平民出身の地味令嬢ですが、論文が王子の目に留まりました

有賀冬馬

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 あれから、何日が過ぎただろう。
 屋敷の窓から見える庭は、少しずつ色づいて、秋の気配をまとっていた。

 わたしはもう、レオン様とは顔を合わせていない。
 もちろん、お互いに“正式な婚約破棄”がなされたわけじゃないけれど……彼が、もうわたしに興味がないことは、あの日、はっきりとわかった。

 誰かに言いふらされたのか、使用人たちの態度も少しずつ変わっていった。

「エマ様、こちらの資料はもう不要でしょう?」

「レオン様のお部屋には、勝手に入らないでくださいね。婚約者ではないのですから」

 わたしはただ静かに、うなずくだけだった。
 もう、何も言い返す気力もなかった。

 ……わたし、いま、どこに立ってるんだろう。
 いつから、こんなに透明になってしまったんだろう。

* * *

 それでも、本だけはわたしの味方だった。

 学術院に通う日々は、相変わらず。
 机にかじりつき、資料を読み、魔術と理論と歴史をつなぎ合わせていく時間は、心を落ち着けてくれる。

 ある日、ふと気づくと、わたしは論文を書いていた。

 それは、失恋の痛みを紛らわすためだったのかもしれないし、誰にも頼らない自分になろうと意地を張っていたのかもしれない。

 けれど、書きあがったとき、胸の奥が少しだけ温かかった。

 テーマは、「王国における魔導の変遷と民間信仰との関係性」
 難しそうに見えるけど、実はとても身近な内容。
 貴族の間では神話や魔法の古文書が人気だけど、わたしはあえて“民間”を選んだ。

 だって、わたしは……そこから来たのだから。

「ふふ……平民のくせに、学術論文なんて」

 そんな陰口が聞こえてきても、もう動じなかった。
 ……泣きたいときは、泣いたし。
 信じた人に裏切られた痛みは、わたしの中でちゃんと居場所を作っていた。

 それでも、前を向くしかなかった。
 だって、誰も手を引いてくれないなら、自分で歩くしかないから。

* * *

 学会の日。
 緊張で手が震えていたけど、資料を持つ指先に力をこめて、わたしは壇上に立った。

 ホールには貴族や研究者たちがぎっしり。
 その視線がわたしに向けられた瞬間、あのときの社交茶会を思い出して、少しだけ足がすくんだ。

 だけど、口を開いた瞬間、不思議と震えは消えていった。

 ――これは、わたしが歩いてきた道。
 誰かに与えられたものじゃない、わたしだけの努力の結晶。

「本日は、『王国における魔導の変遷と民間信仰との関係性』について発表させていただきます」

 やさしい口調を意識して、ゆっくり、はっきりと。
 緊張はしていたけれど、不思議な高揚感に包まれていた。

 会場が静かだった。
 それは、誰も聞いていないのではなくて、全員が集中しているという証だった。

 やがて発表が終わり、ほんの一瞬の静寂――そして。

「素晴らしい……!」

 最前列から、大きな拍手が響いた。

「なんという視点だ。学術的にも、文化的にも、非常に価値が高い! 君の名は?」

 その声に、わたしは驚いて顔を上げた。

 そこに立っていたのは、濃い紺のマントを羽織った、若くて鋭い目の男性だった。

 会場がざわめく。

「えっ……あの人……」

「第二王子殿下……クロノス様……!」

 第二王子……!?

 頭が真っ白になりかけたけれど、なんとかお辞儀をした。

「エマ・グランフィールドと申します」

「覚えておこう、エマ嬢。君のような賢い女性を、ずっと探していたのだ」

 その言葉に、心臓がどくんと大きく跳ねた。

 わたしを、探していた……?

* * *

 その日の夕方、屋敷に戻ると、様子がいつもと違った。

「お、お嬢様っ! レオン様が……あの……」

 メイドが慌てて駆け寄ってきた。
 そして、わたしの部屋の前で待っていたのは――あの人だった。

「……エマ」

 久しぶりに見る顔。
 でも、もうあのときとは違う。わたしの中の“恋する心”は、もう跡形もなく消えていた。

「……何のご用ですか、レオン様」

「ちょっと、話がしたくて……その……さっきの、学会の発表……すごかったな。まさかあんな大勢の前で、しかも第二王子まで反応するなんて……」

 レオン様の顔には、焦りと、驚きと、そして少しの――後悔がにじんでいた。

「……それで?」

「いや、その……エマ、君って、やっぱり……すごい人だったんだなって思って……。もし、気が変わったなら……」

「ごめんなさい。わたし、忙しいので」

 ドアを閉めようとしたとき、レオン様の手がわたしの手首をつかんだ。

「ちょっと待ってくれよ……! あのときは、俺も若くて、考えが浅くて……今は違うんだ! 本当に、君のことが――」

「あなたには、わたしの価値が見えなかった。それだけです」

 わたしは、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「それが、すべてです。今さら……遅いです」

 手首を振りほどき、ドアを閉めた。

 静寂。
 でも、その中で、わたしの心はすごく穏やかだった。

 ああ、やっと終わったんだな――って。

* * *

 それから数日後、わたしの元には、王宮からの正式な書簡が届いた。

 差出人は、第二王子クロノス・エル・リュクセリア様。

《君の知性と強さに、心から敬意を表します。もし許されるなら、再びお会いしたく思います》

 わたしは、手紙を胸に抱きしめて、小さくつぶやいた。

「今度こそ……信じても、いいのかな」

 その声は、涙よりもあたたかくて、過去よりも明るかった。










 王宮からの正式な書簡を手にしてからというもの、わたしの日常は少しずつ変わり始めた。

 でも、それはバラ色の変化なんかじゃなかった。
 むしろ、周囲の視線は前よりずっと冷たくなった気がする。

「第二王子に気に入られた? まさかねぇ……平民の出でしょ?」

「運がよかっただけよ。すぐ捨てられるわ、そんな子」

 影でささやかれる声。
 昔の自分だったら、きっと泣いていた。

 でも、今はもう泣かない。
 あの言葉を思い出すだけで、ちゃんと立っていられる。

「君のような賢い女性を、ずっと探していた」

 クロノス様の、まっすぐな目と、あたたかい声が、わたしの中にずっと残っていた。

* * *

 そして、ついにその日が来た。

 ――第二王子クロノス殿下との、謁見の日。

 王宮の迎賓室に案内され、息が詰まりそうなほど緊張しながら待っていたら、重厚な扉がゆっくりと開いた。

 そして、彼は――まるで絵本の中から出てきたような、美しい騎士のように現れた。

「やあ、エマ嬢。来てくれてありがとう」

 すらりとした長身、青い瞳、整った顔立ちに、堂々とした立ち居振る舞い。
 なのに、声だけはとてもやさしくて、ふしぎなくらい心に染みてきた。

「こ、こちらこそ……お招きいただき、光栄です」

 うまく言えたか自信はなかったけれど、クロノス様はにっこり微笑んでくださった。

「緊張してるね。でも無理もないか。……僕も、実は少し緊張してるんだ」

「えっ……殿下が、ですか?」

「君に会えるのを、ずっと楽しみにしていたからね」

 ぽかんと、口を開けてしまった。
 頭の中で「え……えっ?」って声が何回もぐるぐるしてる。

「君の論文、何度も読み返したよ。あんなに誠実で、鋭くて、民の目線を持った研究をした女性に会うのは初めてだった」

「……そ、そんな……恐縮です」

「恐縮です、なんて言葉じゃ足りないくらい、僕は感動したんだよ」

 そんなふうに言われたの、初めてだった。
 貴族令嬢たちはわたしを笑い、レオン様はわたしの“素朴さ”を見下した。

 でもクロノス様は、わたしの中の“知性”や“努力”を、ちゃんと見てくれていた。

 それだけで――胸が、じんわりと温かくなって、涙が出そうだった。

「君は、強い人だ。どんな境遇でも、自分の力で前に進める。でも……それだけじゃない。優しくて、あたたかい心も持っている」

 そんなこと、どうしてわかるんだろう。
 わたしはうつむいて、そっと指先を握った。

「……わたし、自分に誇れるところなんてないって、ずっと思ってました」

「それは違う。君は……誇るべき人だ。僕が保証するよ」

「…………っ」

 涙があふれそうになって、でもこらえた。
 こんなところで泣くなんて、恥ずかしい。そう思ったのに。

「泣いてもいいんだよ」

 その言葉があまりにも優しくて、ダメだった。

 ぽろぽろと、涙がこぼれていく。

「……ずっと、がんばっても、報われなくて……わたし、間違ってたのかなって、思ってたんです……」

「間違ってなんて、いない。君のままでいい。いや……君がいいんだ」

 クロノス様の手が、そっとわたしの肩に触れた。

「僕は、君の隣にいたい。これからも、ずっと」

 まっすぐな言葉が、胸に突き刺さった。
 恋とか愛とか、そんなものはもう信じないと、心に決めていたのに。

 でも、こんなに温かくて、誠実で、心から「君がいい」と言ってくれる人に出会ったら――

「……わたしで、よければ」

 わたしは、かすれた声で、そう答えた。

* * *

 その夜、窓の外に浮かんだ月が、なぜかとても大きく見えた。

 風がやさしく吹いて、カーテンをふわりと揺らす。

 胸の奥がぽかぽかして、ああ、これが“幸せ”ってやつなのかもしれないって、少しだけ思った。

 だけど。

「エマ……君、まさか王子様に気に入られたくらいでいい気になってないだろうね?」

 ――その声は、もう二度と聞きたくなかったはずの人だった。

「……レオン様。なぜ、ここに?」

 あんなに終わったはずの人が、なぜまた、わたしの目の前に現れるの?

「僕は、君のことを、まだ……」

 その先の言葉を、わたしはもう聞かなかった。

 わたしには、もう進むべき道がある。
 振り返る理由なんて、どこにもない。

「……帰ってください。あなたには、わたしの価値が見えなかった。それがすべてです」

 きっぱりと言い放って、背を向けた。

 ドアの向こうで、何かを叫んでいたけれど、もうどうでもよかった。

 クロノス様が、わたしのことを「必要だ」と言ってくれる限り、
 わたしは前を向いて歩ける。

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