。

 でも、それ以上泣かなかった。
 だって、泣いたってしかたない。

 彼はもう、わたしを見ていない。
 わたしの心を、大事にしようともしてくれない。

 ……だったら、こっちから、終わりにするしかないじゃない。

* * *

 その夜、ベッドに寝転がって、カーテンの隙間から月を見上げた。

「……わたし、どうしてこんなにがんばってきたんだろう……」

 涙が止まらなかった。
 胸が痛かった。
 でも、それでも――わたしは、明日も本を読む。

 勉強する。研究する。

 だって、それだけが、わたしを裏切らなかったから。

 ……わたしは、もう恋なんて、しない。
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