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第19話 「新しい国のかたち」
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朝は、濡れた石畳の匂いを優しく押し上げていた。
灰は夜の雨で洗われ、路地のすみには小さな紙舟がいくつも引っかかっている。子どもたちが字を練習した切れ端だ。
私は胸の紙束を抱え、王宮への坂を登る。隣でカイルが歩幅を合わせ、時々、私の指の震えを誤魔化すように親指でそっと押してくれる。
「緊張してる?」
「してる。昨日、あれだけ叫んだのに、今は喉が小さくなった気がする」
「大丈夫。叫ぶより“届く”話し方がある」
「うん。……あなたは?」
「剣を抜かないぶん、足が重い」
「正直でよろしい」
南の門をくぐると、王宮の前庭に人の列ができていた。
市場の女、粉屋の男、洗濯場の娘、祈祷堂の老人。みんな各自の紙を握りしめている。夜のうちに回した名簿の追記だ。雨に滲んだ指印もある。
兵は道をあけ、礼式監が私たちに近づいた。昨日よりわずかに柔らかい目で。
「王前へ。……襟は立っているか」
「はい」
「なら、行きなさい」
大広間の扉が開く。
王は玉座に座り、両脇に文官。第一王子の席は空だ。宰相の影もない。
空白は、昨日の火と雨の跡だ。
私は中央へ進み、膝が笑わないように爪先で床の模様を確かめる。
カイルが半歩前に出て、一礼した。
「陛下。――“仕組み”を、提案しに来ました」
王は頷く。
「聞こう」
私は紙束をひらき、深呼吸を一度だけ。
声は、叫ばない。届くように、置いていく。
「名を。アメリア=レオンハルト。“ミリア”として市井で字を教えた者です。 ……提案は三つ。
一つ、民の代表が意見を交わす『民議会』の設置。王の決裁の前に、議事録を公開します。
二つ、読み書きの権利を身分なく保障。王都と各村に読み書きの場を常設し、費用は王宮と自治で折半。
三つ、出立記録と行幸の割を常時掲示。衛兵の命令書は写しを市井に出し、緊急時は口頭より紙を優先する」
ざわめきが、規則正しく広間を回った。
反対の声は予想済みだ。私は先に橋を置く。
「『王は必要か』と問う声があるでしょう。……必要です。最終の責任を負う“舌”が、一つは要るから。
けれど同時に、“数の舌”も要る。火を分けるために。民議会は、そのための器です」
文官の一人が手を上げる。
「民議会の代表は、どう選ぶ」
「読み書きの有無で分けません。読み上げ隊を含め、口述でも参加可能に。代表の選出は区ごとに紙と声、双方で行います」
「費用は」
「王宮の倉から紙と炭、半分。市井から机と屋根、半分」
「治安は」
ここで、私はカイルに目をやる。
彼はゆっくり頷き、前へ出る。
「剣で守るのは最後だ。まず、掲示と議事の透明化で鎮める。衛兵には“読み上げ手当”を。剣だけでなく、声も仕事にする」
重臣の列から、抑えた嘆息。
礼式監が静かに問う。
「――“王の座”は、どう扱う」
広間の空気が一段低くなる。
カイルは玉座を振り返り、また王へ向き直った。
「俺は、王でなくていい。だが、逃げない」
「どういうことだ」
「王冠は、今は陛下に。俺は“民議会の議長”として責任を持つ。王冠は道具だ。道具は、目的が整ってから手に取る」
王はしばし黙し、目だけが深く動いた。
その沈黙を割るように、前列の男が一歩出た。粉屋街の代表だ。
「陛下。……昨夜、俺たちは剣を下ろしました。代わりに紙を持ちました。王がそれを“受け取る手”であるなら、俺は王を信じます」
祈祷堂の婆が杖をこん、と落とす。
「襟、立ってるかい」
広間のどこかで笑いが零れ、すぐに静まる。
王は、ゆっくりと立ち上がった。
年齢の重みは背にあるのに、声は澄んだ水みたいだった。
「提案を受ける。――“民議会”を置く」
波紋みたいな息の音。
王は続ける。
「読み書きの場を増やし、出立記録と命令書は掲示する。口頭は紙に勝てぬ。
それから、アルフォード。汝は“民議会の議長”として仕組みを動かせ。王冠は、今は渡さぬ。だが、逃げるな」
「はい」
文官が一斉に筆を走らせる。
私は紙束の最後の一枚を持ち上げた。名簿。雨に滲んだ印と、拙い字の行列。
「この名は、昨夜“剣を置いた手”の数です。今日からは“紙を持つ手”の数になります」
広間の後ろから、小さな声がした。
「『し・ん・じ・る』」
振り向くと、昨日の少年が、母の手を握って立っている。礼式監が目を細め、兵が槍を下げた。
王は少年に頷き、玉座の前へ呼び寄せた。
「名は」
「テオ」
「テオ。汝の声を、ここに置いた。……もう帰って、勉強せよ」
「はい!」
笑いが、今度は広がって消えた。
その明るさの端で、鎖の鳴る音がした。
振り向けば、別室から連れて来られた男が一人。
アルヴィン。
手には縄。顔は蒼白でも紅潮でもなく、ただ、疲れていた。
王の合図で、彼は前に出る。
「アルヴィン・クレスト。汝は“舌の秩序”に仕えるあまり、人の秩序を見落とした。――裁きは続く。だが、問う。汝は今、何を見る」
アルヴィンは視線を上げ、私を一秒、カイルを一秒、民を二秒、王を一秒。
最後に、落とした。
「……“並ぶ”という言葉の意味を、初めて見ました」
王は頷く。
「ならば並べ。剣の横でなく、紙の横に」
縄がほどかれはしない。けれど、衛兵の手の力がわずかに緩んだ。
決まるべきことは、次々と定められていった。
民議会は区ごとに席を持ち、読み上げ隊は正式な“言葉番”として登録される。
会期は月二度、王の謁見の前日。
議事録は広場と市門に掲示。
教育の場は祈祷堂、洗濯場の隅、粉屋の裏庭、庵だった場所――それぞれに机が置かれ、炭と紙が届く。
文官が項目を読み上げるたび、私は心のどこかで小さな火が灯るのを感じた。
“仕組み”の音は剣の音より地味だけど、長く残る。
儀は短く、実務は長い――その逆転が、今日の王宮だった。
昼すぎ、広間の空気が少し軽くなった頃、礼式監が私の前に進み出た。
「……“抱擁は一度まで”の条件、覚えているか」
私は思わず笑ってしまう。
「ええ。今日は、まだ一度も」
カイルが咳払いをして、真顔のまま耳元で囁く。
「後で、儀礼として」
「後で、私的に」
「規則違反だ」
「努力します」
王は玉座の肘掛けに手を置き、軽く打った。
「民を入れよ」
扉が開き、前庭に並んでいた人々が一団ずつ入ってくる。
粉屋、洗濯場、魚市場、祈祷堂、庵の村から来た若者。
彼らは玉座の手前で立ち止まり、言葉を置いた。
不平も、希望も、お願いも、文句も、笑いも。
それらが紙の上に重なっていく。
“国の声”が、初めて国の中央に積まれたのだと、胸の奥が静かに理解する。
その日最後の来訪は、老婆だった。杖で床をこん、と一度。
「襟、立ってるね」
「はい」
「なら、読みな。王様にも、兵にも、市井にも、同じ字で」
王が笑った。年齢の皺がやわらかく深くなる。
「読みなさい。……皆で」
私は紙を掲げた。
最後に読むべき、今日の一枚。
炭の字は少し曲がって、でも、はっきりしている。
「『火は渡る。言葉も渡る。――信じる』」
広間にいた全員が、同じ速度で繰り返した。
兵も、文官も、粉屋も、子どもも、王も。
同じ発音で、同じ高さで。
その瞬間だけ、肩書きは音に溶けた。
◇
夕刻。
王宮の回廊を抜ける風は、朝よりあたたかい。
私たちは小さな書庫に移り、机の上に今日の議事の控えを積む。紙の匂いが心を落ち着かせる。
カイルが窓を少し開け、深く息を吸った。
「……終わった?」
「始まった」
「だよね」
「うん」
エリオットが扉にもたれて、半分だけ顔を出す。
「おめでとう、“議長”殿。先生。王は満足していた。礼式監は眉間に皺を増やした。文官たちは筆を削り直した。――つまり、朝より世界はましになった」
「あなたは?」
「俺は半分、信じてる。半分は、監視する」
「それがあなたの仕事だもんね」
「そう。……それと、庵の村から伝言。春に学校を増やす準備を始めた。先生、帰って来いって」
胸が、やわらかく揺れた。
「帰る。――いつかじゃなくて、“行ったり来たり”で」
エリオットが親指を立て、手をひらひらさせて消える。
書庫に静けさが戻った。
窓の外では、王都の屋根の上に、早い星が一つ。
私は机の端に腰を下ろし、カイルの肩に額を預ける。
「ねぇ、王子」
「議長だ」
「じゃあ、カイル」
「うん」
「今日、抱擁の“儀礼”は、もう済んだ?」
「まだだ。……儀礼として、ここで」
彼は半歩近づいて、私を抱きしめる。
書庫の木がほのかに鳴り、紙が息をする。
胸の中で、昨日の灰の匂いが遠くなり、かわりに新しいインクの匂いが満ちていく。
「俺は王でなくていい」
彼は耳元で静かに言う。
「でも、逃げない。――この“仕組み”からも、君からも」
「うん。私も逃げない。字からも、人からも、あなたからも」
抱擁をほどくと、机の上の紙に光が落ちた。
私は筆をとり、今日の最後の一文をしたためる。
《本日、民議会の設置可決。王前記録に登録。》
《“読む人”が、国のかたちを決め始めた》
《明日の議題:庵の村に学校を》
筆先が止まる。
深呼吸。
笑い。
涙は、出ない。
代わりに、胸の奥で火が静かに強くなる。
「帰ろうか」
カイルが言う。
「どこへ」
「庵の村へ。……すぐじゃなくていい。けど、近いうちに」
「うん。春に。花祭りの前に」
「花冠、作れる?」
「去年より、上手に」
「俺も。剣より、花の輪のほうが難しいけどな」
「大丈夫。練習は裏切らない」
回廊に出ると、王都の夕暮れがひろがっていた。
前庭では、読み上げ隊が新しい紙を掲げている。
『民議会 第一回 来月二日』
『読み上げ手 募集』
『字の教室 市場裏』
子どもが走り、女が笑い、男が肩を叩く。
王宮は、いつもより“町”に似ていた。
石段を降りる前に、一度だけ振り返る。
玉座の方角は、もう光に溶けて見えない。
でも、わかる。
“あそこに王がいて、ここに人がいる。両方が同じ言葉を持った。今日から、それがこの国のかたちだ”
胸の鍵が、音もなく歯を合わせた。
紙の束は軽く、でも温かい。
「行こう、カイル」
「ああ」
私たちは並んで歩き出す。
剣を抜かずに、言葉で前へ。
王である前に人として。
人であるから王を選べるように。
新しい国のかたちを、今日から毎日、書き足していくために。
灰は夜の雨で洗われ、路地のすみには小さな紙舟がいくつも引っかかっている。子どもたちが字を練習した切れ端だ。
私は胸の紙束を抱え、王宮への坂を登る。隣でカイルが歩幅を合わせ、時々、私の指の震えを誤魔化すように親指でそっと押してくれる。
「緊張してる?」
「してる。昨日、あれだけ叫んだのに、今は喉が小さくなった気がする」
「大丈夫。叫ぶより“届く”話し方がある」
「うん。……あなたは?」
「剣を抜かないぶん、足が重い」
「正直でよろしい」
南の門をくぐると、王宮の前庭に人の列ができていた。
市場の女、粉屋の男、洗濯場の娘、祈祷堂の老人。みんな各自の紙を握りしめている。夜のうちに回した名簿の追記だ。雨に滲んだ指印もある。
兵は道をあけ、礼式監が私たちに近づいた。昨日よりわずかに柔らかい目で。
「王前へ。……襟は立っているか」
「はい」
「なら、行きなさい」
大広間の扉が開く。
王は玉座に座り、両脇に文官。第一王子の席は空だ。宰相の影もない。
空白は、昨日の火と雨の跡だ。
私は中央へ進み、膝が笑わないように爪先で床の模様を確かめる。
カイルが半歩前に出て、一礼した。
「陛下。――“仕組み”を、提案しに来ました」
王は頷く。
「聞こう」
私は紙束をひらき、深呼吸を一度だけ。
声は、叫ばない。届くように、置いていく。
「名を。アメリア=レオンハルト。“ミリア”として市井で字を教えた者です。 ……提案は三つ。
一つ、民の代表が意見を交わす『民議会』の設置。王の決裁の前に、議事録を公開します。
二つ、読み書きの権利を身分なく保障。王都と各村に読み書きの場を常設し、費用は王宮と自治で折半。
三つ、出立記録と行幸の割を常時掲示。衛兵の命令書は写しを市井に出し、緊急時は口頭より紙を優先する」
ざわめきが、規則正しく広間を回った。
反対の声は予想済みだ。私は先に橋を置く。
「『王は必要か』と問う声があるでしょう。……必要です。最終の責任を負う“舌”が、一つは要るから。
けれど同時に、“数の舌”も要る。火を分けるために。民議会は、そのための器です」
文官の一人が手を上げる。
「民議会の代表は、どう選ぶ」
「読み書きの有無で分けません。読み上げ隊を含め、口述でも参加可能に。代表の選出は区ごとに紙と声、双方で行います」
「費用は」
「王宮の倉から紙と炭、半分。市井から机と屋根、半分」
「治安は」
ここで、私はカイルに目をやる。
彼はゆっくり頷き、前へ出る。
「剣で守るのは最後だ。まず、掲示と議事の透明化で鎮める。衛兵には“読み上げ手当”を。剣だけでなく、声も仕事にする」
重臣の列から、抑えた嘆息。
礼式監が静かに問う。
「――“王の座”は、どう扱う」
広間の空気が一段低くなる。
カイルは玉座を振り返り、また王へ向き直った。
「俺は、王でなくていい。だが、逃げない」
「どういうことだ」
「王冠は、今は陛下に。俺は“民議会の議長”として責任を持つ。王冠は道具だ。道具は、目的が整ってから手に取る」
王はしばし黙し、目だけが深く動いた。
その沈黙を割るように、前列の男が一歩出た。粉屋街の代表だ。
「陛下。……昨夜、俺たちは剣を下ろしました。代わりに紙を持ちました。王がそれを“受け取る手”であるなら、俺は王を信じます」
祈祷堂の婆が杖をこん、と落とす。
「襟、立ってるかい」
広間のどこかで笑いが零れ、すぐに静まる。
王は、ゆっくりと立ち上がった。
年齢の重みは背にあるのに、声は澄んだ水みたいだった。
「提案を受ける。――“民議会”を置く」
波紋みたいな息の音。
王は続ける。
「読み書きの場を増やし、出立記録と命令書は掲示する。口頭は紙に勝てぬ。
それから、アルフォード。汝は“民議会の議長”として仕組みを動かせ。王冠は、今は渡さぬ。だが、逃げるな」
「はい」
文官が一斉に筆を走らせる。
私は紙束の最後の一枚を持ち上げた。名簿。雨に滲んだ印と、拙い字の行列。
「この名は、昨夜“剣を置いた手”の数です。今日からは“紙を持つ手”の数になります」
広間の後ろから、小さな声がした。
「『し・ん・じ・る』」
振り向くと、昨日の少年が、母の手を握って立っている。礼式監が目を細め、兵が槍を下げた。
王は少年に頷き、玉座の前へ呼び寄せた。
「名は」
「テオ」
「テオ。汝の声を、ここに置いた。……もう帰って、勉強せよ」
「はい!」
笑いが、今度は広がって消えた。
その明るさの端で、鎖の鳴る音がした。
振り向けば、別室から連れて来られた男が一人。
アルヴィン。
手には縄。顔は蒼白でも紅潮でもなく、ただ、疲れていた。
王の合図で、彼は前に出る。
「アルヴィン・クレスト。汝は“舌の秩序”に仕えるあまり、人の秩序を見落とした。――裁きは続く。だが、問う。汝は今、何を見る」
アルヴィンは視線を上げ、私を一秒、カイルを一秒、民を二秒、王を一秒。
最後に、落とした。
「……“並ぶ”という言葉の意味を、初めて見ました」
王は頷く。
「ならば並べ。剣の横でなく、紙の横に」
縄がほどかれはしない。けれど、衛兵の手の力がわずかに緩んだ。
決まるべきことは、次々と定められていった。
民議会は区ごとに席を持ち、読み上げ隊は正式な“言葉番”として登録される。
会期は月二度、王の謁見の前日。
議事録は広場と市門に掲示。
教育の場は祈祷堂、洗濯場の隅、粉屋の裏庭、庵だった場所――それぞれに机が置かれ、炭と紙が届く。
文官が項目を読み上げるたび、私は心のどこかで小さな火が灯るのを感じた。
“仕組み”の音は剣の音より地味だけど、長く残る。
儀は短く、実務は長い――その逆転が、今日の王宮だった。
昼すぎ、広間の空気が少し軽くなった頃、礼式監が私の前に進み出た。
「……“抱擁は一度まで”の条件、覚えているか」
私は思わず笑ってしまう。
「ええ。今日は、まだ一度も」
カイルが咳払いをして、真顔のまま耳元で囁く。
「後で、儀礼として」
「後で、私的に」
「規則違反だ」
「努力します」
王は玉座の肘掛けに手を置き、軽く打った。
「民を入れよ」
扉が開き、前庭に並んでいた人々が一団ずつ入ってくる。
粉屋、洗濯場、魚市場、祈祷堂、庵の村から来た若者。
彼らは玉座の手前で立ち止まり、言葉を置いた。
不平も、希望も、お願いも、文句も、笑いも。
それらが紙の上に重なっていく。
“国の声”が、初めて国の中央に積まれたのだと、胸の奥が静かに理解する。
その日最後の来訪は、老婆だった。杖で床をこん、と一度。
「襟、立ってるね」
「はい」
「なら、読みな。王様にも、兵にも、市井にも、同じ字で」
王が笑った。年齢の皺がやわらかく深くなる。
「読みなさい。……皆で」
私は紙を掲げた。
最後に読むべき、今日の一枚。
炭の字は少し曲がって、でも、はっきりしている。
「『火は渡る。言葉も渡る。――信じる』」
広間にいた全員が、同じ速度で繰り返した。
兵も、文官も、粉屋も、子どもも、王も。
同じ発音で、同じ高さで。
その瞬間だけ、肩書きは音に溶けた。
◇
夕刻。
王宮の回廊を抜ける風は、朝よりあたたかい。
私たちは小さな書庫に移り、机の上に今日の議事の控えを積む。紙の匂いが心を落ち着かせる。
カイルが窓を少し開け、深く息を吸った。
「……終わった?」
「始まった」
「だよね」
「うん」
エリオットが扉にもたれて、半分だけ顔を出す。
「おめでとう、“議長”殿。先生。王は満足していた。礼式監は眉間に皺を増やした。文官たちは筆を削り直した。――つまり、朝より世界はましになった」
「あなたは?」
「俺は半分、信じてる。半分は、監視する」
「それがあなたの仕事だもんね」
「そう。……それと、庵の村から伝言。春に学校を増やす準備を始めた。先生、帰って来いって」
胸が、やわらかく揺れた。
「帰る。――いつかじゃなくて、“行ったり来たり”で」
エリオットが親指を立て、手をひらひらさせて消える。
書庫に静けさが戻った。
窓の外では、王都の屋根の上に、早い星が一つ。
私は机の端に腰を下ろし、カイルの肩に額を預ける。
「ねぇ、王子」
「議長だ」
「じゃあ、カイル」
「うん」
「今日、抱擁の“儀礼”は、もう済んだ?」
「まだだ。……儀礼として、ここで」
彼は半歩近づいて、私を抱きしめる。
書庫の木がほのかに鳴り、紙が息をする。
胸の中で、昨日の灰の匂いが遠くなり、かわりに新しいインクの匂いが満ちていく。
「俺は王でなくていい」
彼は耳元で静かに言う。
「でも、逃げない。――この“仕組み”からも、君からも」
「うん。私も逃げない。字からも、人からも、あなたからも」
抱擁をほどくと、机の上の紙に光が落ちた。
私は筆をとり、今日の最後の一文をしたためる。
《本日、民議会の設置可決。王前記録に登録。》
《“読む人”が、国のかたちを決め始めた》
《明日の議題:庵の村に学校を》
筆先が止まる。
深呼吸。
笑い。
涙は、出ない。
代わりに、胸の奥で火が静かに強くなる。
「帰ろうか」
カイルが言う。
「どこへ」
「庵の村へ。……すぐじゃなくていい。けど、近いうちに」
「うん。春に。花祭りの前に」
「花冠、作れる?」
「去年より、上手に」
「俺も。剣より、花の輪のほうが難しいけどな」
「大丈夫。練習は裏切らない」
回廊に出ると、王都の夕暮れがひろがっていた。
前庭では、読み上げ隊が新しい紙を掲げている。
『民議会 第一回 来月二日』
『読み上げ手 募集』
『字の教室 市場裏』
子どもが走り、女が笑い、男が肩を叩く。
王宮は、いつもより“町”に似ていた。
石段を降りる前に、一度だけ振り返る。
玉座の方角は、もう光に溶けて見えない。
でも、わかる。
“あそこに王がいて、ここに人がいる。両方が同じ言葉を持った。今日から、それがこの国のかたちだ”
胸の鍵が、音もなく歯を合わせた。
紙の束は軽く、でも温かい。
「行こう、カイル」
「ああ」
私たちは並んで歩き出す。
剣を抜かずに、言葉で前へ。
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