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第10話 世界がざわつく夜、精霊王の宣言
しおりを挟むそれは、やけに静かな朝だった。
鳥の声も少なく、風もほとんど吹いていない。
なのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
うすく雲のかかった空を見上げながら、エリシアは小さく息を吐く。
「……今日、なんだか、変な感じがします」
「変な感じって?」
肩の上から、ピクシアがあくびまじりに覗き込んでくる。
今朝は珍しく寝癖がついていて、金の髪がぴょこんと跳ねていた。
「森が静かすぎるというか……」
「うん、それは当たり」
ピクシアは、パチンと指を鳴らした。
「精霊たちが、みーんな“黙って様子見”モードに入ってる。
世界がざわつきすぎて、下手に動きたくないってさ」
「世界が、ざわつく……」
エリシアが言葉を繰り返した、その背後。
ふっと影が落ちる気配がした。
「的確な表現だな。小さな精霊」
あまりにも自然に混ざってくる低い声。
エリシアは振り返らなくても分かった。
「ルシアン……」
振り向けば、そこにいる。
境界の王は、いつものように森の影から現れていた。
黒い外套が、風もないのにふっと揺れる。
金の瞳が、じっとこちらを見つめている。
「おはよう、で合ってますか?」
「挨拶としては問題ない」
真顔で返されて、思わず苦笑してしまう。
それでも、ルシアンの表情はいつもと少し違った。
静かなのに、どこか急いている気配。
その違和感に、エリシアの背筋がひやりと冷えた。
「……何か、あったんですね」
「隠し事は苦手か」
ルシアンは軽く息を吐いた。
その仕草ひとつで、空気の密度が変わる。
「境界の崩壊が、加速している」
短い言葉が、重く落ちる。
「昨日の夜、遠方の結界がひとつ、完全に壊れた。
黒い霧が溢れ、人間界では地割れやら謎の病やらが同時に起きている」
「……そんな……」
エリシアは、胸の奥をぐっと掴まれたような感覚に、思わず胸元を押さえた。
遠い場所の出来事なのに、他人事に思えない。
境界に触れて以来、世界の痛みがどこかで自分に繋がっているのを感じてしまう。
「でも、それは――」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「やっぱり、わたしが境界に触ってしまったから、ですか……?」
自分の存在のせいで、世界が壊れている。
そんな発想が、真っ先に浮かんでしまう。
ルシアンは即座に首を振った。
「違う」
その否定は、驚くほど速く、はっきりしていた。
「君の存在が原因ではない」
「でも……」
「むしろ逆だ」
ルシアンは、一歩近づいてくる。
エリシアの目の前まで来て、その金の瞳でまっすぐ見つめた。
「君が“いない世界”が、限界を迎えつつあるだけだ」
「…………え?」
思考が、一瞬止まった。
世界が壊れつつあるのは、自分のせいじゃない。
――それは分かる。
でも、「君がいない世界だから」と言われる意味が、すぐには理解できない。
「どういう……こと、ですか」
「境界色の魂は、本来、世界が揺らぎすぎないように生まれてくる」
ルシアンは、ゆっくり説明を続ける。
「光と闇のバランスが大きく崩れる前に、
“両方を見て、両方に触れられる存在”として、時々現れる」
指先で、空に小さな光点を描くように動かす。
「だが、ここ数百年。
人間たちは境界の声を聞かなくなった」
祠は忘れられ、祈りは形だけになり、魔道具が“神頼み”の場所を奪っていった。
「“境界に座る魂”が生まれたときでさえ、誰も気づかず、役目を知らないまま、ただ疲弊して消えていった」
エリシアの胸の奥が、じわりと痛む。
自分の前にも、同じように揺れていた魂がいたのだろうか。
「世界は、ずっと我慢してきた。
ひびが入っても、裂け目ができても、境界は自分で自分を修復し続けてきた」
光の層と闇の層が、何度もぶつかり合っては落ち着くイメージが浮かぶ。
「だが、限界はある」
ルシアンの声が、少しだけ低くなる。
「“境界色”が十分に機能しないまま何度も時代を越え――
ようやく生まれた君も、“魔力ゼロの無能”と決めつけられ、切り捨てられた」
「……」
「それでも君は、境界に触れた。
世界のほうが、君に触れにいった、と言ってもいい」
あの亀裂の前。
手を伸ばしたときに感じた、奇妙な懐かしさを思い出す。
「あれは、“最後の足掻き”だ」
ルシアンの表情がわずかに険しくなる。
「このままでは、本当に崩壊する。
だから境界は、君に触れた。
“ここにいてくれ”と」
「……わたしに、いてほしい?」
自分の存在に、そんな言葉が向けられるとは思わなかった。
「言葉にすれば、そうなる」
ルシアンは淡々と頷く。
「世界が限界を迎えつつあるからこそ、君が必要になっている。
君が存在しているから壊れているわけではない」
その言い回しは、不思議なほど真っ直ぐだった。
否定でも慰めでもなく、ただ事実として。
エリシアの胸の中に、小さな灯がともる。
(わたしのせい、じゃない)
それだけで、肩の荷が少し軽くなる。
でも、その次に生まれた感情は――
「……もし、わたしが」
ためらいながらも、エリシアは言葉を続けた。
「世界の修復に関われるのなら」
自分の中から、信じられない言葉が出てくる。
「誰かの役に、立てるかもしれないんですね」
“役に立てる”。
その言葉は、ずっと自分が届かなかった場所にあるものだと思っていた。
「魔力ゼロの無能」
「足を引っ張るだけ」
「家の価値を下げる」
そう言われ続けてきた自分が、もし――
世界の、誰かの、何かの役に立てるのだとしたら。
「……少しだけ、嬉しいです」
口にした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ピクシアが、肩の上でにやっと笑う。
「ほら、やっと顔が“ご主人様”っぽくなってきたじゃん」
「ご主人様顔ってなんですか……」
「“ちょっと世界救えるかも”って顔」
「そんな顔してました!?」
「してた」
ピクシアとルシアンの返事が同時に返ってきて、エリシアは思わず俯いた。
頬が熱い。
「……でも、世界を救うなんて、大げさすぎます」
「境界色の魂が動くとき、世界は必ず揺れる」
ルシアンは淡々と続ける。
「それが“救い”になるか、“崩壊”になるかは、その魂の選択次第だ」
「プレッシャーのかけ方が雑なんですよ、陛下」
ピクシアがジト目で睨む。
「もうちょいオブラートに包んで。“一緒に頑張ろうね☆”くらい言いなよ」
「☆はつけない」
「そこじゃない!」
くだらないやり取りに、エリシアの緊張が少しだけほぐれた。
でも、ルシアンの次の言葉は、再び空気を張り詰めさせる。
「だからこそ――決断する必要がある」
「決断……?」
また何か、と身構える。
ルシアンは、空を見上げた。
森の上、雲のさらに向こう。
人間界と精霊界の間に浮かぶ、“境界の宮廷”。
「境界の宮廷で、会合を開く」
「会合……」
「人間界と精霊界の代表を、それぞれ呼び寄せる。
世界の現状を伝え、今後の方針を決めるための場だ」
その言葉の重さを、エリシアはすぐには掴みきれなかった。
ルシアンは続ける。
「そこで、私は君の存在を“公式に”示す」
「……え?」
「精霊王として宣言する」
金の瞳が、射抜くようにエリシアを見た。
「境界の魂を持つ人間の娘エリシアを――
“精霊王の花嫁候補”として迎える、と」
空気が、一瞬、本当に止まった。
鳥の声も、風の音も、全部消えたみたいに。
エリシアの頭の中で、ひとつの言葉がぐるぐる回る。
(花嫁候補)
「ま、ままま待ってください!」
とっさに手をぶんぶん振っていた。
「いきなり全世界に“花嫁候補です”って宣言するのは、いろんな意味で心臓に悪いんですけど!?」
「“候補”だ。
まだ正式な伴侶ではないと、きちんと前置きする」
「そこは分かってますけど! でも!」
言葉がうまくまとまらない。
ピクシアが、黙って聞いていたかと思うと――
「いや、いいじゃん」
さらっと言った。
「……よくないですよ!?」
「いや、いい。むしろ最高」
ピクシアは、腕を組んでニヤニヤする。
「だってさ」
エリシアの顔の前までふわっと飛んで、ニヤリと笑った。
「あんたを捨てた世界に、“あんたが選ばれた”ことを見せつけてやればいいじゃん」
「……っ」
胸の奥が、きゅっとなる。
「王都のやつらも、家族も、元婚約者も、みーんなこう思うよ」
ピクシアは、わざとらしく声を低くして真似をした。
「“あれ? 捨てた娘、めちゃくちゃ重要人物になってない……?”って」
「性格悪いですね!?」
「妖精だもん」
胸を張って言うな、と思った。
でも、ピクシアの言葉は、決して“復讐”だけを勧めているわけじゃないのが伝わってくる。
「あんたが選ばれたって事実をさ」
ピクシアは、少し真面目な声になった。
「“誰かを見返すため”じゃなくて、“あんた自身のため”に受け止めてほしいんだよ」
「わたし自身の……」
「今までのあんたってさ。
“役に立てなきゃ”、
“誰かに認められなきゃ”って、存在してる価値がないみたいに思ってたでしょ」
図星だった。
「でも今は違う。
世界が、“境界そのもの”が、“あんたにいてほしい”って言ってる」
その言葉は、胸の奥の一番深い場所に触れた。
「だからさ」
ピクシアは、ちいさな手でエリシアの頬をつん、と突く。
「“わたしなんかが、花嫁候補なんて”って言い方やめよ?」
「う……」
「“わたしが”“精霊王の花嫁候補として世界会議に出てやるか”くらい言っていい」
「ハードルの上げ方えぐくないですか!?」
「大丈夫。顔がついてきてないだけで、心はもうそこまで行ってる」
「どんな評価……」
でも――
(わたしのために、行く)
さっきのピクシアの言葉が、静かに胸に残っていた。
ルシアンが、ほんの少しだけエリシアに近づく。
「誤解してほしくない」
「え?」
「これは、君を“政治の道具”として利用するための宣言ではない」
その言い方は、やけに真剣だった。
「世界のため、精霊界のため、人間界のため――
そういった観点は、もちろんある」
ルシアンは、視線だけ空へすべらせる。
「だが、それ以上に」
金の瞳が、またエリシアへ戻る。
「君の存在を、“君の目の前で”否定させないための宣言でもある」
「……」
「誰かが、“魔力ゼロの無能”と笑い飛ばそうとしたとき。
“精霊王が花嫁候補として選んだ娘だ”という事実を、突き付けられる」
その言葉は、ある意味で残酷だ。
でも、ひどく心強くもあった。
「君が、それを望まないなら、やめる」
ルシアンは、はっきりと言った。
「境界の宮廷に呼ぶことも、宣言することも。
全部、やめる」
彼の目には、一切の冗談がなかった。
「世界がどうなろうとも、君を守ることを優先する道もある」
「ルシアン……」
エリシアは、ぎゅっと両手を握りしめる。
怖い。
境界の宮廷なんて場所に行くのも。
“花嫁候補”として世界に知られるのも。
家族がどう反応するか、王都がどう騒ぐかを想像するだけで、胃が痛い。
それでも――。
「わたし」
息を吸って、吐いて。
もう一度、吸って。
「“花嫁”としての覚悟は、まだ……ちゃんとできてません」
それは誤魔化しじゃなくて、本音だ。
「ルシアンのことも、まだよく知らないし。
世界のことも、境界のことも、分かってないことだらけで」
ルシアンが、何か言いかけて――やめる。
エリシアは、小さく笑った。
「でも、“わたし自身のために”……行ってみたいです」
その言い方に、ピクシアが目を丸くし、すぐににやりと笑う。
「おー、言ったね?」
「撤回はしません」
エリシアは、肩の震えを押さえながら続ける。
「世界のため、とか、誰かのため、って言葉を言えるほど、立派じゃないので」
「立派とか関係ないよ」
ピクシアが、ぽん、と肩を叩いた。
「今のあんたの“正直”は、それだもんね」
「はい。
わたし、自分がどう生きたいかをちゃんと知りたいから」
境界の宮廷に行けば、嫌でも自分と向き合うことになる。
家族の顔も、きっとそのうち見ることになる。
王都の視線も、世界の噂も、全部まとめてぶつかってくるだろう。
「逃げたいって思うかもしれないけど……」
エリシアは、ルシアンを真っ直ぐ見た。
「その場所で、“どうして生きたいか”を考えてみたいです」
ルシアンの瞳が、わずかに揺れた。
それから、ゆっくりと細められる。
境界の王の表情は、どこか満足げだった。
「――了承した」
短く、それだけを告げる。
「君を、境界の宮廷へ招く。
私の隣に、“候補”として立たせる」
「……よろしくお願いします」
エリシアが頭を下げると、ピクシアがすかさず突っ込んだ。
「なんか就職の面接みたいなノリになってるけど、大丈夫?」
「やめてください、余計緊張する……!」
笑い混じりのやり取りの中で、ルシアンがふっと手を伸ばした。
エリシアのほうへ向けられたその手は、触れても触れなくてもいい距離で止まる。
「境界の宮廷は、君にとって居心地のいい場所ではないかもしれない」
「でしょうね……名前からしてすでに重いです」
「だが、その場でこそ見えるものがある」
ルシアンの声は、静かに熱を帯びていた。
「人間界の代表たちの顔。
精霊界の長たちの思惑。
世界の本当の“揺れ方”」
「……はい」
「そのすべてを見たうえで、君がどう生きるかを決めればいい」
“選べ”とは言わない。
でも、その言葉には、確かに“託し”が含まれていた。
「準備は、こちらで整える。
君は――」
ルシアンは、少しだけ表情を和らげた。
「まずは、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと泣け」
「最後だけなんか雑じゃないですか?」
「境界の魂は、感情を溜め込むとすぐ世界に漏れるからな」
「あー……それは、そうですね……」
ピクシアが苦笑し、エリシアもつられて笑った。
怖い。
でも、逃げたくない。
その感情が、今は半分ずつ胸の中にあった。
◆ ◆ ◆
――夜。
空は、黒ではなく、深い紺だった。
星々がちらちらと瞬き、その間に細い光の線がいくつも走っている。
そこは、人間界の夜空と精霊界の闇が重なり合う場所。
世界と世界の間に浮かぶ、広大な宮廷。
透明な床の下には、星空と同じ数の光が流れている。
天井は見えないほど高く、その奥では、光と闇がゆっくりと渦を巻いていた。
「……これが、“境界の宮廷”」
エリシアは、思わず息を呑んだ。
森から一歩踏み出した瞬間、足元の感覚が変わった。
ルシアンが手を差し伸べ、その手を取って歩いた先に、広がっていた景色。
膝が震える。
「落ちないから大丈夫」
肩の上で、ピクシアが言った。
「落ちても、あたしが引っ張るけどね」
「それ、さりげなくすごいこと言ってません?」
「妖精だから」
自慢げに胸を張るな、と心の中で突っ込む。
目の前には、長い円形のテーブルのようなものが浮かんでいた。
片側には、精霊たちの姿。
光の精霊、闇の精霊、風や水をまとった存在たちが、それぞれの席に静かに座っている。
もう片側。
そこには、人間たちの姿があった。
アルセリア王国の王と思しき人物。
王太子クラウド。
各国の重鎮たちや、大神官のような姿も見える。
エリシアは、視線を滑らせながら――
一瞬、呼吸を忘れた。
(……父様)
アルディネス公爵が、そこにいた。
いつも通りの端正な顔。
けれど、どこか強張った表情で、境界の宮廷の光景を観察している。
エリシアの姿に気づいていない。
まだ、ルシアンの隣に立っている彼女を、自分の娘だとは思っていない。
胸が、ひどく痛んだ。
「エリシア」
ルシアンの声が、すぐそばで響く。
彼は、一段高い位置へと歩み出た。
精霊王としての席。
境界の中心に立つべき場所。
「ここからは、私の役目だ」
ルシアンは、ちらりとエリシアを振り返る。
「君は、ここに立っていればいい」
エリシアは、彼の横――少しだけ後ろの位置に立った。
足が震える。
でも、逃げない。
ピクシアが肩の上でちょこんと座り、耳元で囁いた。
「大丈夫。もし倒れそうになったら、あたしが“こけたの誤魔化す光”出してあげるから」
「そんな器用な光あるんですか……」
「研究中」
「今はやめてくださいね!?」
ひそひそとやり取りをしているうちに、空気が変わった。
ルシアンが、一歩前へ出る。
境界の宮廷に、静寂が落ちた。
人間の代表たちが息を呑み、精霊たちが軽く頭を垂れる。
ルシアンは、全員を見渡し――
高らかに、声を上げた。
「境界の宮廷に集いし者たちよ」
その声は、静かで、圧倒的だった。
「今この瞬間も、世界の境界は揺れている。
光と闇のバランスは崩れかけ、人間界と精霊界の双方で異常が起きている」
人間側の席で、ざわめきが起きる。
クラウドが、拳を握りしめているのが遠目にも見えた。
アルディネス公爵の指先が、かすかに震えている。
「このままでは、世界は緩やかな崩壊へと向かう」
ルシアンは、淡々と告げる。
「それを止めるために――」
彼は、隣に立つエリシアへ軽く視線を向けた。
エリシアは、息を呑む。
境界の王の金の瞳が、ほんの僅かに柔らかくなった気がした。
「私は、一つの選択をした」
ルシアンは、再び全員を見回す。
精霊たちの目が、興味と畏れと期待で輝く。
人間たちの目が、緊張と不安で揺れる。
「私は――」
一拍。
世界が、息を止めた。
「境界の魂を持つ人間の娘、エリシアを」
その名が、境界の宮廷に響き渡る。
人間側の席が、一瞬でざわめきに包まれた。
アルディネス公爵の顔から、血の気が引く。
クラウドの瞳が、大きく見開かれる。
(……見つかった)
エリシアの胸が、苦しいほど締め付けられる。
それでも、逃げなかった。
視線を逸らさず、前だけを見る。
「伴侶候補として迎え、この世界を共に救うことを望む」
宣言は、静かで、揺るぎなかった。
ルシアンの声が、境界を通って世界中へと響いていく。
精霊界の奥深く。
人間界の王都。
遠い村。
森の中。
祠の前。
ありとあらゆる場所で、「エリシア」という名前が、初めて“世界の言葉”として刻まれる。
「私は精霊王ルシアンとして――」
ルシアンは、もう一度、はっきりと言った。
「境界の魂エリシアと共に、世界の歪みを癒すことを、ここに宣言する」
その瞬間。
精霊界の空が、ふっと明滅した。
人間界の夜空にも、一瞬だけ見慣れない光の筋が走る。
王都では、人々が一斉に空を見上げた。
「今の……」
「なんだ? 光が……」
「“エリシア”って、聞こえなかったか?」
アルセリア王城のバルコニーで、ラティナは震える手で胸元を押さえた。
「お姉様……」
囁いた声は、誰にも届かない。
貴族のサロンでは、噂好きたちが一斉に立ち上がる。
「精霊王の花嫁候補、“エリシア”……?」
「あの名は、確かアルディネス公爵家の――」
「追放された娘、ではなかったか?」
世界が、一夜にして新しい名前を覚え始めた。
森の奥では、ライナスが剣を握りしめたまま空を見上げていた。
「……エリシア様」
後悔と願いが、ただ一言に凝縮されている。
◆ ◆ ◆
境界の宮廷。
すべての視線が、エリシアに集まっていた。
恐怖と緊張で足は震えている。
それでも――彼女は、ほんの少しだけ顎を上げた。
(これが、わたしの“はじまり”なんだ)
捨てられた令嬢としてではなく。
魔力ゼロの無能としてでもなく。
世界に名指しされた、“境界の魂”としてのはじまり。
肩の上で、ピクシアが小さく笑う。
「ね、悪くないでしょ。世界中が“エリシアって誰だ!?”ってざわついてるよ」
「……想像すると、ちょっとおかしいですね」
「そうそう。その“ちょっとおかしい”って感覚、忘れないで」
ルシアンが、ちらりとエリシアを見た。
黄金の瞳に映るのは、決して“駒”ではない。
ひとりの存在として選び、隣に立たせた“候補”としての娘。
エリシアは、小さく息を吸った。
まだ、彼の求婚に「はい」とは言えない。
でも――世界の揺らぎの中で、自分の立つ場所を見つけるために。
(ここから、ちゃんと選んでいく)
逃げ続けた過去とも。
まだ見ぬ未来とも。
世界がざわつく夜。
その中心に、彼女の名前が、確かに刻まれたのだった。
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